18・5
重苦しく雄弁を振るっていた夫とは対蹠的に、イロハが、鷹揚とした様子で語り始める。
「まず、何故蟠桃が私を酷く敬ってくれているか――私の退屈を紛らわせる為に死ねと頼めば、そうしてくれるのではないか、とまで何故思わせるのか――と言いますと、私が、彼の恩人に当たるからなのですよ。」
「議員として、何か施したのかい?」と煝煆。
「一応、そうなりますね。恐らく、貴女の想像とは全く異なるのですが。
つまりかつての私は、先程蟠桃が『賊』と呼び捨てた勢力を、証拠を整えて公的に糺弾したのです。」
「すると、」守谷が素朴に、「警察力というか偵察力と言いますか、悪事を見抜く力において、その当時から貴女の体制は卓越していたということですかな。」
しかしイロハは、窘めるように笑いつつ、
「そういう意味では、ないですよ。人口には膾炙してなかったのでしょうが、しかし、未開部族を喰い者にしている輩の話は、政界、少なくとも与党の側では、恐らく誰しもが知っておりました。」
あまりにけろりとイロハがこれを述べたので、周囲の者は、その不穏さに呻くのが遅れてしまう。
「イロハ、さん?」その中から、白沢が、「えっと、つまりなんですか? 当時の議会は、そんな悪党がのさばっているのを、知りながら許容していたと?」
「どうでしょうか、……許容、ですらないかもしれません。もしかすると、歓迎、すらしていたように思えます。
と言いますのも、その、学語で呼ぶなら『啓蒙団』と名乗っていた賊は、その蛮行によって得た富や人脈を以て、与党の少なからずの議員を支えていたのです。」
は?、と白沢が洩らすのには取り合わぬまま、
「氷織さんの血の悲劇ではないですが、しかし、此方も、皮肉にも良く出来た仕組みだと思われませんか? 『啓蒙団』は、無防備な未開の地を一方的に掠奪して満足する。そして議員は、彼らの儲けの一部を受け取ることで、政治活動や選挙活動を円滑に行うことが出来る。これによって、市民は良い福祉や社会を享受することが出来る。そうすれば結局、『啓蒙団』は、主力商品である労働奴隷や性慾の捌け口要員の良い買い手となる、小金持ちが増えて助かる訳です。そして議員としても、投票も納税も意見陳述もしない、山奥の民ならざる者がいくら不幸になろうと、別段構わないのですから。」
イロハは、ここで残酷そうに盛り上げていた声調を、普段通りの、自信有り気なそれへ改めつつ、
「勿論、『啓蒙団』もそんな迂遠な利益のみでなく、議会からの直截な見返りを求めましたが、しかし、議員にとってこの支払いは、いとも容易きことでした。何せ、……具体的に何か供する訳でもなく、ただ、消極的に、賊の放埒を見逃せば良いだけだったのですからね。」
白沢は、唖然とした様子からどうにか、
「それは中々、……言葉を選ばなければ、
成る程。つまり腐敗し切った議会の中で、貴女だけは、そういう体制を軽蔑出来る清らかさを持っていたと。」
しかしイロハは、再び彼の言葉を否定する。
「名誉の為に申し上げますが、……『少なからず』とは確かに述べましたが、しかるに、別に大多数という訳でもなかったのです。与党が『啓蒙団』から利益を得ていることは、半ば公然の秘密とはなっておれども、しかし、身内においてすらそれを憂う者の方が多い情況でした。
では何故、彼らが誰一人として有効な糺弾を為さなかったかといえば、……言ってしまえば、命が惜しかったのですよ。」
「……命?」
「はい。当時『啓蒙団』に抗うということは、基本的に、死を意味しておりましたから。つまり、掠奪の名手であり、またその邪な財によって武装も傭兵も自在であった彼らは、凄まじい『実力』を備えていたのですよ。そこで、殊勝にも清潔な政治を、しかも内々に訴えただけの議員が、翌日
晩年の私の父、つまり、私へ議員身分を殆ど世襲した彼すらも例外ではなく、未開の蛮民を犠牲に社会の安寧を維持出来るのならば、悪くない話だろうと――嘆かわしくも――私へ教育したものです。」
この弁を聞いた黒野は、今朝、暢気に水遊びをしていた時の、イロハの言葉を思い出した。
――単純に、私は「強い」のですよ。
黒野からの視線に気付いたイロハは、得意げな片笑みを拵えると、
