第42話 諦観
サーシャは一人で広い豪奢な室内に取り残されていた。
落ち着かない気分で身じろぎすれば、手元のブレスレットがしゃらりと擦れる音がして緊張に身を固くする。分不相応な貴金属は一生かかっても弁償できないほど高価なものだ。
初めて足を踏み入れた王宮でエリアスが滞在する部屋に連れてこられると、待機していた侍女たちによって飾り立てられた。元々来ていた制服もどこかに持っていかれた上に、高価な素材をふんだんに使ったドレスに着替えさせられて現在に至る。
それから30分ほど経った後、サーシャの前に現れたのはアーサーだった。ようやく見知った顔にサーシャは安堵の息を吐くが、アーサーの表情は固く後ろに控えているヒューも目を伏せている。
「サーシャ嬢、護ってやれなくて済まなかった」
重い口調で謝罪の言葉を掛けられる。
その言葉は先ほどのお茶会でのことなのか、それともこれからのサーシャの処遇についてだろうか。
そんなサーシャの疑問を読み取ったかのように、アーサーは口を開いた。
「我が国にとってシュバルツ国とは友好な関係を築いていきたい相手だ。それゆえに王太子であるエリアス殿を招いて互いの国益のために働きかけを行う予定だった。――だからこそ彼の望みを無下にはできない」
それ以上アーサーの口から聞きたくないと思ったサーシャは自分から口を開いた。
「シュバルツ王太子殿下は、私をお望みなのですか?」
口の中が乾いて声を出すのが苦しい。アーサーの瞳の中に一瞬だけ悲しそうな光がよぎった。
「自国に連れて帰りたいそうだ。――宰相が先ほどガルシア家に使いを出した」
サーシャの意思に関係なく、状況は既に動き出していた。
「……最後に家族に会うことはできますか?」
「ああ。いくらエリアス殿でもそのまますぐに連れ去るような真似はしないはずだ。サーシャ嬢、他に望むものはないか?私が言えたことではないが、君は我慢しすぎる」
サーシャは無言で首を振った。
政治の駒として扱われることに何も思わないわけではない。だが子爵令嬢の立場に甘んじて学園に通っていた以上、貴族として扱われることは当然だ。それでもアーサー自身がサーシャに申し訳なく思っている気持ちが伝わってきて、それが嬉しかった。
「アーサー殿、妙齢の女性と二人きりとは感心しないな」
ノックの音とほぼ同時に部屋に入ってきたエリアスは開口一番にそう告げた。冷ややかな眼差しが不快感を伝えている。
「ちゃんと従者を控えさせています。エリアス殿、どうか彼女の気持ちを尊重してやってください」
去り際に言い含めるように告げられて、エリアスは一瞬眉を顰めた。だがサーシャに向きなおると、すぐに蕩けるような笑みに変わる。
その落差がサーシャには恐ろしかった。ここまで人格を豹変させる番についての認識を改めなければいけない。
エリアスが隣に座ると多種多様な軽食やケーキがテーブルの上に用意される。
「サーシャの好みが分からなかったから、色々と準備したんだ。どれが食べたい?」
美味しそうな食べ物が並ぶが食欲は湧かず、万が一ドレスを汚してしまったらと気が気ではない。
「私は結構ですわ。お気遣いありがとうございます。シュバルツ王太子殿下は――っ!」
自分の代わりにエリアスの食べたいものを取り分けようと好みを聞く前に、指で唇を押えられてサーシャは息を呑んだ。
(何か失言を?!好意を無下にしたから機嫌を損ねてしまったとか?)
