16
守谷は、精緻な金属細工の施された白銀の杯を取り出すと、イロハの持ち込んでいた水差しによってそれを粛々と満たした。所謂「聖杯」かなぁ、などと、猶太と基督の知識が整理出来ていない黒野はいい加減に思う。
その後守谷は、その杯を、麻痺したように椅子から動けないでいる氷織の前へ置くと、自身の席までゆっくりと戻っていった。
「術式の都合上、距離を置いた方が望ましいですのでな。」
そうして各人が元の八席に散らばり直った中、彼女の隣の白沢が、恰も隙を見て杯を払い飛ばさんとしているかの如く、不審に周囲を窺う様子を見せるのだが、
「一応言っておくが、余計な真似は止すんだな。『悪魔』以外の全員にとって利益になる筈のこの儀式、それを妨碍するような奴が出てくるなら、そいつは、すぐにでも船から叩き落とさねばならん。」
こうして蟠桃に釘を刺された直後の彼は、涙ぐましくも、寧ろ、体を浮かして妻の為の行動を取らんとしたようだったが、しかし、蟠桃が
まるで自分自身が拷問を控えているかのような、白沢の苦悶の表情は、いかにも傍ら痛く、黒野はつい視線をそこから逸らしてしまったが、しかし、強者揃いのカハシムーヌの面々は、流石に楽しげではないものの、特に物怖じもせずに、その瞬間を静かに待ち構えているのだった。
「で、……守谷、お前が問うのかい?」と、剣を蔵った蟠桃が促せば、
「いえ、私以外からの方が良いでしょう。ヘブライ語などではなく、学語で構いませんのでな、」
「うん?」煝煆が、怪訝そうに、「あんた以外でも可能なのだとしても、結局、専門家がやった方が良いんじゃないのかい?」
「しかし、私が何か誤魔化したと疑われては困りますしの、」
「ああ、」
この遣り取りを聞いた白沢が、
「そうだ、そうさ!
喧しい、と言いたげに顔を顰めた蟠桃であったが、しかしすぐに、静やかな表情となると、
「……まぁ。それは、確かにそうだな。守谷以外に
「それは、仕方ないでしょう。」と守谷。「つまり厳密には、ここで的中した場合に絞られる範囲は、彼女か私のどちらかが疑わしい、というところまでな訳です。」
「で、外せばあまり情報は無い、と。」不意安が、五指の先だけを合わせながら、「ならば、ますます是非とも的中させたいところですが、……皆様――ああ、御夫妻を除いて――、もう、誰へ質問を為すかについて異論は御座いませんね?」
その言葉への反応すら待たずに、蟠桃は毅然とした声音で、
「では、……なんと問う? 守谷、
貴様は『悪魔』か?、だと、『悪魔』という概念や語義が曖昧な気がして、少々不安なのだが、」
「同感ですな。……先程白沢殿が申されていましたように、お前は人間か?、ではいかがでしょう。」
「悪くないね。」
そう呟くと、彼はイロハへ、何かを窺うような視線を送った。彼女が目を逸らすだけで肯えば、意を決すように、遠くの氷織へまっすぐ直って、
「さあ、……往生しろよ!」
慄然とする氷織へ、軽率に浄土門の用語を使われて眉を寄せる不意安を尻目に、その問いが振り降ろされる。
「『汝は、人間なりや?』」
氷織が、何も口にするものかと、その壺口を真一文字に固めると、その刹那、この、半ば自白に近い健気な抵抗の為されている少し手前、円卓の上で、例の杯が耀かしい白光を放ち始めた。
太陽のそれよりも月光を思わせる、豊美にして清冽な耀きが、氷織の顔や天井を眩く照らす。水面の揺らぎが反映されているのか、その明暗は、明るい部分が大きな暗影を囲むという、植物の細胞構造を象っているようでもあり、それが刻一刻と変形しては、見る者を妖しく揺るがせるのだった。
