選別

@hitsuji

第1話

 アラームの音で目が覚めると、一瞬の混乱の後、脳はすぐに覚醒した。安物の遮光カーテンは思っていた以上に効果がなく、朝は朝らしく白かった。開くとそこには変わらぬ水平線が見える。船は間違いなく進んでいるはずだが、ここから見える景色は昨日と何ら変わりなかった。

 今日はいつもよりも一時間半早い起床だった。これは、選別の日は普段より早く起きた方がいいという説に従ってのことだった。誰が言い出したことなのか、信憑性があるのかどうかも分からないが、それくらいのことであれば説に従う方が無難だと思ったのだ。

 冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して飲む。口の中の粘りは多少取れたが、苦味のようなものが喉に残った。それは水のせいではない。やはり選別の日の朝には独特の緊張感がある。私は毎朝コーヒーを淹れて飲むのだが、今日は止めておいた。

 部屋を出て共用の手洗い場へ行く。ステンレスで作られた昔ながらの手洗い場では、まだ早い時間にもかかわらず、すでに二人の男が顔を洗っていた。彼等は夜勤明けなのか、それとも私と同様に今日選別を受けることになっている者なのか、二人とも知らない顔だったので尋ねることはなかった。

 私は部屋から持ってきた剃刀で髭を剃った。蛇口にはネットに入れられたピンク色の石鹸がそれぞれ掛かっている。私はそれを両手で包み擦った。相変わらず泡立ちが悪い。腕が疲れるほど擦ってやっと顔を洗えるくらいの量の泡ができた。

 顔を洗ってしまってからハンドタオルを部屋に忘れたことに気付いた。些細なことだが朝からいきなりつまづいてしまったことを私は暗く思った。逆に、悪いことが先に出たと考えることもできるのだが、そもそもそんな考えに正解など無い。選別前はやはり物事に過敏になってしまう。仕方がないので着ていたシャツの裾で濡れた顔を拭いた。顔を上げると先程までいた二人の男達はもういなくなっていた。

 部屋に戻ってシャツを着替え、時計を見ると六時五分前だった。選別は十時からだ。まだあと四時間もある。いや、その前に九時からの一時間だけは通常通り業務に入らなければならないのだ。なぜ選別前のデリケートな時間に業務に入らなければならないのか、私には理解ができなかった。いつも通りのパフォーマンスができないことは明白で、そんな人間が業務に入ることは船にとって危険なことではないかと私は思う。

 しかし、そういえば選別前の一時間は特に注意深く監査部から見られているから注意した方がいいという説も聞いたことがある。選別にまつわる他の説と同様にこれも信憑性の無い話だが、あながち無くも無い話かもしれないと思った。確かに精神力を試すという意味では打ってつけの状況ではある。

 選別前は朝食を抜いた方がいいという説もある。なので少し迷ったが、けっきょく私は朝食を食べに行くことにした。説だ説だと言っていたら何もできなくなってしまう。ある程度の取捨選択は必要だと思った。それに腹も減っていた。

 部屋を出て食堂を目指す。食堂は三階の船首近くで、私の部屋は四階の船尾手前だからそれなりに遠い。私は船に乗ってからずっとこの部屋に住んでいる。希望をすれば他の空いている部屋に移ることも可能なのだが、別にそこまでの不自由は感じていなかった。船首近くの廊下は海に面している。今朝の海は穏やかで、風が気持ち良かった。昨晩は早くから眠っていたので気付かなかったのだが、夜のうちに雨が降ったようで、床が少し濡れていた。いつもこの廊下を清掃している清掃員が吸水モップで床を掃除していた。

 食堂は空いていた。普段私が朝食を取るのは勤務開始時間前のピークの時間帯なので、食堂はいつも満席状態だった。しかし今はまだ数えられるくらいしか人がいなかった。一人で食べている人がほとんどだが、中には数人で集まって食べている人もいる。みんなで携帯ゲームをして笑っている男達はおそらくプリント部か封入部の夜勤明けだろう。明らかに今さっき起床した人間のテンションではなかった。

 私は積まれたトレーの一番上を取りカウンターへ向かった。普段は五~十分は並ぶところを待ち時間無しで進めるのは少し気持ちが良かった。コック服を着た男がカウンターの中から、和食か? 洋食か? と私に尋ねた。最近は毎日この男がここにいる。真っ白なコック服に身を包んでいるにもかかわらず、どこか小汚い印象を覚える男だった。ちょっと前までは別の男が同じように毎日いたのだが、この男が来てからは一度も見ていない。もしかするとあの男は選別の結果、別の職場へ異動したのかもしれない。失礼ながら、あの男もコックらしい人間には見えなかった。ここの食堂の料理は基本的にはレトルト食材の盛り付けなので、専門的な技能が無い人間にでも務まるのだ。

 昨日の朝は和食だったので、今朝は洋食にした。朝食はこの二択しかない。コック服の男は頷くと、積まれたクロワッサンの山から二つをプラスチックのプレートの一番広いスペースに置き、残りのスペースにベーコンエッグとレタスのサラダを手早く盛り付けた。私はICカードの船員証を読取機にかざす。支払いは都度精算ではなく天引き制になっていた。コック服の男が、本来洋食ならばコーンスープしか選べないのだが、今なら特別に味噌汁に変えてやってもいいぞ、と言った。しかし私はコーンスープのままで構わないとそれを断った。味噌汁が特に好きだという人間ではない限り、洋食メニューであれば普通はコーンスープを選ぶだろうと私は思う。男が残念な気持ちを隠すような顔をしたことには気付いていたが、それ以上何も言うことは無かった。

