第30話 関係性の変化
卒業式が近づくにつれて憂鬱な気分になることに気づき、ユーゴは嘆息した。無人の生徒会室は肌寒さを感じるほどだが、それでも毎日のように足を運んでいる。
引継ぎもほとんど完了し、もはや生徒会長の仕事がないにも関わらずユーゴが生徒会室に来る理由はただ一つ、サーシャに会うためだった。
(あの日先に話を伝えていれば……いや、もっと早く行動していれば……)
後悔ばかりが押し寄せてくる。それでも縁がなかった、彼女のことを思えばこれが最善だった、と自分を宥めることで平静を保っている。
第二王子であるアーサーがダンスパートナーに選んだ相手に後から申し込むことなどできない。それは王家への不敬、もしくは反抗と受け取られても仕方がない行為だからだ。
愁いを含んだため息を吐き、ユーゴは生徒会室を出た。階段の手前で人の姿を認めて目を細めると、アーサーの侍従兼護衛のヒュー・オラール侯爵令息だと分かった。
(彼ならば殿下の心情を知り得ているのではないだろうか?)
アーサーとは何度か言葉を交わしたことがあるが、柔和な笑みを崩さない穏やかな青年らしくあるものの、常に冷静で観察されているような印象も抱いていた。底が見えず一筋縄ではいきそうにない王子であるアーサーが一時の気の迷いでサーシャをダンスに誘うとは思えない。一方でアーサーがサーシャに惹かれても仕方がないという気もしている。
「何かご用ですか?」
無意識に不躾な視線を送っていたのだろう。すれ違う手前でヒューに問われてユーゴは我に返った。
「いや、すまない」
挨拶を交わしたことがある程度、ほぼ初対面とも言える相手に訊ねることではない。未練がましい思いを断ち切るかのように短く詫びて歩を進めようとするユーゴに、ヒューが話しかけてきた。
「我が主と子爵令嬢の噂が気になりますか?」
「………」
その質問の意図が読めず渋い表情を浮かべたまま、ユーゴは無言でヒューを見つめた。揶揄っている様子は見えず、ただ静かな眼差しでユーゴを観察している。素直に答える訳にもいかず、考えあぐねているユーゴにヒューはさらに言葉を重ねた。
「気になるようでしたら教えて差し上げてもよいですが、代わりに会長の婚約者をダンスにお誘いしてもよろしいでしょうか?」
「何を……!」
頭を殴られたような衝撃が走った。
婚約者がいる相手をダンスに誘うのみならず、情報を餌に許可を得ようとするなど非常識を通り越して侮辱ともいえる。家格は同じでも影響力が上の侯爵令息に誘われれば無下に断ることもできず、アヴリルが困るだろう。
「アヴリルに迷惑をかけるような真似は慎んでもらおう」
ヒューの口の端が僅かに上がり、嘲けるような笑みが漏れた。
「さて、それはどうでしょう?会長が他の令嬢にダンスを申し込むつもりだと知ったら、彼女は私の誘いを受けてくれるかもしれませんよ?」
何故知っているのだという疑問よりも、アヴリルが他の男の手を取るかもしれないと考えると無性に落ち着かない気分になった。だが男の言い分がもっともだと冷静に考える自分がいた。
いつしかアヴリルが自分の傍にいることが当然のように思っていた節がある。大切な婚約者だと思っていながら、サーシャに再会して以来どれだけ彼女を蔑ろにしていたかということにユーゴは今更ながらに気づき、罪悪感が胸を刺す。
アヴリルは何も言わないが、彼女は人の感情の機微に敏感だ。日々の勉強や鍛錬に疲れている時には何も告げていないのに、ただ傍に寄り添ってくれていたことを思い出す。
「……君はアヴリルのことを愛しているのか?」
「いいえ?ですが婚約者が不在の身ですし、家格も釣り合うので会長が不要なら代わりにもらい受けようと思いまして」
その言い分に腹の底から怒りが込み上げてきた。
「アヴリルは物ではない!そのような言い方は彼女に失礼だ」
そう告げながらも言葉はそのまま自分に返ってくる。ヒューに対する怒りよりも自分自身に対する怒りのほうが強かった。誰よりもアヴリルに礼を欠き、彼女に甘えていたのだから。
「ユーゴ様……」
その澄んだ声に一瞬幻聴かと思ったが、顔を上げるとそこにはアヴリルの姿があった。入れ替わるようにヒューは肩をすくめてその場を立ち去り、アヴリルと二人きりになる。
「ユーゴ様、あのダンスの件ですが―」
「アヴリル」
言いかけたアヴリルの言葉を遮って、ユーゴは忠誠を誓う騎士のように片膝をついた。驚きに目を見張るアヴリルの手を取ると、ユーゴはアヴリルと目を合わせる。
「アヴリル、卒業式は私と一緒に踊ってくれないだろうか?」
虫のいい話かもしれないが、それでも今彼女に申し込まないと一生後悔する気がした。
「はい、喜んで」
アヴリルの上気した頬と潤んだ瞳を見てユーゴは思わず抱きしめてしまった。
「きゃっ、ユ、ユーゴ様?!」
(終わったはずの初恋に囚われて大切な存在が見えていなかった)