もしかすると、催眠の様な効果も含まれているのか?、と黒野が訝る間も、氷織はじっと踏ん張っていたが、しかし、次第にその脣が顫え始める。精神的というよりも、何か物理的にその口が開かせられようとしているようで、彼女の白い歯が、見えつ隠れつするのだった。
ふぅ、と、黒野に隣る煝煆が溜め息を漏らす。氷織の根性への、感歎か呆れか、どちらともつかないその発露に、彼がつい意識を奪われたその刹那、彼女が、ついに口を開いた。
あ、の形に開かれる、その小振りな脣。
煝煆が、眉を寄せて前傾する。
いや。煝煆だけでなく、黒野以外のそれぞれが、魔術師として、氷織の発さんとしている第一音の予感に緊張した。
「
血管を癇走らせた氷織が、立ち上がりつつその言葉を発し、腰へ手をやる。
消防斧を抜き、そのまま捧げると、鬼のような相好から、
其方の緑園の凛冽を、
この、銹び割れた轟き声による、音そのものに人を殺す力のありそうな詠誦の直後、掲げられし斧の先端から、物凄まじい量の氷が発生した。神速で成長する樹木の如く、或いは怒れる大蛇が飛び出てくるが如くの形状は、その物量と速度で、彼女自身と夫以外を刺し抜かんと爆発的に成長する。
黒野は、叫んだ。
しかし、危機を察知していた者共の内、三人は、氷織の詠誦が済まぬ内に自分の呪文を唱え始めていたのである。
普く諸金剛に帰依し奉る。暴悪の相、大忿怒を為せる金剛尊よ、
願わくは我や友への障りを悉く摧破し給え!
煝煆が、剣を居合のように抜きつつこう叫び終えると、赫々たる炎の壁が彼女と黒野の前に立ち上って、氷織からの悪意の氷刃を搔き消した。
……
いつの間にか
こうして、その場で隣人を護った二人とは対蹠的に、蟠桃は、寧ろ、円卓へ足を掛けつつ、猛然と前方へ飛び出していた。
今度こそ抜かれた彼の剣、その切っ先が、一瞬曙光のように煌めく。
阿片よ、幻影よ、悪夢よ、……人々を堕落させる、許すまじき諸悪の根源よ!
人類の勇気と叡智を籠めし刃にて、我、貴様をこの世から祓わん!
そう叫びつつ、彼は、刃を横一文字に振り抜いた。あまりに無防備な空中のその姿へ、夥しき氷織の氷槍が、巨大な手で摑まんとしているかのように襲いかかるのを炎越しに見て、黒野が再び悲鳴を上げそうになる、その刹那、
「案ずるな。」
煝煆が、諭すようにぽつりと、
「奴は、強いぞ。」
鋭い害心の籠もった氷の爪が、まさに蟠桃を貫かんと到達する、その、一瞬前。凄まじい勢いで突進していたそれらの尖端が、ふと、消滅した。
炎熱で昇華させられている訳ではない。硬質な障壁で砕かれている訳でもない。消滅。恰も、映写機で写していた幻影がスクリーンから外れたかのように、つまり、嘘のようにあっさりと、氷織の刃は、蟠桃の僅か手前へ至ったところで消失して行く。がぁ、と、野獣のような呻き声を苦しげに漏らしつつ、彼女は陸続たる氷刃を、縋るように持った消防斧の先から生み出すのだが、しかし、全て、蟠桃の魔術――「消術」と彼や同僚が呼ぶもの――によって消失し、まるで、喰われていくのであった。
表情に、声に、露となっている、彼女の殺意と害意も虚しく、氷織は無力なまま、円卓上で更に二三歩刻んだ蟠桃の驀進を、そのまま受け入れざるを得ない。勇ましきそれは、折られた膝先から、仮借なく氷織へ打ち当たって彼女を叩きのめす。
床へ思い切り吹き飛ばされ、壁へ頭をぶつけるすれすれまで滑らされた彼女は、大の字になって苦しげな声を上げるが、蟠桃は、尚も容赦しなかった。
突進してきた勢いを全て籠めるかのように、力なく伸ばされた彼女の両腕へ、彼は、両膝から思い切り着地する!