「サーシャ、そんなよそよそしい敬称ではなく名前で呼んでほしいな」
不安と緊張で心臓が早鐘を打ち始めたが、エリアスの願いを聞いて胸を撫でおろした。まるでジェットコースターに乗っているかのようにアップダウンが激しく心が疲弊しそうだ。
「畏まりました。エリアス殿下」
「……まあ今はそれでいい。サーシャ、ベリーは好きか?」
「はい。………………」
艶やかなベリー類が載った一口大のケーキは美しく、確かに美味しそうではあった。だがそれを手に取ったエリアスが、サーシャの口元に差し出したのだ。受け取ったほうがよいのかとそっと手を伸ばしかけると、ケーキが口元に触れた。そのまま食べろということらしい。
観念して小さくケーキをかじると、エリアスは満足そうな表情で見つめている。幼い子供のように、しかも眉目秀麗な男性から手ずから与えられたことへの羞恥が増して顔が熱くなる。甘いはずのケーキを味わうどころではなく、サーシャはただ口を動かすことに専念した。
「エリアス殿下、もう少しご自重なさってください」
呆れたような顔で諫めるレンの言葉を聞き流しているわけではない。自分でも過剰だと思いながらも番を前にすれば理性よりも本能が先に立つ。しっとりと濡れたような黒髪や澄んだ瞳、ほのかに香る甘い匂い、何もかもがたまらなく愛おしい。
「落ち着いているように見えますが、サーシャ嬢の態度は捕食者に狙われた子兎のようです。このままでは本当に嫌われてしまいますよ」
忠誠心が厚く気の利くレンは幼い頃からの主従関係で、普段から重用しているが今回に限ってはその指摘に耳が痛い。
「レン、止めろ。お前が言うと現実になりそうで不快だ」
茶会の時にも同じようなセリフを耳打ちされて、膝の上に乗せたサーシャを仕方なく隣の席に下ろした。確かにあのままではサーシャにとっても不名誉なことであったし、驚かせたとは反省している。
だが番があれほど魅力的で抗えないものだとはエリアスにとっても想定外だった。話には聞いていたが、それが自分の身に起こるとでは全く別物だ。
「……サーシャはどうしたら俺に好意を持ってくれるのだろう」
もはや頭の中にはサーシャのことしか思い浮かばない。番に出会えたことへの高揚感は今まで感じたことのないほど強い感情だった。一時でも離れていたくないほどの執着は自分でも恐ろしくなるが、彼女が欲しいという渇望感は一向に薄れない。
それなのにサーシャは自分に対して欠片ほどの好意も抱いていないようなのだ。
「焦りは禁物です。サーシャ嬢からすれば初対面でいきなり抱きしめられて知らない場所に連れてこられれば不安しかないでしょう。彼女は冷静に対応しているほうだと思いますよ」
「あれは冷静というか諦めに近い」
王族からの命令を拒めないことをいいことに無理を強いているのが自分だということは分かっている。一歩引いたような姿勢で口癖のように謝罪するサーシャに何も思わないわけではない。手放すことが出来ないのならせめて幸せだと思ってもらえるように望みを何でも叶えてやりたいと思う。
「他者の感情に疎いと言われる殿下がそこまで察してらっしゃるとは……。サーシャ嬢の境遇はよくある話といえばそうなのですが」
そこでレンはエリアスにサーシャについての調査書を手渡した。素早く書類に目を走らせるエリアスの目が、ある箇所でぴたりと止まり表情が険しくなる。
「あの男とは血の繋がりがないのか」
「正確にはサーシャ様の従兄に当たるのでない訳ではありませんが。彼女たちがそれを知っているかどうかは現在のところ不明です」
サーシャはともかくあの男が知っていないはずがない。そうでなければあれほど敵意をむき出しにしないだろう。婚約者がいるらしいが、妹であるサーシャに対しての言動は一般的な家族愛を超えている気がした。
「しかも子爵家では侍女として扱われていたのか。こんな家とは早急に切り離したほうがいいな。レン、宰相経由でこの国の高位貴族との養子縁組を取らせろ。向こうもそのほうがいいだろう」
番である以上身分にこだわることはないが、一部の貴族たちからは間接的に反発を食らうことが予測される。またランドール国としても友好の証でもある婚姻が、高位貴族であるほうが対外的に印象も良いだろう。
一連の指示を出してレンが退出すると、エリアスは再びサーシャに想いを馳せる。エリアの中でサーシャは不憫な境遇にもかかわらず健気に振舞う少女に変わっていた。
(もっと色々な表情が見たい。彼女はどんなふうに笑うのだろう)
シュバルツ国で必ず幸せにしてやろうと決意したのだが、自分の思い違いにエリアスが気づくのは翌日のことだった。
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