 窓際の、外の景色がよく見える席に座った。こんなにゆっくりと朝食を食べるのはいつぶりだろうか。普段は席を待っている人もいるので、どうしてもせかせかとした食事になってしまっていた。クロワッサンもベーコンエッグもレタスのサラダも、一定の周期で朝食に出てくるので特別な感情は何も湧かなかった。

 遠くの空を数羽の鳥が飛んでいるのが見えた。流れる雲の間を縫って彼等は飛ぶ。その場所がどのくらい遠いところなのか私には分からない。ただ、そこにも世界があることをあの鳥達は図らずとも証明していた。



 指定された会議室の前に集合時間の五分前に着くと、すでに男と女が一人ずついた。二人とも顔に見覚えはないが、状況から見て彼等も私と同様にこれから選別を受ける船員だと考えて間違いないだろう。二人とも壁にもたれかかることもなく、真っ直ぐに背筋を伸ばして正面の壁を見つめて立っていた。見た感じ私とあまり変わらない年頃に見えた。おそらくこの二人も私と同様のオペレーターランクの船員なのだろうと思った。私も黙って二人の横に並んで立った。

 その一分後くらいにもう一人男がやってきた。この男の顔には見覚えがあった。確か印刷機を回すプリント部の男だ。私よりもだいぶ歳上だと思うのだが、ここにいるということは彼もまだオペレーターランクなのだろうか。それとも別ランクの人間と一緒に選別を受けることもあるのだろうか。

 指定された集合時間から一分を過ぎるか過ぎないかくらいのタイミングでドアが開いた。男が一人出てきて、私達四人に中に入るよう指示をした。

 中に入ると椅子が四つ並べられており、私達は奥から女、男、私、プリント部の男の順でそれぞれ椅子の前に立った。向かいには真っ白いテーブルクロスが敷かれた長机があり、女と男がそこに一人ずつ座っていた。無機質な部屋だった。ここにいる人間が座るために用意された物以外は、部屋の隅に観葉植物が一つ置いてあるだけだった。それ以外は何も無かった。

 私達を招き入れた男が一番端の空いていた席に座り、それで長机の三つの席が埋まった。彼等は試験官と呼ばれている監査部の幹部ランクの人間である。これは選別にまつわる数少ない正確な情報だった。船内のランクは上から役員、幹部、班長、リーダー、オペレーターで分けられている。オペレーターである私にとって、幹部ランクの人間など普段は会うこともない雲の上の存在だった。試験官は幹部の中でもまた特殊なポジションであり、三人とも一目見ただけで優秀な人間なのだということが分かった。一番左に座る男は五十代後半か六十代前半くらいに見える。白髪混じりの髪、左頬に親指くらいの大きさのあざがあった。真ん中に座る女は年齢は掴めなかったが、少し時代遅れに思えるスーツを着ていた。長い髪を後ろで一つ括りにして、口紅は赤とピンクのちょうど真ん中くらいの色だった。一番右の私達を招き入れた男はまだ若かった。試験官としてこの場にいるということは幹部ランクなのは間違いないので、さすがに三十代ではないと思うのだが、そう言われても頷けるくらいに若く見えた。実際は四十代前半くらいだろうか? だとすれば幹部としては異例の若さだ。ジェルで固められた黒髪は綺麗なオールバックになっており、カッターシャツは眩しいくらいに白い。袖元には銀のカフスが光っていた。三人とも笑顔は無く、権威のある人間特有のじめっとした威圧感を纏っていた。

 唾を飲み込むと、水風船一個分くらいの重みが身体の中に落ちてきたように思えた。緊張しているのだ。これ以上唾を飲み込んだら吐いてしまうかもしれないと思った。

「どうぞ座ってください」

 試験官の女に言われ、私達はそれぞれの椅子に座った。動きを与えられたことで一瞬緊張が和らいだが、それでも姿勢を崩すことはない。当然背中を椅子に預ける者など一人もいなかった。

 試験官の三人は私達を見て手元の資料を並び替えていた。おそらく座っている順に並び替えているのだろう。内容までは見えないが、それぞれがA4サイズの資料を四枚ずつ持っているので、おそらく一枚の資料に一人ずつの情報がまとめられているのだろう。私は軽く握った手の中に汗をかいていた。そして右端の試験官が話し始めた。

「では、これより選別を始めます。あなた達は船の規定に基づいて監査を行った中で、それぞれ一定の要件を満たしていると判断されたため、今回選別対象者となりました。これから私達からいくつかの質問を投げかけます。それに対して各々の考え、意見、思想を回答してください」

 私が選別を受けるのは今回で三回目だが、冒頭の試験官の言葉はいつも同じだった。私の隣に座る男が、よろしくお願いしますと声を張ったので、つられて選別対象者全員が同じように声を張った。

