月食人の備忘録
皆既月食だったので……。
──
俺は月を食べる。この地球上でたった一人、そうしないと死んでしまう人間だ。
俺がいつからこうなったのか。それは定かではない。ただ一つ知っているのは、俺が生まれた時、皆既月食が発生していたらしい。そして俺は、泣きながらそれを見つめていたと。
気づけば俺は、月を欲する人間になっていた。食いたい。あの月を食いたい。普通の人が何か食物を欲するように。水を渇望するように。俺は月を食べたい。
親は高い金を払って、俺に月の欠片を買い与えてくれる。月に一回あればいい方。一応生きてはいける。ギリギリだが。……だから俺は欲する。もっと欲しいと思う。あの月を。あの輝きを。
その欲望は、日に日に強くなってきているように感じる。それに伴って、こちらで食べるものの味がしなくなっていた。月一で得られる月の欠片が、こんなにも甘くて、酸っぱくて、しょっぱくて、苦くて……どうしようもないほど、旨い。
貪り尽くす。果たして俺は、本当に人間なのだろうか。部屋で一人、月の欠片を食べながら、俺は考える。しかし月を前に、そんなことはどうでも良くなってしまった。結局また、ただ貪る。
がり、むしゃ、がっ、がっ、がぎっ、ご、が、ごく。
いつしか俺は、月一では足りないと感じるようになった。もう俺の舌は、月以外の味を感じなくなった。確かに不味くはない。食えば腹は一時的に満たされる。しかし味のしないものを、毎日同じような時間に摂取する。それが如何に苦しく、辛く、俺にとっては地獄の時間か。きっと誰にも分からない。
親に訴えた。もっと欲しい。もっと、もっと月を。俺にあの甘美な食物を──。
だがそれは酷な話だった。親だって、俺にもっと満足のいくまで食べさせてやりたいと思っているはずだ。俺の両親は、とても優しかった。俺が月を食べる、変な人間でも、ここまで育ててくれた。
だから、やめた。親に請求するのは。もう迷惑を掛けられない。俺は家を出た。幸い成人していて、職にもありつけていたため金もあった。誰も起きていない時間に、そっと家を出て行った。
一人暮らしを始めた俺は、憤慨した。どうして月の欠片はこんなにも高いのか。こんなの俺に払えるわけがない。今まで払ってくれていた親に感謝したし、申し訳なさも襲った。が、今は食にありつかなければ。何とか生きてはいるが、空腹感で腹がよじれそうだ。狂ってしまいそうだ。ああ、早く何とかしなければ。
だが良いことも知った。月の土地は、買える。しかもそこらの小学生でもなんとかしたら買えそうな値段だ。さっそく俺は月を買った。ざっと東京ドームくらいの土地が、俺のものになった。
しかし問題もまだある。アポロ11号が月に到達して以来、月に行った者はいない。そして宇宙に行くのに、とても金がかかる。ああ、もううんざりだ。
そもそも、どうして月を「人間」が所持しているんだ。どうしてさも当たり前のように、月は「人間」のものになっているんだ。誰が決めたんだ。偉そうに。反吐が出る。
俺はもう、「人間」が勝手に決めたルールに従って月を手に入れようとするのは、やめた。だってそうしたら、生きられない。それに、俺は月食を生業とする者。きっと「人間」ではない。だったら従う必要もない。
ロケットの製作工場を襲った。運転出来る者を脅した。何人もの「人間」を襲って、脅した。全ては月を手に入れるため。あの味を、もう一度。
俺はロケットの中に乗船した。ああやっと、この日がやって来た。もう宇宙にさえ行ってしまえば。自分の所有する土地の欠片全てを持ち帰れば、もう一生困らない。……他人の土地を奪ってしまうのもアリか。どうせ土地を持っている「人間」も、自分の土地がどうなっているかなんて知ったこっちゃないだろう。だったら俺が自由にしてもいい。そうだろ? ──いや、そんな小さなことばかり言っていないで、いっそ住んでしまうのもアリか。宇宙で息が出来るか。そんなことは分からない。だが、大丈夫だという確信があった。
さあ、発射する。この時をどれだけ待ちわびたか。ああ、高揚感で死んでしまいそうだ。さあ早く。さあ、さあ──。
……そこでロケットの外から、やかましい声がした。次の瞬間には、ロケットから引きずり降ろされる。何だ。何が起きている。俺は月に行くんだ。離せ、離せ──!!
──恐喝罪で……。
──威力業務妨害で……。
「人間」が何やら騒いでいる。そんなの、俺には知ったこっちゃない。俺は月に行かなければいけないんだ。食べないと生きていけないんだ。ああ、食べたい、食べたい、食べさせろ──!!
遥か彼方に見える、月に手を伸ばす。手の中に納まって、でも、何も掴めなくて。
どうしようもなく焦がれて、咆哮する。
……どうしてだ。俺は。
俺は、生きたいだけなのに。
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