「私を議員として特別たらしめ、そして何者をも歯牙にも掛けない政治力を私に齎したのは、二つの天稟なのですよ。一つは、そういった『悪』へ虫酸を走らせることが出来る偏狭。そしてもう一つは、……烏合の衆などまるで問題にせぬ、実力な訳です。」
イロハは、何か小規模な呪文を嚙むように唱えると、人差し指で宙空を指し示す。するとそこに、まるでその指を主骨とする傘の如き、小さく円い障壁が形成されたのだった。
その、黄色透明の光殻へ、ぼんやり焦点を合わせつつ、
「先程氷織さんが、全身全霊を籠めて放った氷の魔術ですが、……あの程度であれば、私は、三日三晩でも防ぎ続けることが出来ます。つまり当時の私は、この魔術の才と、それを磨き上げて来ていた修練によって、他の議員が憚るような果断な糺弾を、如意に為すことが出来たのですよ。
更に、父から受け継いだ使い果たしえぬ蓄財や、それの運用による利潤は、下らない、俗な誘惑からも私を自由にしてくれました。そのようにして私は、一般的な忌憚や
怪訝そうな、不意安が、
「一応筋は追えましたが、しかし正直な感想を述べれば、……そんな旨く出来た話が、御座いましょうか? つまり、人間の飽くなき権力慾、財慾を思えば、清らかでいられる政治家などという存在なんて、全く想像出来ないのですよ。政治屋であれば、九分九厘露顕しない悪事――或いは悪までは行かなくとも非道徳――によって何かしらの手堅い利益が得られるという情況は、いとも頻りに遭遇すると思われるのですが、しかし、そんな中でも、貴女は誘惑に負けずに済んでいると?」
こんな御挨拶を投げつけられたイロハは、それ自体が返事であるかのように目を細めつつ、
「随分率直に言って下さいますね、不意安さん。如何にも日頃損しそうな振る舞いですが、このカハシムーヌにおいては歓迎しますよ。
しかし、……仏門徒の貴女が、慾を捨てることを否定するなどとは、思いもよりませんでしたが、」
「はい。もしも貴女も優婆夷であったならば、私も同調したかも知れませんが、……しかし、貴女はプロテスタントですよね? しかも、ルターやカルヴァンすら生温いと断ずる程の、
慾望の代表とも言えましょう資本主義、その礎となったプロテスタンティズムが、慾を捨てることが出来るのだと訴えるなら、それは、少々奇異に聞こえて然るべきではないでしょうか。」
好戦的な微笑と共に、真剣そうに聞いていたイロハだったが、しかしこの不意安の問いを受けると、ふと、寛然と、
「ベンジャミン=フランクリンを、知っていますか?」
突飛な問いに、不意安は首を傾げつつ、
「百弗紙幣ですか?」
「はい。どのような人物かは、御存じで?」
「寡聞にして、」
ここで、煝煆が割り込んだ。
「米国の科学者だろ? それが、一体どうしたんだい?」
そう言えば雷の凧実験の話を昨日していたな、と顧みる黒野であったが、しかしイロハは、これ見よがしに困ったような様子を演じつつ、
「これはこれは、……煝煆、今私達は資本主義とプロテスタンティズムの話をしているのに、敢えて、学者としてのフランクリンに言及する意味が有りますか?」
「……んあ?」
妻だけでなく蟠桃の方も、呆れた顔を見せている。
目を
「えっと、フランクリンは、科学者以外の側面が有ったんですか?」
この、煝煆の知識の隙を、多少ものを知らねども許される立場である自分が矢面になって
「科学者であり、発明家であり、政治家であり、外交官であり、事業家であり、そして、一家言ある宗教家――それが、ベンジャミン・フランクリンでした。亜米利加黎明期の人物ですので、信心は当然プロテスタントでしたが、そんな彼は、『Advice to a Young Tradesman』というパンフレットを発行しています。」
金眉を寄せたままの、煝煆が、
「Tradesman、って言うと、貿易においての心得かい? 確かに、ただの科学者ならそんなこと語らないのだろうが、」
イロハは、軽く首を振ってから、
「生憎、この〝tradesman〟という言葉は厄介でしてね。字面よりも、意味が小さいのですよ。商人、小売人、或いは職人。精々その程度の意味です。
そして、〝young〟ともタイトルに付いていますから、まぁ大雑把に、働く若者への言葉と解すべきでしょう。」
