14
黒野が議場室で目を醒ますと、すぐ近くの椅子で、煝煆が何か古書へ読み耽っていた。
しまった、自分が
「ああ、済まん済まん。」呻いた彼へ笑い掛けながら、煝煆は立ち上がった。「起きたか、飯でも喰うかい?」
「まずは、可能なら顔を洗いたいですが、」毛布から抜け出ながら、「ええっと、皆さんは?」
本を閉じ、肩を竦めつつ、
「さあな。……いや、塔也を責める気は無いんだが、しかし、君の寝ている間は私も出歩けていないからな。」
「ああ済みません、さっさと動きましょうか。食事を取りに行くんでしたっけ?」
「そう思ったんだが、まずは、」一瞬躊躇ってから、しかし結局率直に、「厠へ、行かせてくれるかい? 君を伴わねばならぬという事情は、私も同じだったからな。」
「ああ、……昨晩はお騒がせしました。眠くてあんまり憶えてないですけど、」
煝煆に続いて黒野も小用を済ませて塔から出てくると、船本体側の、縁側のような甲板部分に、二人の人影が現れていた。戻りさに近づいたところ、守谷とイロハのペアである。その内のイロハは靴を両方とも脱ぎ揃えており、右足だけを海中へと差し込んで、退屈した童女の如く前後させて潮水を搔いていた。
おいおい、まるでイシスのようだな!、と煝煆が叫び掛けると、守谷とイロハのそれぞれから、寛然とした笑い声が上がる。この諧謔の意味を解せなかった黒野が、仕方なしに、ははは、と適当に愛想笑いを合わせる内に、煝煆は続けて、
「しかし実際、俄には信じ難いよ。あのイロハ先生が、そんな懶惰に水遊びだなんてな。」
実際イロハは、日頃の洗煉や威厳を感じさせぬ雰囲気で、具体的には、連日纏ったことで
「心地、良いのですよ。」
「海水に浸るのが、かい?」
私もやろうかな、と、靴の中で踵を浮かせた煝煆を、しかしイロハは莞爾と咎めた。
「別に、水の快さだけなら、家で桶を使っても出来ましょう。確かに潮流や船速による感触は面白いですが、まぁ、そこは大した話ではありません。
それよりも私が今、満喫しているのは、……万一にも誰か市民や政敵に見咎められたりしない、大海原の上で、完全に気を緩められているという、
この、お前と違って日頃大変なのだよ、という婉曲的な傲然に、気付かなかったのかそれとも気付かない振りをしたのか、煝煆は単に、呆れたような様子で、
「暢気なものだね、皆の命が懸かっている事態の最中というのに。」
「それはそうですが、」海面へ沈めていた視線を、遙かな水平線の方へ直しつつ、「常に緊張し続けては、とても持たないでしょう。適当にリラックス出来る時はしておかないと、それこそ、肝腎な時に困憊して、『悪魔』を仕留め損ねるかも知れません。」
煝煆は、一瞬脣を尖らせてから、
「物騒な言い回しだが、……仕留める、というのは、弁舌でかい? それとも、」
「別に、どちらでも構いませんよ。貴方方の誰にも、私は実力で負けるつもりなど無いのですから。」
この不穏な言葉に、黒野が露骨にぎょっとしてしまうと、その様子を見咎めたイロハは、右足をまっすぐ抜き挙げつつ、
「黒野さんも知るように、私は名の知れた議員な訳ですが、そのような、他の者が願っても成れない立場を永らく維持している以上、何かしらの強みがある訳です。代々の資産も勿論少なからず寄与していますが、……それよりも、単純に、私は、『強い』のですよ。それ故に、暗殺や襲撃という暴力的報復を然程恐れずに、過激な勢力に恨まれるようなことへも、政治的鉈を振るえるのです。」
「実力、……私が、市民の平和の為に磨き上げて来ているものです。」
後で足を拭くつもりなのか、靴を両手に一つずつ提げたままイロハは船内へ戻って行き、言葉を発すタイミングがなかったらしい守谷も、黒野らへ軽く会釈してから去り始めた。髪と同じく、透明感を覚えさせる程に白いイロハの脚が甲板に