「あなた達は、どのようなところに業務を遂行することにより得られる喜びがあると考えますか?」

 左端の試験官が私達に投げかけ、促すような目で左端に座る女を見た。奥から座っている順に答えろという意味のようだった。前の二回は手を挙げた者から順に回答していたのだが、回答の順番は試験官によって変えられるようだった。左端に座る女は不意に自分が最初の回答をしなければならなくなったことに戸惑ったのか、反射的にあっ、はいと弱々しい声を漏らした。彼女も相当緊張しているようだった。

「業務を遂行することで自らの居場所が作り出され、社会の中で自分という存在を位置付けることができるところに喜びがあると私は考えます」

 女が声を張って回答した。試験官は三人とも表情を変えずに頷くだけで、彼女の回答に対してどのような感想を持ったのかは掴めなかった。次の男の回答は言葉こそ少し変えてはいたが、内容的には最初の女と同じようなものだった。次は私が回答をする番である。二人同じような回答が続いたので、違う角度からの回答に変えた方が試験官の印象に残るだろうと私は考えた。

「日々繰り返すことで自分自身の成長を確かに感じられるところに喜びがあると私は考えます」

 予想はしていたが、試験官達は私の回答に対しても先の二人の時と同じような反応だった。しかし自分としては先の二人とは違う回答を上手く言えたという感触があった。

「報酬を受け取る瞬間にのみ、喜びがあると私は考えます」

 プリント部の男の回答に対しても試験官は表情を変えなかったが、この場にいる誰もがそれを安直過ぎる回答だと思っただろう。捻りが無さすぎる。それに報酬という言葉は下品で、選別の場には相応しくないように思えた。プリント部の男がこの年齢でまだここにいる理由が何となく分かったような気がした。彼はおそらく右端の試験官よりも歳上だと思われる。そう考えると急にこの男の人生を不憫に感じた。しかし選別の場に情けは無い。プリント部の男が落ちてくれて、その分私が選ばれる可能性が上がるのであれば、それはありがたいことだと思った。

「あなた達が日々の業務で大切にしていることは何ですか?」

 この質問に対して、私はあえて最初の女の回答に少し言葉を付けたすような形で回答をした。間の男が少し違った回答だったのを受けてのことだった。選別において最も大事なのは回答のバランスだと言われている。そういう意味では常に最初の回答を求められる女は運が悪かった。プリント部の男はこの質問に対しても安直な回答をしていた。質問は前回は五問、その前は四問だった。今回は何問なのか分からないが、今のところ順調に回答できていると思った。

「あなた達はバナナは好きですか? 好きか、嫌いか、またその理由を教えてください」

 試験官の女からの質問だった。彼女は表情を崩さずに言った。前回もこのような意表を突いた質問があった。

「食物繊維やミネラル、ビタミンがバランスよく含まれており、身体に良いので私は好きです。よく朝食に食べます」

「ビタミンB6を上手に取り入れられ、効率よくアンチエイジングができるので好きです。私は夜に食べることが多いです」

 前の二人が予想以上に上手く回答をした。それで私は混乱した。バナナに関しての有益な情報が何も浮かんで来ない。女試験官が私を見ていた。感情の無い目だった。しかし口元は少し笑んでいた。私の焦りを読み取っているようだった。私は何とか回答をしたものの、それはどう考えても上手い回答ではなかった。明らかな失敗だった。

 続くプリント部の男はまた安直な回答をしていた。横を盗み見ると、先に答えた女と男の顔には確かな自信が見えた。たった一問で大きく印象が変わる。やられたと思った。しかし、まだ質問はいくつか残っているはずだ。ここから取り返せばいいと思い、私は目立たないように深呼吸をした。握りしめた掌は汗でべっとり濡れていた。

 試験官が次の質問を投げかけた。



 お電話ありがとうございます、本日はどのようなご用件でしょうか、と私が言い切る前に、相談者の女は食い気味で、この前なんですけど、と話し始めた。決して若くはない声だった。怒っているようだった。

「この前なんですけど、よくある郊外型の、ああいうのは何と言うのでしょうね。量販店? ディスカウントストア? とにかく、馬鹿でかくて、様々な種類のものが売っているお店ですよ、ほら、あなたも何となくイメージはできているのでしょう? 私だって、名前は分かっているんですけどね。ちょっとそれを口に出すのも嫌になるようなことがあって、今からその話をするんですけど。あれは先週の、確か水曜日ですね。週の中頃で、そう、水曜日です。間違いありません。火曜日の夜に私が毎週観ているドラマを見逃して、それを翌日に後追い配信で観ながら昼食を食べた後にあの店に行ったことをはっきりと覚えています。あの日、私は息子が誕生日に欲しいと言っていたゲームソフトを買いに行ったんです。そのゲームソフトは人気シリーズの続編で、別にあの店でなくてもどこでも買えるのですが、あの店で買ったら付いてくる限定の特典が割と趣味の良いマグカップだったので、あの店で買うことにしたのです。私があの店に行ったのは今回が初めてでした。元々、何となく不潔なイメージを持っていたので必要に迫られない限りわざわざ行こうという気持ちになりませんでした。あぁ、もちろんこれは偏見ですよ。何かが起きる前の私の一方的なイメージです。そういう偏見が物事の本当の姿を歪曲させてしまうことがあるのは私だって分かっています。だけど今回のことはそういうレベルの話ではなかったんです。だからこうして電話をかけることにしたんです」