「成る程。……で、肝腎の内容はなんだい?」
イロハは、姿勢をこれ見よがしに正すと、大きく息を吸いて、
「『人たるもの、幸福主義や快楽主義には目もくれずに、妄信的狂信的に、職業的な労働へ人生を捧げるべきである!』」
此処までを、芝居じみた口調で述べてから、
「――などと、
ふぅん、と、煝煆は興味無さげだったが、不意安が
そんな彼女へ、イロハは優雅に、
「一応付しますが、別に、ベンジャミンが酷い異端であったという訳ではありません。寧ろ、模範的或いは典型的な、プロテスタンティズムの信奉者であったといえましょう。
そんな彼が、幸福を捨てよ快楽を捨てよとパンフレットに著した挙句、ピューリタンの国、米国でその言葉が広く受け入れられており、また別の例として、魔女狩り時代の西欧おいて『全ての幸福は罪である』とカルヴィニズムが宣言したという史実も合わせれば、……不意安さん、貴女の言及、資本主義は慾望の代表格であり、その礎たるプロテスタンティズムにも禁欲は期待出来ないなどという主張は、恐ろしい誤りであると断ぜざるを得ませんね。」
驚きつつも自らの失態を恥じ、かつ恐れるような表情だった不意安は、諦めたかのごとく体の力を抜くと、
「私は別段一神教の専門家ではない、という事実は、是非酌量頂きたいところですね。勿論、半端な知識で挑んだ咎は御座いますが、」
つまり、不意安が、『悪魔』らしき愚か者を見つけるレースにおいて一歩後退(或いは前進?)したことを自覚した訳だったが、ただ蟠桃やイロハの思い出話をしている筈だったのに、いつの間にか宗教論的な戦いが起こっていたことに、黒野は少し
「その潔さに報いまして、一つお教えいたしましょう。」勝者の余裕を醸す、イロハから、「学語世界において、プロテスタンティズムが資本主義の礎であったということについては、ヴェーバーが指摘するように殆ど確乎たる事実ですが、それ以上に寧ろ、資本主義はカルヴィニズムの禁欲主義に因っていたのです。『予定説』――生前の働きは神の救いに全く影響しない、という信念――によって宗教的安堵を得られなくなった教徒は、財などの、何か形に残るもので日々の勤労の成果を残さざるを得ませんでした。この『財』というものが、つまり、『資本』となります。また、秘蹟の否定に始まったように、彼らが種々の宗教的儀式を廃止或いは簡素化したことは、『合理化』に他ならず、これも、資本主義の勃興において不可欠な感覚だったでしょう。
つまり、確かに資本主義はその後慾深い者共の母体という性格を得ることにはなりますが、しかし寧ろその興りにおいては、手に負えぬほどの、灼熱な禁欲が関わっていたのですよ。この点において、不意安さん、貴女は酷く誤ってしまいました。」
説かれた彼女が、渋い顔で二三度頷けば、
「さて、話が縒れてしまいましたが、とにかく、私は実にプロテスタントらしく、禁欲的で清廉な議員として、永らく力を振るってきた訳です。勿論、人間らしい慾望も多少は有りますし、大きな悪を糺す為に小さな悪を敢えて見逃すようなことも時には有りましたが、しかし、世間から後ろ指差されるような瑕は、一切御座いません。
よって、私は評判を失うことが殆ど有り得ず、得票力がものを言う立場、議員として、確乎たる地位を維持出来ている訳ですよ。また、そもそも抜群の名を得ることが出来たのは、私ならではの果断による、『啓蒙団』の摘発と解体、そしてその残党の襲撃を返り討ちにした事件であり、これらを契機にして、蟠桃は私への憧憬を抱いてくれたのでした。」
面映ゆそうに明後日の方向へ視線を遣りつつ、頰を搔く蟠桃が、
「そういうわけでまぁ、若かりし俺は思ったんだよ。今イロハさんは実力について強調したが、しかしそもそも、頭が良くなきゃ議員や国士なんて勤まらん。俺も、自分を救ってくれたあの方のように、大きな貢献を為したい。その為には、……ってさ。
どうだ不意安。お前の疑問へは、これで答えているか?」
「ええ、恐らく。……有り難う御座います。」
未だ何処か鬱屈した様子の不意安は、そう御座なりに一旦返事したのだったが、しかしそこから、伏しがちだった視線を、すぐ隣の彼へ持ち上げると、