二人が去ってから、はぁー、のような嘆声を、黒野が漏らすと、
「塔也、……イロハの所の書生として過ごしていたのに、そういう話に気付かなかったのかい?」
「いやぁ、それが全く。……箱入り息子じゃないですけど、とにかく外のことは全然教えられませんで、」
「ああ、そうだったな。」憤ろしげに首を振りつつ、「すっかり忘れていたが、蟠桃の奴を𠮟ってやらんと、
「おー、なんだなんだ。なんか俺に用か?」
ぎょっとして彼女が振り返ると、そこにはいつの間にか、蟠桃と不意安の無神論者コンビが揃っていた。
そうして出端を咎められた彼女だったが、黒野に見られている手前挫けられぬと思ったのか、踏ん張って、
「蟠桃、貴様、塔也のことをもっと、」
辿々しかったこんな挑戦の意味を、自覚が有ったのか、彼はすぐに解して、
「おいおい、……神官のお前が、そんな話をするのかい?」
彼女が一瞬たじろいだ隙に、蟠桃が一歩、言葉でも足でも踏み込んで来る。
「〝旅人〟の、なんと言うかな、自由権を始めとする人権の一部が――此方の現代社会にそんなものが有ればの話だが――、公的な利益の為に制限されるというのは、俺達神官、つまり、旅人の世話係が一番知っている筈だろう? もしも俺達が旅人諸氏を攫って来ているというのならば、何もかも人道に反するだろうが、しかしどちらかといえば、勝手に次元の狭間から流れ着いてくる漂着者を助けているような立場なのだから、衣食住を世話するならば、そこまで悪辣でもあるまい――お前の弘法大師殿が、何と言うかは知らんがな。」
「詭弁を弄すな蟠桃、」長口舌の間に
こう叫ばれ、少し表情を引き締めた蟠桃は、数秒むっつり煝煆を見詰めると、ふ、と笑うように息を吐いた。
「見上げた心意気だがね、しかしそこは、俺と黒野君との問題だよ。貴様の領分じゃないさ。」
「
「……ふむ、」粗悪な寝所で寝違えでもしたのか、首の根元を揉みながら「ま、そりゃそうだな。その点は、お前の正しさを認めるよ。
しかしだね煝煆。残念だが、今はそんな話をしている場合じゃないんだ。今日でなくとも済む話は、無事に、帰国してからにしないか?」
苦しげに喉で音を漏らし、黙り込んでしまう煝煆へ、
「何か見つけたかよ? 誰かしらが、『悪魔』らしいという材料を、」
「なんだい蟠桃、……お前が、理詰めでは無く、尋常な議論における綻びから、『悪魔』を燻り出そうと言ったんじゃないのかい?」
「勿論俺はそうすべき思っているが、しかし、こだわりは無いよ。そういう方向での検証が、最も勝率が良さそうだと個人的に思うだけで、別に、他の誰かしらの努力で『悪魔』が確定されるのならば、喜んでそれに従って
「ジョーカー、ねえ、」そこまで呟いた煝煆は、先程から控えている不意安を見やって、「そういえば、タロットにおけるジョーカー、『手品師』ならそこに居たよな。」
突然引き合いに出された奇術師は、からから笑いつつ、
「これは、異なことを、」
「いや、勿論冗談だが」
「そうではありませんよ、煝煆さん、」目を剝く煝煆へ、
おっと、と漏らす煝煆へ、不意安は錫杖を引き戻しつつ、
「まぁ、密教や科学の徒であられるという貴女が、魔術――かつて学語世界に蔓延った妄念という意味の方ですが――に関する知識で何か誤っても、失点にはならないでしょう。自分が潔白だと知っている私としては、少々残念ですが、」
黒野は、この不意安の勝ち誇りによって、一つ思い出していた。
「そう言えば、」
彼がそこまで呟くと、寧ろ黒野より年下に見える不意安が、恰も、出来の悪い学童を気遣うような雰囲気で、
「おや、何か有りますか? 黒野さん、