 私はなるべく相談者を刺激しないよう、寄り添うようなトーンで、承知いたしました、お聞かせいただけますでしょうかと言った。どういうタイプの相談者にはどういう話し方をすべきか、全てマニュアルに書いてある。私はそれに従った応対を心がけていた。

「ゲームソフトはすぐに見つかりました。人気商品だったのでしょうね。目立つところに置いてありました。でもレジの位置が分からなかったんです。なんせ店内は広くて、あの店、私が行った店舗は全部で三階も売り場のフロアがあるんですよ。さらに四階と五階は駐車場で、それなのに一つ一つのフロアの広さもとてつもないんです。相当歩きましたよ。まさに化け物だと思いました。自分は化け物に飲み込まれたのだと。そう考えたら店内に山のように積まれたケバケバしい色をした海外のお菓子とか、カーワックスとか、いやらしくて安っぽいテラテラした洋服だとか、そんな訳の分からないもの達は、化け物に飲まれたまま消化されない沈殿物のように思えてきました。あ、すみません。話の本筋から脱線していましたね。それに、消化されずに残ったものを沈殿物と呼んでいいのか、正直言って私には分かりません。が、他に合う言葉が見つからず使ってしまいました。それからしばらく探して、やっとレジを見つけたんです。でも誰もいなかった。レジがあって店員がいない時は、普通はcloseとか準備中とかそういうことが書かれたプレートが立ててあると思うのですが、そういうものは何もありませんでした。でも別にそこに対しては怒っていないんです。問題はその後です。私は他のレジを探して店内をさらに歩きました。するとフロアの端、おそらく中古品なのだと思いますが、少し傷の付いた腕時計が大量に陳列された棚の前にレジを見つけました。中には女が二人いました。どちらも私より全然若い、とは言っても三十手前くらいでしょうか、もう若者とは言えないくらいの年齢でした。派手な化粧をしていて、二人ともあの店のイメージキャラクターが書かれたエプロンを付けていたので店員だと分かったのですが、それが無かったら私は多分あの二人のことを店員だとは思わなかったでしょう。そして二人は双子ではないかと思えるくらいにそっくりでした。ただ、本当の血縁者ではないだろうと何故か私は確信めいてそう思いました。彼女達はガムをくちゃくちゃと噛んで、客である私が近づいても止めなかった。私は彼女達にこのゲームソフトを買いたいんですと言いました。すると一人の女が、あ、そうなんですか? とまるで他人事のように私に言いました。こいつは何を言っているのだろう、というような目をしていました。おかしな話だとは思いませんか? 私はレジに買いたい商品を持って行っただけなんですよ。そんな目で見られる筋合いはありません」

 その通りだと思います、と私は言った。話の脈絡は分からないが、私の隣で別の電話対応をしていたオペレーターもその通りだと思います、と同じようなタイミングで同じことを言っていた。

「もう一人の女がここのレジは化粧品と時計の専用なのであっちにあるレジに行ってくださいと言いました。女が指を差した方向からして私が先程行ったレジのことを言っているのは間違いありませんでした。この女にいたっては私に対して嫌悪感を剥き出しにしてきました。それで、さすがに私もカチンときました。あっちのレジにはさっき行きましたが誰もいませんでした、と女にはっきりと言いました。彼女達は二人ともそんなはずはないと私に言いました。一人は馬鹿にしたような笑みを浮かべていました。しかし誰もいなかったのは事実です。私は嘘などついていません。確かにいなかったと、強い口調で言い返しました。すると笑っていた女の顔から笑みが消え、首から下げていた携帯電話でどこかに電話をかけました。女が、お前今どこ? と厳しい口調で言ったと思ったら、すぐに向こうの方からまだ十代くらいの若い男の子の店員が走ってきました。男の子は笑顔ですみませんと謝りましたが、二人の女の顔に笑みは無く、電話をかけた方の女がレジ横に置いてあった重そうなジッポを男の子に投げつけました。ジッポは彼の肩に当たりました。すごく痛そうでした。もし頭に当たっていたら大怪我をしたかもしれない。女はまた次のジッポを彼に投げようとしました。私はさすがにまずいと思って彼女を止めようとしたのですが、逆にそれを男の子に止められました。彼は、いいんです、僕が品出しで少し持ち場を離れてしまっていたので、僕が悪いんで、いいです、と笑顔で私に言いました。彼は一人の女に店のバックヤードに連れて行かれました。残った女は仕方がないという感じで溜息をつき、特別にここのレジでそのゲームソフトの精算をする、と言いました。今回だけだと二度も念を押されました。それで私は会計を済ませて家に帰りました。あなた、この話を聞いてどう思いますか?」

 私は、その女達の接客態度は最悪であり、根本から接客対応の研修をやり直すべきだと思いますと言った。しかしそれに対しての女の反応はあまり良くなかった。若干の苛立ちを含んだ声でまた話し始めた。

「接客態度が最悪なのはもちろんそうなのですが、それはもう私があの店に行かなければ終わりにできる話です。これから他の誰かがまたあの女達の接客態度で嫌な気持ちになろうと、それはその人とあの女達の間の話であって、私が気にすることではありません。考えてみてください。一番の問題は接客態度ではなく、そこに虐めがあるということではないですか? 彼女達は間違いなくあの男の子を虐めています。それも慢性的にです。あの僅かな時間だけでもそれが分かりました。こんな卑劣で汚い行為が許されていいと思いますか? ねぇ、あなた、私は何もあの店の接客態度を咎めるためにわざわざこんな電話をかけたわけじゃなんですよ。虐めという絶対的な悪を許したくないから電話をかけたんです」