「そういえば、……確か先程白沢さんが『馴れ初め』という言葉を用いましたが、そもそも、お二人はまだ結婚されていないのでしたよね?」
「……戸籍制度も無けりゃ俺が無神論者である以上、『結婚』の定義が難しいが、まぁ、していないっちゃしていないんだろうな。少なくとも、昨日言っていたように、イロハさんにとっては確実に。」
「その点について、何故未だされていないのですか?、と私からお訊ねすれば、お二人の宗教観についてより我々が知ることが出来るかもしれないと、ふと思ったのですが、……どうでしょう?」
不意安の不屈に、懲りないねお前さんも、と煝煆が遠巻きに呆れるが、イロハは至って怡然と、
「構いませんよ、大した話ではないですが。
先程述べましたように、私を崇敬してくれることになった蟠桃は、懸命な勤学の末に立派な『神官』となってから、どうにか、私へ近づこうと努力したそうなのです。きっと当初は、直接会って礼を言いたい、位の気持ちだったと思うのですが、しかし、完全に無学だった筈の商品奴隷から、ものの数年で『神官』にまで成り上がった青年に、私が非常な興味を持たされましたね。自邸へ招いて、とっくり話を聞いたのですよ。それが契機となって次第に親しくなり、交流を重ねる内に、蟠桃と結ばれたいと思った訳ですが、」
「あの、」白沢が、「あまり、質問の答えになっていませんが、」
イロハは、自分が、特に求められていなかった
「もう一昔前のことになりますが、双方の意志を確認した後に、具体的な問題、つまり、結婚式はどうしようかという話になったのです。蟠桃は既に天涯孤独でしたし、私の方も父を亡くしている以上家督を握っているようなものでしたから、二人の好き勝手には出来ました。そんな情況下で彼の希望を確認すれば、まぁ一日くらいは茶番に付き合いますよ、誓いの言葉とかは口籠るかも知れないですが、などと――生意気さは有りながらも――私へ同調してくれたので、では教会で挙式しよう、と決まったのです。」
「それが、頓挫した訳ですかな、」と守谷が挟まれば、
「はい。当時の私は概ね改革派でしたので、自然なこととして、毎週お世話になっていた牧師へ司式を依頼したのですよ。その日迄に教会へ私から供していた、ちょっとした一財産に当たる浄財が影響していたとは思いたくないのですが、彼も、大いに喜んでくれました。……しかし、」
一度、肩を竦めてから、
「結婚の相手が蟠桃なのだと話すと、何やら雲行きがおかしくなりましてね。その牧師は、難しい顔でこんなことを言うのですよ。……イロハさん、『ウェストミンスター信仰告白』は御存じでしょう、と、」
なんだいそりゃ、と煝煆が問えば、
「1646年に、イングランドで成立した信仰基準でしてね、改革派信条の根本の一つとされているものです。
何より聖書を尊んだカルヴァンの意志を継ぐ改革派ですから、勿論この信仰告白も、権威ではなく聖書に拠っているのですけども、……その24章が、少々問題となりましてね。
そこは、結婚と離婚について述べている章です。その第3節が、十全な責任能力を持つ全ての人々にとって、結婚は合法であると宣言しているのですが、……ただし、註記が二つ程有るのですよ。第一に、真の改革派信仰を持つ者は、無信仰者、教皇主義者、偶像主義者と結ばれるべきでない。第二に、そもそも敬虔なものは、破滅的な異端者と結婚することで、釣り合わない軛を為してはならない。」
煝煆は、ほう、と述べてから、
「第一の方は言わずもがなとして、決して闇雲などではない、敬虔な無神論者を自称する蟠桃なら、第二までも牴触出来るのかもな。
なら、すぱっと蟠桃のことを諦めるか、さもなければ棄教すれば良かったのじゃないかい? 信仰というものは、そういうものだろ?」
「ところが、」イロハは、この一言だけ語気を強めてから、「私はこの、ウェストミンスター信仰告白24章3節が、とても気に入らないのですよ。
まず、敬虔な者は異端者と結婚するな、という
知ったものかよ、と、一度は口にした煝煆であったが、
「いや、待てよ、……分かった。全部、旧約聖書だな。」
「御名答。
ですので、私はまず、こう反論するのです。降臨した主やパウロによって旧来な戒律から解き放たれた筈の、我々基督の民が、何故、旧約聖書にしか記述の無い戒めに縛られねばならないのでしょうか?、と。」