『悪魔』に関することでも、それともカハシムーヌらしい話題でも、歓迎いたしますよ。折角、こんな場所に居合わせておられるのですからね。」
「えっと、後者、ですかね。
思っていたんですけど、この世界って、魔術は無いんですか?」
不意安は、眉を持ち上げつつの、きょとんとした莞然から、
「これはこれは、……貴男まで、妙なことを仰言いますね。私の光彩奇術や、氷織さんの造氷術を御覧になったでしょうに、」
「そういう意味じゃ、なくてですね、……この世界には、それこそ不意安さんもさっき言ったような、占いや雨乞い、或いは
不意安が、優しかった、或いは完全に油断していた雰囲気を、その両目と共に鋭くする。
錫杖を、硬く握り込みつつ、
「何故、そんな疑問を思われます?」
「だって、もしも、」少し言葉を整理してから、「だってもしも、元々この世界にそう言った信仰が存在していたのなら、
この、「信仰」という言葉の指す事象が、不注意にも途中で挿げ変わっている弁論は、もしもその気になれば不意安がいとも容易に餌食としたであろうが、しかし彼女は手心と共に、つまり至って真摯に、
「そこは、実際、非常に興味深い問題です。いえ、少なくとも黒野さんのいらっしゃった学語世界においては、全ての文明において、魔術なりお
帰納的な議論になってしまいますが、学語世界の世界史を繙く限り、人間は社会を発達させる上でどうしてもそういう超然的な力への帰依を必要としているように思われます。ならば、黒野さんの仰言ったように元々そう言ったものを欠落していたと思しきこの世界は、一体、何を代替品として文明を築いて来ていたのでしょうか。また、この世界でも黒野さんの世界でも、不敬千万なことに、信心を持たないどころかそれを嫌悪する人間が出て来ているようですが、もしも将来彼らが絶対的多数派となって、社会が信仰を、必要不可欠である筈のそれを忘れたら、その時人類はどうなってしまうのでしょうか。」
「どうもこうも、何もかも効率化されるだけだろ。」
言葉尻を喰うようにそう述べたのは、煝煆であった。
じっと、不意安から不穏に見詰められつつも、彼女は堂々と、
「確かに、宗教が果たしてきた種々の役割は認めるよ。しかし、いつか
不意安は、苛立ちとも遺憾ともつかぬ表情から、
「実に残念、……実に残念、ですね。どうやら数多の法門を修めたらしい貴女から、そんな、嘆かわしい言葉が聞かれるとは、」
「弘法大師は入定されて以来千二百年、今も瞑想を続けられている。……私がその手の逸話に対して抱いてしまう疑義を、機械論の透徹した理が癒してしまっただけさ。」
煝煆は、佩いたままの剣の柄に、左手をしっかり載せつつ、
「大師が中国から放り投げた三鈷杵が、高野山に引っ掛かったと言うが、……一体、それにはどれほどの仰角と初速度が必要だったのだね?」
挑戦的に問われた不意安は、錫杖を抱き寄せるようにして沈思し、静かに言葉を研ぎ澄ませようとしたようだったが、しかし、蟠桃が一歩踏み出でて二人を分かってしまう。
「横で聞いていると面白いがね、しかし、そういう気合は後に取っておこうじゃないか。折角の議論も、俺と黒野君しか聞いていなくてはつまらなかろう?」
「そうだ、蟠桃、」ぱっと、煝煆は花咲くように緊張を解きつつ、「いつ、再開するんだい? 遊んでいる暇なんか無い、と言っていたのはお前だろう?」
「おう、それだそれ。いや、黒野君が起き出てくるのを待っていようと思ったんだが、しかし、もうじき白沢らの礼拝らしいから、それが済んでからにしようじゃないか。」
煝煆は、聞こえよがしの溜め息を
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