 私は、申し訳ございません、虐めは絶対的な悪であり、それを許せない気持ちは私も痛いくらい分かりますと伝えた。それを訴えかけることはとても勇気のある行動だと、称賛もした。それからまた少し話を聞いて、けっきょく通話時間十二分で終話した。通常、電話対応は五分での終話が理想とされている。今の相談者は熱量が高かったのである程度は仕方がないのだが、それでも大幅な時間オーバーには変わりない。女が話していたあの店というのがどの店なのか、けっきょく最後まで分からなかった。

 今の相談者についての応対記録をシステムに入力していると、メールが新たに数件来ていることに気付いた。未開封状態になっているので、おそらくまだ誰も対応していない。私は受信から一番時間が経っているメールを開いた。

『お世話になります。私には今年八十になる祖父がいます。幼い頃からよく遊んでもらい、二人だけで登山をしたこともあります。あの年代の人にしては背も高く、本当に元気なお爺ちゃんでした。しかしここ数年で急速に認知症が進んでしまっているようです。それは日々進行しており、週に一度様子を見に行っている母親曰く、今はもう私のことも忘れてしまっているだろうとのことでした(実の娘である自分のことすら怪しいと言っていました)。祖父は身体もだいぶ弱ってきているようで、現在は介護型の老人ホームに入っています。私自身、学校を卒業して働くようになり忙しくなったということもありますが、そのような状態になってから一度も祖父に会いに行っていません。人によってはそれを冷たいと言う人もいます。しかし私は、私のことを忘れてしまった大切な人に対して、正直言ってどう接していいのかが分からないのです。もちろん怖くもあります。そんなことを思っている間にも時間はどんどん過ぎていきます。祖父に会いに行かないことは間違ったことなのでしょうか。ご意見をいただければと思います』

 私はすぐに返信ボタンを押してキーボードを打ち始める。

『お世話になります。お祖父様の件、心中お察しいたします。大切な人が自分のことを忘れてしまうというのは確かに怖いことです。それが現実に起こってしまっていることだと、頭では分かってはいても認めたくない気持ちは分かります。私はそここそがあなたがお祖父様に会いに行くことを避ける一番の理由なのだと考えます。あなたは変わってしまったお祖父様を認めたくないのだと思います。実際に目にしない限り、それはあくまでただの言葉であり、想像の域を超えません。理由は分かりませんが、お母様があなたに嘘をついている可能性も完全には否定できないはずです。なぜならあなたはまだそれを自分の目で確かめてはいないからです(お母様に対して失礼な言い方になってしまっていたら申し訳ございません)。実際に会って事実を確認してしまったらもう逃げ場はありません。あなたはそれを受け入れるしかなくなってしまいます。つまりはそれが怖いのだと思います。それは別に間違ったことではありません。しかし私は、それでもあなたはやはりお祖父様に会うべきだと思います。例えお祖父様があなたを忘れていようと、このまま会わなければあなたは必ず後悔します。お祖父様のお歳もいただいたメールにありました。時間は無限ではありません。深く考えず、まず会ってみた方がいいのではないかと私は思います。考えるのはそれからでも遅くはないです。最後にもう一度、迷うことは間違ったことではありません。大切なのはこれからです。また何かございましたら、いつでもメールをお待ちしております』

 私は自分の打ったメールを二度読み直してから送信ボタンを押した。前に文面チェックを怠ったオペレーターが誤字だらけのメールをそのまま相談者に送ってしまいクレームになったことがあり、それからこの二度読みチェックが作業工程に追加された。

 メール対応した相談者の記録をシステムに入力していると、隣のオペレーターが「はい、窓のサッシのパッキンですね」と言っているのが聞こえた。彼は、ええ、ええ、と相槌を打った後、困ったような声で「それは確かに不良品の可能性がありますね」と言っていた。住宅関係の問い合わせなのだろうと思った。

 私の所属する受付部には毎日様々な問い合わせが寄せられる。受付部は船の中でもプリント部、封入部に次ぐ規模の部署で、部署内でさらに三つの班に分かれる。一つの班は班長を含めてだいたい十人前後で構成されているので、部署全体では約三十人ほどの船員が所属していることになる。問い合わせは電話とメールで来て、その内容は相談者によって様々だった。私達は自社の製品に対しての問い合わせ対応を行っているわけではない。毎日様々な相談者から寄せられる問い合わせに対して、ただ話を聞いて応対をする。それが私達の業務だった。

 私は船に乗ってからずっと今の受付部に所属していた。船に乗ってから何年が経ったのかは分からない。私は学校を卒業してすぐに船に乗った。でもあれが何年前のことなのかが分からない。毎日同じ業務を繰り返していると、だんだん日付の感覚がなくなってくる。暑かったり寒かったり、かろうじて季節感はあるのだが、別に今が夏だろうと冬だろうとやることは変わらないのだし、変わらず海の上を進み続ける船の中で季節に対して特別な意味を見出すことはできなかった。