「成る程、筋は通るのかな。……だが、立派に新約聖書であるコリントIIが残っているが、これはどうするんだい?」
「それなのですがね、こちらも、少々胡乱なのです。
具体的には、コリントII6章14節に、結婚に関する戒めが記されているのですが、……この辺り、実は文脈がおかしいのですよ。パウロが、どうか私に応じて欲しい、と真率に訴えている直後に、突然、不信仰者や偶像主義者への軽蔑と、その手の者共から距離を置くようにという、厳めしい訓戒が始まります。そしてその後、7章2節から再び、どうか私達へ心を開いてくれ、と、突然優しげな文調へ戻るのです。
このような奇妙さから、コリントIIの6章14節から7章1節は、実は、後から付け足されたのではないか?、という真剣な神学上の説が有りまして、私は、それをかなり信用しております。
ですので結局、ウェストミンスター信仰告白24章3節の第二の註記は、新約聖書の確からしい記述に全く拠っておらず、よって如何わしい、と、私は福音主義者として結論づけるのです。」
煝煆は、傾げながら、
「それは、……有りなのかい? 付け足しな記述だろうと、聖書は聖書ではないのか?」
「手段と目的を、逆転させてはいけません。
確かに我々は聖書を尊びますが、しかし飽くまでそれは、そこに主の言葉や教えが反映されているからであって、もしも何か改変が為されてしまっており、かつそこが不自然な記述に感ぜられるのであれば、聖書の記述に背くことも然るべきでしょう。」
不意安とはまるで真逆なことを言うな、と、黒野が思っていると、
「そして、ウェストミンスター信仰告白24章3節におけるもう一つの註記、そもそも不信仰者と結ばれるな、という話ですが、此方は、『コリント信徒への第一の手紙』、7章39節のみを根拠としているそうです。これは新約聖書ですし、先程のコリントII6章の様な危うさも別に有りません。
しかし、……この根拠付けが、どうにも、牽強付会と言いますか、
――具体的にコリントIの該当箇所を諳んじますと、妻は夫の生ける間は繫がるるなり。然れど夫もし死なば、欲するままに嫁ぐ自由を得べし、また主に有る者にのみ適くべし。
これについて、……どう、思われますか? 皆様、」
「どう、と言われますと、」白沢から、「聞いた限りですと、どうやらそこは単に、未亡人でも心置きなく再婚しても良い、という記述であり、我々ムスリムにも良く馴染む、古代社会における女性の喰い扶持を慮った言葉に聞こえますがね。ただしその際には、基督教徒同士で再婚しなさい、とされていると。
つまり、……成る程、初婚を含めた結婚一般へも、その付け足しのような一言が及ぶべきなのかは、議論の余地が有りそうにも聞こえます。」
イロハは、莞然と頷いてから、
「御理解頂けたようで、何よりです。
そして更に、このコリントI7章の13節からは、実は、こんなことが言われているのですよ。……また女に不信者なる夫ありて偕に居ることを可しとすれば、夫を去るな。そは不信者なる夫は妻によりて潔くなり、不信者なる妻は夫に依りて潔くなりたればなり。然なくば汝らの子供は潔からず、されど今は潔き者なり。
……つまり、不信仰者のspouse、――ええっと、」
配偶者ですか?、と、不意安が囁けば、
「そう、配偶者。つまり、神を信じないパートナーが居るとしても、その彼
「そして聖書にしては珍しく見上げたことに――一応――根拠を伴う論証が試みられている、と。」蟠桃が、気怠げな様子で、「片親さえ清ければ、つまり信心を持つならば、その子供は清くなるではないか。ならば残りの夫だか妻だかも、同じように清く出来るに違いあるまい、……ってね。」
「褒めているようには、聞こえませんが、」と、苦く笑うイロハ。
「滅相も無い。聖書に書かれている割には、大したものだと思いますよ。勿論、その前提である、親の片方がナザレのイエスの門に下れば子もそうなるだろう、というのが目茶苦茶である以上、論理擬きを過ぎない訳ですが。」
ここで不意安が、手を陽気に打って、
「では、お二人がゆくゆく子を授かれば、それも検証出来る訳ですね!」