骨の砕ける音。痛ましい、後を引く悲鳴。
聞く者まで苛むようなそれが収まると、蟠桃の荒くなった息だけが、部屋に響く唯一の物音となった。
こうして静かになったところで、ロクに護ってもらえなかった不意安が、隠れていた卓下からひょっこり、土竜のように首を出すと、煝煆とイロハもそれぞれの障壁を解除した。各人が見合わせて、事態の収拾された雰囲気を確認する。
煝煆が、安堵の息を吐きつつ剣を鞘へ戻している内に、黒野は、氷織の方へ駈け寄り始めていた。あたた、と言いながら、煝煆も仕方なしに付いてくる。
到達してみると、腰の抜けて床に転がっている白沢越しに、彼女と、所謂マウントポジションになって切っ先を喉元へ突きつけている、蟠桃の姿が見えた。黒野は、そのまま彼が喉でも搔き切るのではないかと想像し、鮮血の光景を恐れて一旦視線を逸らしたのだったが、
しかし、
「……あ?」
殺意や怒りではなく、ただ、困惑を帯びている蟠桃の声。
それを聞き留めた黒野が、再び二人の方を見やれば、蟠桃は眉を寄せつつ首を傾げているのである。
そのまま良く氷織の顔――より言えば頭部を――
「ああ、そうか。……そうかそうか、そういうことだったのかよ!」
天井を見上げて大笑する彼と、狼狽して何か訴えようとしているようだが、言葉になっておらず立ち上がりも出来ない白沢。
そんな二人を、黒野が代わる代わる眺めていると、反対側からやってきたイロハが、
「なんです蟠桃、……何が、そんなに可笑しいのでしょう。」
「いや、これが傑作と言うか何というか、」笑いを嚙み殺しながら、「いやはや、……すまなかったな氷織、そりゃ、必死になる訳だ!」
そんな中蟠桃は、欣然と身を顫わせながら、剣をイロハへ預けてしまいつつ、
「まぁ、見て下さいよ。……これが、此奴の正体です!」
彼は、虫でも捕まえるかのようなぞんざいな勢いで手を伸ばし、氷織の被っているスカーフを引っ摑む。
おい、やめろ。そんな呻きが、漸く白沢から届くのだが、蟠桃は容赦なくそれを引き剥がした。
「……うわぁ!?」
そう叫んだのは黒野であったが、向こう側の不意安からも、年齢相応の可愛らしい悲鳴が上がる。
――悍ましい、黒蛇の群れ。
露になった氷織の頭部には、神が隠すことを命じた筈の美しき緑髪などではなく、夥しき黒蛇が
その一本一本が、宿主の氷織を庇うかの如く、しゃあしゃあという音を鳴らしつつ、蟠桃のことを睨め付けている。
血の気の引いている不意安が、激しく吃りながら、
「
対照的に、イロハは至って尋常に、
「成る程、……それは、
「ねえ、傑作でしょう!」蟠桃の大声。「『悪魔』と言う訳でもないのに、人間か否かという問いが致命的になってしまう為に、今日の此奴は必死に抗った訳ですよ! 大方、礼拝を巡っての不審な挙動にも、人ではないが故の事情が有ったんでしょう!」
こうして上機嫌な夫婦へ、氷織は、下方から息も絶え絶えに、
「殺す気が無いなら、退いてくれ。……死ぬ程痛い、」
「おっと失礼、」蟠桃は立ち上がって、弾け飛んでいた氷織の斧を卒なく没収すると、「おい白沢、愛しの細君を治してやれよ!」
呼ばれた彼は、医師としてか夫としてか、とにかく使命に駆られて漸く立ち上がりおおせた。
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