 十七時のチャイムが鳴り、業務終了時間となった。私は今日の応対記録をまとめてシステム上で班長に送り、パソコンの電源を落とした。隣に座っていたオペレーターがお疲れ様と私に声をかけて部屋を出て行った。私も彼にお疲れ様と返す。彼とは毎日顔を合わせるが、それ以外の言葉を交わしたことはなかった。



 昼休みの食堂で一人昼食を食べていると同じ班の田丸さんが来た。

 前いいか? と聞かれ、どうぞと答えた。田丸さんは私よりも前から班にいる先輩だった。誰とでも気さくに話せる性格で、業務以外でも班の他のメンバーと積極的にコミュニケーションを取っていた。そういう人はこの船には少ない。基本的には業務以外でのコミュニケーションを避けたがる人が多かった。私にしても業務以外でこうやって話をするのは田丸さんくらいだった。

 私と田丸さんは同じBプレートを食べていた。今日のメニューは鯖の味噌煮ときんぴらごぼう、豆腐のサラダにご飯と味噌汁だった。もちろんいつもの男が盛り付けていた。昼食のランチプレートにはAプレートとBプレートがあり、Aプレートの方が少し豪華で値段が高い。私はほとんどいつもBプレートを選んでいた。他にうどんとカレーライスもあるにはあるが、あまり評判が良くなかった。

「選別はどうだった?」

 田丸さんは鯖の味噌煮を頬張りながら聞いた。

「ダメでした」

「ダメって? 変動無しだったってこと?」

 私は頷いた。昨日、正式に班長から書面で「変動無し」として選別の結果通知を受け取っていた。田丸さんは、そうかぁ、と言って味噌汁をすすった。

 やはりあの三問目の回答が良くなかった。あのバナナの質問に対して上手く答えられなかったところからリズムが崩れ、その後の四問目と五問目も上手く答えることができなかった。ダメだろうとは薄々思っていた。だから通知を受けた時もそこまで大きな落胆はなかった。

「変動無しだからって、必ずしもダメだってわけじゃないぜ」

 田丸さんは私を箸で指して言った。

「そうなんですか?」

「変動無しっていうのは、つまりは変わらなくてそのままでいいって意味だからな。今の班の今のポジションが合ってると判断されたから変動無しってこともある。ちょっとポジティブに考えてみろよ」

「でもけっきょくは選ばれなかったということじゃないですか」

 田丸さんは私を慰めようとしてそんなことを言っているのだと思った。選ばれた船員には「変動無し」ではなく「選出」の通知が来る。「選出」こそが選別における絶対的な成功ではないのか。

「選ばれることが必ず良いことだなんて誰が決めた? 知ってるか? 選別で選ばれて降格した奴もいるって話だぜ」

「本当ですか?」私は驚いた。

「あくまで説の一つだよ。でもそういう奴を見たという奴を知っている奴がいたよ」

 そう言って田丸さんは笑った。選別に対して出回っている説について、いったいどのくらいのものが本当なのだろうか。しかし今の説が本当だとすると、選別を受けること自体にもリスクを伴なうことになる。それはあまり考えたくない話だった。

 ちょっと甲板行こうぜ、と言われ、田丸さんも昼食を食べ終わっていることに気付いた。田丸さんは食べるのが早い。私達はプレートと皿を返却カウンターに返し食堂を出た。階段を上り甲板まで出ると、外は風もなく穏やかな天気だった。かもめの鳴き声が聞こえたような気がして空を見上げたが、その姿を見つけることはできなかった。昼休みなので多くの船員が甲板に出ていた。

 私が甲板の前の方に行こうとすると、おい、そっちじゃないよ、と田丸さんは反対の方向を指差した。連れられて行ったのは甲板のほとんど一番後ろにある電圧室の階段下の少し隠れた場所だった。男が一人座り込んで煙草を吸っていた。田丸さんもポケットから煙草を取り出して火をつけた。田丸さんが煙草を吸うのを見るのは初めてだったので少し驚いた。

「煙草吸うんですね」

「まぁ、ストレス解消法の一つだよ。ずっと止めてたんだけど最近また始めた」

 しかし喫煙は船の規定で禁止されている行為だった。さすがに処分を受けるまでのことはないと思うが、厳重注意にはなるだろう。こんな隠れた喫煙所があるなんて私は知らなかった。久しぶりに煙草の匂いを嗅いだ。そういえばこんな匂いだったなと少し懐かしい気持ちになった。私も学校に通っている頃に付き合いで何度か吸ったことがある。

 先に煙草を吸っていた男が立ち上がり、慣れた手つきで階段にかけてあったスプレー型の消臭剤を自分の身体に吹きかけた。ここにはここのルールがあるのだなと思った。

「煙草なんてどこで手に入れるんですか?」

「まぁ、いろいろあるんだよ」

「インターネットですか」

「それもある」

 田丸さんはそう言って煙を吐き出した。船の売店で売っているものなんて一部の生活必需品に限られており、それ以外のものは皆インターネットを通じて購入する。インターネットで買ったものは週に一度ヘリコプターでまとめて船に搬入される。それ等は一度管理部がまとめて受け取り、購入者や品名等の情報を確認したうえで本人にわたされた。煙草や酒など、船の規定で持ち込みを禁止されているものは、管理部が発見次第、違反品として破棄される。だからインターネットを通じてだとしても煙草を手に入れることは簡単ではない。ましてやそれ以外の方法となると、私には想像もできなかった。