この無毒な諧謔は、座の者を概ね笑わせたが、しかし、微動だにせぬまま眠りに耽る氷織と、そして、肝腎の夫婦(?)は相好を崩さなかった。二人は寧ろ、まるで伴侶の死を寡婦へ伝えねばならぬ警官組の如く、気不味そうに互いを見交わすのである。
「……おや。」口許を押さえつつ、「何か私、また余計なことでも申しましたでしょうか、」
「ああ、いえ、」イロハは、そう御座なりに彼女を庇うと、「とにかく、私は以上の理由により、ウェストミンスター信仰告白が示す結婚相手の制約について、非常に如何わしいと思っているのです。何せ、結局コリントIしか根拠が残らず、その根拠付けも強引であり、更には、他ならぬコリントIの別の箇所が、無信仰者との夫婦関係を、寧ろ善きものと評価しているのですから。
以上のようなことを、懇々とその牧師と論ぜようと思ったのですが、……いやはや、これが中々、」
「カハシムーヌや議会で闘ってこられたイロハ殿にとっては、定めし、いとも退屈な相手で御座ったのでしょうな。」
こう守谷が述べれば、イロハは喟然と首を振りつつ、
「その後私は――ルター派はもとより当てにしておりませんでしたが――長老派や浸礼派など、改革派に近いプロテスタント諸派の牧師にも相談を為したのですが、……まぁ、幻滅させられましたよ。蟠桃との睦びを祝福してくれる者も居なければ、だからといって、誰もまともに論駁してくれなかったのですから。
実に、嘆かわしいではないですか。牧師らしい言葉を吐く為に時間の大部分を使っている筈の彼らが、一教徒に過ぎぬ私如きを、掌で弄べないなど、」
煝煆が、諭すように、
「ま、……万人祭司を謳うプロテスタンティズムにとっては、ある種、好もしいんじゃないかい? そこらの子羊が、専門家を打ち負かすというのもな。」
こんな兇暴な子羊が居たものですかねえ、と、述べた不意安は、今度こそ、氷織以外の全員を笑わせたのだった。
こうして、イロハと蟠桃の信念について滔々と語られた訳だったが、肝腎の黒野には、不意安の飛ばした一つ目の冗談によって、二人が気詰まったように目を合わせた瞬間こそが最も強く印象に残った。母体として見れば既に高齢で、そして是非とも世継ぎの欲しいであろう名家に属するイロハにとって、懐胎は只ならぬ話題であったのかも知れないが、しかしそれにしても海千山千の彼女が露骨に窮したように見え、黒野には、そこが不思議に感ぜられたのである。
論議が一旦終わってから、夕食を温める為に無線室で煝煆と二人きりになった彼は、そんな印象をぼんやり彼女へ伝えたのだったが、
「まぁ、確かに奇妙ではあったが、……しかし、どうだろうな。そうやって何かコンテクストを共有して気不味くなれるのなら、つまりつうかあの仲なのなら、寧ろ、二人共が『悪魔』ではない、本物同士とも思えるよ。」
「ああ、……言われてみれば、そうですね。」
煝煆は、またも余熱器の上へ腰を下ろしつつ、
「で、どうだい? 塔也、
誰かしらが『悪魔』らしいという話、他にも見つかったかい?」
頬を手で支えている彼女に見上げられる黒野は、少し躊躇ってから、
「無いことは、無いんです。……ただ、余りに根拠が薄くて、煝煆さんにすら話したらややこしくなってしまうような、」
彼女は憮然と、しかし笑顔で、
「そうかい、……残念だが、君がそう言うなら、もう少し固まるのを待とうじゃないか。」
「煝煆さんの方は、どうですか?」
「……私かい?」
自分からは問うたくせに同じく返されるのを予定していなかったかのように、そう、殆ど叫んでから、
「ああ、……まぁ、今のところはさっぱりだなぁ。」
どうも、軽率にこう返したらしかった煝煆だったが、しかし、黒野が露骨に肩を落としたのを見ると、随分絶望的なことを彼へ言ってしまったことに気がつき、ふためくように立ち上がって彼の肩を叩いた。
「思い詰め過ぎるな。きっと、なんとかなるさ。」
彼女は、
「しかし、……こんな時に帰依する対象が無いというのは、どうも辛いものだな。蟠桃の奴は、よくもまぁずっと続けていられていると思うよ。」
彼女は、腰を上げて忙しそうに食料箱を抱え始めることによって、強引に会話を打ち切った。
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