第42話 奇跡の風

 おそらくは男湯にも女湯にも繋がっていて、清掃業務をやりやすくしている場所だろう。

 大浴槽を二つに隔てる中央の大きな塀の隅の方は、従業員が色々な作業をするためだろうか、少し奥まったところに扉があって、目が届きにくくなっている。

 視界の一部にその場所も収まっていたはずだが、ほんの数瞬前まで、そこには誰もいなかった。

 だが、ふと気付いた時には、そこに一人の男がいた。

 温泉にもかかわらず、服を着ているのはやはり目立つ。


 従業員だろうか、と渡は最初に考えた。

 だが、ここで働く人間にしては、挙動が不審に過ぎる。

 周りの目を気にしている雰囲気があった。

 おまけに、記憶が確かなら、ここの従業員は揃いの服を着ていたはずだ。


 もともと施錠がされていなかったのか、あるいは鍵を何らかの方法で解除したのか。

 男が扉の中に入ったのを見た時、渡は慌てて男に近づいて声をかけた。


「何をしてるんですか?」

「はっ? な、なんでっ――!?」

「なんでもなにも、なにかゴソゴソしてるのが目についたので」

「ば、ばかな。うっ、と、透明化が解除されてる」


 男が目を見開いて、渡を凝視した。

 血の気が一気に引き、青褪めた顔をしていることから、まったくの予想外だったことは間違いない。

 ああ、これは確定だな、と確信した。


 一応、男がこの温泉の関係者である可能性も考えてはいたのだ。

 その場合はすぐさま離れるつもりだったが、その可能性は今なくなった。

 渡は自然と男から一歩距離を取った。

 警戒をあらわにして、表情を険しくさせる。


「あなたのやってることは不法侵入や器物破損ですよ」

「な、何を言ってるんですか。わ、わたしはここの従業員で――」

「従業員がなぜカギを壊してるんですか。おかしいでしょう」


 男の震える声は、信用したくても一切できない。

 あまりにも余裕を失っている。

 だが逆上するというよりは、渡に怯えているようだった。

 元々は気の弱い性格なのかもしれない。


 通用口の中は清掃道具が並んでいて、その奥には男湯と同じような扉があった。

 おそらくその向こう側はすぐに女湯の浴槽に通じているのだろう。

 うっすらと扉の隙間から、光が漏れ入っていた。


「大人しくしろ」

「い、いやだ……あともうちょっと、もうちょっとで桃源郷が見えるはずだったのに。あ、あんたが黙ってくれてたら良いんだ。一緒に秘境を見ないか?」

「お断りだ。いいか、女性の裸が見たけりゃ口説き落とすか、しかるべき所で対価を払え――!」

「ぐえっ!! う、うぅうぅ、まったく意識してない無防備な姿が良いのに……ぐふっ」


 男に武道の心得は一切無いようだった。

 素っ裸で心もとない渡の拳がまともに頬に直撃し、吹き飛ぶ。

 拳にじん、と嫌な痛みが走った。


 よほど上手く入ったのか、男は仰向けに倒れて、動かなかった。

 ぼんやりと天井を眺めている。

 人を呼ぶより、今は目の前の男を逃さないように倒さないといけない気がしていたが、上手く行ってよかった。


 痛みを誤魔化すように渡は手を振り、殴ってから相手が強かったり武器を持ってたら大変なことになっていたな、と気付いた。

 鍵を破壊しているのだ、何らかの攻撃手段を持っていておかしくなかった。

 マリエルとエアの裸が見られたらと思うと、冷静さを失ってしまった。


 もっと冷静に動かないと。

 男は計画が失敗したことで、すでに心が折れているのか、立ち上がる気配はない。

 渡は警戒しながら、距離を保った。


 不用意に近づいて反撃されたら、どんなケガを負うか分からない。

 ポーションがあっても、即死する例は珍しくないと、エアから口を酸っぱく忠告されていたのだ。


「すみません、誰か! 来てください!」


 ○


 その後すぐ、渡の声に気付いた男性利用者の一人が近づいてくれたことで、事態はすぐに従業員に伝わることとなった。

 覗き魔はぐったりと項垂れて連行されていった。

 店舗の服を着た牛人の男が、丁寧に深くお辞儀して、感謝の念を伝えてくれた。


 無事に守れたのだ。良かった。


「ご協力ありがとうございました。男はどうも『透明化』の付与がかかった装身具を使っていたようで、気付くことができませんでした。申し訳ございません」

「いやあ、気付けて良かったです。でも、それならどうして俺には見えたんですかね?」

「覗き防止のために、この従業員用の通用口や塀の周りには、『付与妨害』の術をかけているんです。あの男はそれを知らなかったんでしょう」


 従業員の言葉に渡は納得した。

 貴重な付与のかかった物を持っていたからには、それなりにお金もあっただろうに。


「はー、なるほど。悪用されないようになってるんですね」

「ええ。後で衛兵から報奨金が出ると思いますので、お名前を教えてください」