「おい、そんなに深く考えるなよ。前から思ってたけどお前は真面目過ぎる」

「真面目にやることが一番じゃないですか」

 別に腹が立ったわけでもなかったが、何故か言い返すような口調になってしまっていた。

「それはもちろんそうだけど、お前今いくつだっけ?」

「二十代後半です」自分でもはっきりと年齢が分からなかった。

「そうか。なんだ、まだ若いんだな」

 田丸さんは少し驚いたように言った。自分としては別に若いとは思っていなかった。それは時間の感覚が薄くなっているからか。

「まぁ、若いんなら真面目も悪くない。でも歳を取るにつれて徐々に視野を広げていかないとな」

 田丸さんが何を言いたいのか、本当のところは理解できていなかったが、私は頷いた。田丸さんは以前からこのような抽象的なアドバイスをすることが多い。

 煙草のことは別として、田丸さんだって真面目な人だと私は思っていた。業務遂行能力は高いし、班長からの信頼も厚い。今はリーダーランクで次期班長候補だとも言われていた。

「まぁ、めげずに頑張ろうや。まずはしっかりと業務を遂行することだよ。それだけは絶対に間違いじゃないから」

 田丸さんはそう言って自分の身体に消臭剤を吹きかけ、同じように私の身体にも吹きかけた。確かに、ここにいるだけで煙草の匂いが服に付いてしまっているかもしれない。

 甲板に幾つも取り付けられたスピーカーが昼休み終了五分前を告げる。受付部の作業場は四階の船首近くなのでここからだと少し遠い。私は少し早足になっていた。



 夜、もう一度甲板に上がった。昼休みの時間とは打って変わって今は数えるほどしか人がいなかった。恋人なのだろうか、二組ほど男女のカップルもいた。私は一人だった。

 船内での恋愛は禁止はされてはいないが、あまり良い目では見られない。同じ部署内であれば発覚次第すぐに片方が別部署に異動する規則になっており、それなりに周りに迷惑をかけてしまうため、表立って恋愛をする船員はほとんどいなかった。しかしごく稀ではあるが船員同士で結婚に至る場合もある。そこまでいくとある程度はオフィシャルになり、部署は分けられるものの、住居は同じになることを認められた。もちろん子供だって認められる。幼い頃は保育部が運営する船内の保育園に入れ、それ以降は全寮制の陸地の学校に通わせることが多かった。

 私も過去に一度だけ船内の女性と恋愛に発展したことがある。彼女は同じ部署の別の班に所属しており、私より少し歳上だった。休憩時間にサロンで何度か顔を合わせることがあり、話をするようになった。

 あなたの暗い顔って何だか笑えるね、それが彼女からの最初の言葉だった。人の顔を見て笑っているのだから失礼な話なのだが、彼女に言われると不思議と悪い気はしなかった。彼女はいつも黒縁の眼鏡をかけていて、背は高かったが胸はほぼ無いと言っていいくらいに小さかった。全体的にバランスが悪いようにも思えたが、それが愛らしくもあった。

 彼女とは班が違うので業務中に顔を合わせることは無かったが、日々メッセージのやり取りをした。たまに夕食を食堂で一緒に食べた。夜の甲板で落ち合って話をした。

 彼女はいつも私の顔を見て笑った。そんなに暗い? と聞くと、うん、今日も絶好調で暗い、と言って笑う。けっきょく部屋に誘うまでの勇気は無かった。手に触れたことは辛うじてあるが、それも一度切りのことだった。

 別れは唐突で、そのうえあっけなかった。ある夜、私は彼女にサロンに呼び出された。普段、私達はサロンで会うことはなかった。サロンには遅くまで誰かしら人がいて、人目につくことを避けるべき逢瀬には適した場所だとは言えなかったからだ。私がサロンに入ると、彼女はもう来ていた。私を見つけて、よう、と言って片手を挙げた。冗談なのか本気なのか今となってはもう分からないが、彼女はそういう男勝りな言葉をよく使った。私は彼女の分と自分の分のコーヒーをカウンターで淹れてテーブルまで運んだ。彼女は礼を言った後、驚くほどあっさりと今日で終わりにしようか、と別れの言葉を口にした。

「急にどうしたの?」

 私は驚いてはいたが声は冷静だった。

「何となくだけど、監査部に気付かれている気がするのよね。私達のこと」

「まさか」

 それがもし本当だとしたらどちらかが即異動となる。まさかって思うでしょう? と、彼女は笑った。話し方からして、何か心当たりがあるようだった。別れ話をしているというのに彼女は驚くほど普段通りだった。

「ねぇ、あなたも私もそろそろ大切な時期に入るのよ。遊んでいる場合じゃないと思わない?」

「それは選別のことを言っているの?」

 別に遊んでいるわけではないという一言は出なかった。その頃、私も彼女もそろそろ初めての選別の声がかかるのではないかという時期だった。

「選別はもちろんよ。でも選別以外だって、常に私達は見られているじゃない。分かるでしょう? 監査部だけじゃなくて、この船にいる限りとにかくずっと見られているの。業務から、生活態度やら購入したものの一つ一つまで全てね。あなただって分かるでしょう?」