「アヴリル、今まで不快な思いをさせて済まなかった。今更と思われるかもしれないが、私は君を大切に想っている。挽回の機会をくれないか?」
顔を真っ赤に染めてこくこくと頷く婚約者を見て、ユーゴは自然と顔を綻ばせた。
サーシャが女子寮の特別室を訪れると、待ちかねたようにソフィーが立ち上がる。
「ソフィー様、ヒュー様のおかげで上手くいきましたわ」
落ち着かせるためにまずは結果だけ伝えると、安心したように笑みを浮かべサーシャとヒューに席に着くよう促してくれた。
「サーシャ嬢、今日は何も持っていないのか?」
「申し訳ございません。本日は何も準備をしておりません」
アーサーはサーシャのことを専属のお菓子係とでも思っているのだろうか。常に菓子を持ち歩いているわけではないので、そう答える。
「非常食をお持ちなのでは?今日は普通に食事を摂られていたでしょう?」
ヒューの指摘に内ポケットに忍ばせたフロランタンを思い出したが、だからといってこれを殿下に渡すのは微妙だ。適当に作ったし、長時間懐に入れていたため多分人肌に温まっている。
「非常食なのでお断りします」
きっぱり告げるとアーサーは忍び笑いを漏らす。
「殿下、サーシャを困らせないでください。サーシャ、詳しい話を聞かせてちょうだい」
そんなアーサーを軽く諌めてソフィーは続きを促した。
サーシャがアヴリルから話を聞いた翌日、ソフィーと会う段取りを付けてもらった。ソフィーには今後の口裏合わせをしてもらうためにも話をしておく必要があったからだ。
「ソフィー様と殿下が喧嘩をしてしまって、その当てつけのために私にダンスを誘うような真似をしたけれど、結局卒業式までに仲直りしたという筋書きでいかがでしょうか?」
「…そんな都合のいい真似できるわけないでしょう!サーシャ一人に損な役回りを押し付けているじゃない」
怒ったようにソフィーに反論されるが、丸く収めるならこれが一番適当だと思える。
「そもそも何で怒ってないのよ?!私のせいで他の令嬢から嫌がらせを受けているのでしょう」
「それは特に困っていませんので。私もアヴリル様に幸せになっていただきたいですし、現状ではこれが最善だと思っております」
「その前にユーゴ殿の気持ちをはっきりさせといたほうがいいんじゃないですか?多分初恋を拗らせているだけだと思いますし」
何故か一緒に付いてきたヒューが言葉を挟んでくる。
「何かいい案でもあるなら言ってみなさい」
ソフィーが命令するように言うと、ヒューは嬉々として作戦を話し始めた。
「ユーゴ殿は冷静で頭も良いが、どこか純粋な部分があるようだからな」
優雅な仕草でカップを口に運んだアーサーに、どこか黒い笑みが浮かんだように見えたのはサーシャの錯覚ではないだろう。
「基本は真面目で実直な性格ですから、アヴリル嬢の一途な想いに気づけばきちんと向き合うと踏んでいましたよ」
やはり男性同士思うところがあるのか、心配していたバッドエンドのような執着を見せることなくアヴリルへの想いを再認識したユーゴにサーシャも安堵を覚えていた。上手くいかなければ逆にアヴリルを傷付けることになるため、その場に連れていきたくなかったがヒューの強い確信とアヴリルたっての希望で、サーシャは必要なタイミングまでずっとアヴリルの傍にいた。
「では不自然にならないよう、私とソフィーが仲直りするのは1週間後でいいかな?冬期休暇に入る前なら学園外に余計な噂が広まる心配も少ないからね」
締めくくるように告げソフィーが頷くのを見ると、アーサーはにっこりと微笑んでソフィーの手に自分の指を絡めた。
「!!――で、殿下、何をなさいますの?!」
顔を赤くして慌てふためくソフィーをよそにアーサーは平然と続けた。
「ただの練習だよ?良からぬことを企む連中に隙を与えないように、私たちがきちんと仲直りしたと見せつけた方がいいだろう?」
サーシャが思わず隣に視線を向けるとヒューは無言で頷き、それから首を横に振った。
(これは、ソフィー様に対する好感度が上がったということでいいのかしら?)
今まで当たり障りなく続けていた婚約者としての関係性から変化したようだ。動揺するソフィーを見つめるアーサーはとても楽しそうで、ドSな腹黒王子という言葉が浮かんだ。
そしてヒューの仕草は、邪魔をすればアーサーの不興を買うので大人しくしていろという忠告なのだろう。
「ちょっと、サーシャ、何故納得したような顔をしているのよ?!」
「いえ、私は何も。―ソフィー様、頑張ってください」
「何を?!何を頑張れと言うの?!」
サーシャはソフィーの問いかけに答えず、紅茶を楽しむことに専念した。触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近寄らずだ。
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