「ワタルです。明日の朝まではこの町に滞在する予定です」


 マスケスに紹介してもらった宿の名前を告げると、牛人の男はよく知っているようだ。

 軽く頷くと、何やら急いでメモを書き始めた。


「分かりました。すぐに別の係の者を呼びますので、ここの警備ができるまで見張ってもらえませんか? 信用できない者に預けるわけにはいかないんです」

「まあ、そういう理由でしたら」

「あなたの勇気ある行動で、多くの女性が助かりました。あらためてお礼申し上げます」


 せっかく覗き魔を捕まえたのに、通用口が開けっ放しになったら、大変な問題になってしまう。

 従業員の言い分にも納得できるところがあったので、渡は仕方なく了承した。

 せっかく温泉につかって骨休めできると思ったのに。




 男が取り押さえられて連行されていく間、渡はその場で立って待っていた。

 代わりの人員が来るまで、扉を見張っているしかない。

 湯冷めして風邪を引かないだろうか、とちらっと考えたものの、中は暖かいし、体は芯まで温もっていた。


 早く戻ってこないものか、と渡が暇をもてあそんでいると、鍵が破壊された通用口が風でガタガタと揺れ始めた。

 え、これもしかしたら開いてしまうんじゃないか?

 最悪の事態を想定して、渡は眉を顰めた。


「ねえ、本当にご主人様がこの先にいるの?」

「いる、間違いない。それもなにかトラブルを起こしてる」

「そう。エアが言うんだったら本当なんでしょうけど。ケガはされてない?」

「血の匂いはしない……温泉の匂いのせいで、確信が持てない」


 扉越しとはいえ、声と内容で誰かはすぐに分かった。

 どうも大きな塀越しにでも、渡の異変に気付いてくれていたようだ。

 すごい嗅覚や聴覚だと思いながらも、これではおちおち隠し事はできないな、と思う。

 まあ、マリエルとエアに隠すことなど滅多にないが。


 渡は扉に向けて声をかけた。


「マリエルとエアか?」

「ご主人様ですか? エア、あなたの言うとおりだったわね」

「うん、主、大丈夫?」

「ああ、何も問題ない。どうも覗きが出たんで、取り締まったんだ」

「主、危険なことはしないで」

「悪い。まあ無事だったんで許してくれ。次からは気を付ける」


 エアの真剣な声を聞いて、渡は謝った。

 護衛として日々真剣に勤めてくれているエアにとって、自分の目がどうしても届かない温泉でケガをしたら気に病んだだろう。


「うん。ご主人様が無事でよかったです。それで、今はどうされたんですか?」

「扉の鍵を壊されたみたいでな、今従業員の人が見張りに立つから、それまで代わりに見張っててほしいって言われた……んだ……」


 渡は言葉を続けられなかった。

 温泉の天窓から急に吹き込んだ風が通用口の扉を一気の押し開いた。


「あっ……」

「ご、ご主人様……?」


 まるで無防備だったマリエルとエアの裸が視界に入ってくる。

 二人とも大きな胸にきゅっとくびれた腰、ぷりんとしたお尻やむっちりとした太もも。

 そして大切な場所も含めて、すべてが渡の目に入った。


 たっぷりと温泉の水分を吸っているからか、いつもよりもさらに瑞々しい輝きのある素肌がまぶしかった。

 二人して元々肌が白いが、血行が良くなっているのか綺麗に桜づいている。

 お風呂で潤った瞳はキラキラと宝石のように輝いていた。


「わ、悪い!!」

「きゃあ! ご、ご主人様がこんなことをする方だなんて、幻滅しました」

「ニシシ、主がスケベなのは知ってたけど、覗きはダメだよ」

「ち、違う! 俺は――」


 普段見られているはずのマリエルが恥じらって、腕で肢体を隠そうとする。

 腕で押しつぶされた乳房がむにゅりとはみ出て桜色の乳首が隠しきれていない。

 むしろその反応が渡の興奮を誘った。

 エアは堂々としたもので、おっぱいを両手で持ち上げて、見せびらかしてきた。

 獣人の強靭なクーパー靭帯で支えられた巨乳が、ふるふると揺れ動く。


 渡は慌てながらも目が離せなかったが、次の瞬間、凍り付いた。


「騒がしいけど、どうかしました?」

「あ、いえ、大丈夫です」

「ん、何も問題はない。ちょっと二人でふざけてただけ」


 女性客がマリエルの声を聞いて、様子を確かめに来ていたのだ。

 だがその寸前、エアが急いで扉を閉めてくれたことで、女性客の目が渡を捉えることはなかった。


(ナイスプレーだ! エア!)


 若々しい女性の声に、姿を目に収められなかったのは残念だが、それ以上に渡は覗きをしたいという願望がない。

 紙一重の差で、渡の名誉は守られることになった。


――――――――――――――――――――――――――――

というわけで、貴重なお風呂回でした。

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