 私は頷いた。

「ここにいるうえで大事なことって、もっと他にあるじゃない。遊びで身を滅ぼすなんて馬鹿のやることよ」

 彼女はじゃあ元気でね、と言ってそのままサロンを出て行った。最後まで口元には笑みを浮かべていた。終わってみれば、たった三ヶ月足らずの関係だった。

 思えばこの三ヶ月間、私は彼女の「喜」以外の感情を一度も見たことがないような気がする。テーブルの上には二人分のコーヒーが手付かずのまま置かれていた。私は、ねぇ、ちょっと、と彼女の背中に声をかけたが、不思議と追いかけようという気持ちにはならなかった。私は、彼女の言いたかったことを理解していたのだ。ここは学校ではないということくらい私だって分かっていた。三ヶ月にわたる夢から覚めたような気持ちだった。それは夢だったから楽しかったのだと、一人サロンで思った。

 彼女は二回目の選別でリーダーランクに上がり、それと同時に受付部から姿を消した。その後しばらく見掛けないなと思っていたら、どうも船を降りたらしいという噂を耳にした。真偽のほどは定かではないが、実際船内で彼女を見掛けることはなかった。

『寂しい』と明美にメッセージを送った。

 甲板は薄暗かった。床を踏む足音は聞こえない。船を囲む海は黒く、不気味で、たくさんの生物が暗闇の中から私のことを見ているような気がした。『何かあったの?』と明美からの返信は早かった。

『別に、何も無いけど。何となくそう思ったから』

『疲れてるんじゃないの? お仕事大変そうだもんね。あんまり無理しないでね』

『ありがとう。そっちだって仕事大変だろ』

 明美は広告関係の仕事をしていると前に言っていた。

『私はまぁ、ぼちぼちって感じよ。だから大丈夫』

 会話のリズムが心地良かった。取り止めのない会話だったが、明美をたまらなく愛おしく感じた。

 私はメッセージの吹き出しの横に表示されている明美のアイコンをタップした。すると彼女のホーム画面に飛び、「明美」というアカウント名と、どこかの寺の前でピースサインをする茶髪でショートカットの女性の写真が出てきた。冬なのだろう。彼女は厚手のダッフルコートを着たうえに暖かそうな紺色のマフラーを巻いていた。可愛らしい人だった。確認をしたことは無いが、彼女が明美自身なのだと私は思っている。

『でも、寂しいという感情が生まれるということは、人として正常な証だと思うよ。みんな一人では生きていけないんだもん。だから疲れた時やつらい時に寂しいって思えるのは心が正常に動いてるという証拠だから、良いことだと私は思うよ』

『ありがとう』

 本当のことを言うと、私は別に本気で寂しいと思っていたわけではなかった。ただ浮かんだ言葉をそのままメッセージにして送ってみただけだった。それでもこうして慰めの言葉を返してくれるのは嬉しい。

 明美とはインターネット上のマッチングサービスで知り合った。やり取りを始めてもう半年以上が経つ。

 マッチングサービスに会員登録をすると、自分の望む条件でマッチング相手を検索することができ、申請をしてマッチすれば直接やり取りを行うことができた。基本コースのユーザーはメッセージを送る度に料金が加算されていくのだが、私は定額コースに加入しているので何度メッセージをやり取りしても追加料金はかからなかった。おそらく明美も定額コースなのだと思う。

『会いたい』

 メッセージを送った後、いたたまれなくなってサロンまで歩いた。サロンは甲板のヘリポート横にある甲板棟と呼ばれる建物の一階に入っていた。サロンには何人かの船員がいた。新聞を読んだり、携帯ゲームをしたり、皆思い思いの夜を過ごしているようだった。コーヒーを飲もうかと思ったが、時間も遅かったのでお茶にした。明日もまた朝から業務がある。

『私も会いたい』

 再び甲板へ戻るまでの間に明美から返信が返ってくる。

 私達は会ったことがない。会いたいとは言うが、実際に会う段取りをすることはなかった。私としても一時下船するにはそれなりに面倒な手続きや調整が必要だし、明美は明美できっと同じような事情があるのだろうと思っていた。

 私は明美がどこに住んでいるのかも知らなかった。遠い場所なのか、近い場所なのかも分からなかった。ただ、彼女は間違いなくいる。この世界のどこかにいる。私にメッセージをくれる。私もメッセージを送れる。明美という名前は本名なのか、あのアイコンの写真が彼女なのか、私は明美の「本当」を何も知らない。私にできることは目に見えるものとメッセージの文字を信じることだけだった。それでも私は彼女に恋をしていた。愛していた。

 甲板のベンチに座り空を見た。そこには闇が広がるだけで、星はまったく見えなかった。雲もなく、こんなに澄んだ空気の海の真ん中だというのに一つも見えなかった。なぜだろうと思った。私が見ている空は本当に空なのだろうか。そこから疑問に思った。学校に通っていた頃、仲間達と山のコテージに泊まって夜にみんなで星を見たことがある。砕いた宝石を散りばめたような星空で、あの映像は今でも目に焼き付いていた。

 明美に『今日はもう寝る。おやすみ』とメッセージを送り甲板を後にした。部屋に戻り、明美からの『おやすみ』という返信を確認してから電気を消して眠りについた。

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