第12話 虎の尾を踏む格闘家
故障をきれいに治す方法がある。
そんな信じがたい情報を知り合いのプロ野球選手の遠藤から聞いて、田中はそれを受け入れるべきかどうか迷った。
世の中には富裕層向けの特別な治療が存在する。
都市伝説や眉唾物ではあるが、実際にあるのかもしれない、と信じたい気持ちも田中の決心を後押しした。
所属している飯田の成績はジム全体の売上に大きく左右する。
五百万という大金も、見返りを考えればけっして高いものではなかった。
だが、聞かされたもう一つの条件は耳を疑った。
飯田と非公式に試合がしたいのだという。
それも対戦相手は女性であり、田中は最初、記念対決のようなものだと捉えていた。
とても可愛らしい見た目をしていて、シャツとスウェットパンツを履いている姿は体のラインが浮き出ていて、格闘家というよりもグラビアアイドルのようにも見える。
ファンサービスの一環として、適度に手加減しつつ楽しませて終われば良い。
だが、これはどうしたことか。
飯田とエアの試合は、意外にもマトモな形で成立していた。
(動きが速い。飯田も言ってたがこれは素人じゃないぞ)
強い選手には特徴がある。
一つは圧倒的に運動量が多いことだ。
総合では一ラウンド五分間を戦うが、緊張状態において五分間をフルに動ける人間は非常に少ない。
余計な力みや緊張で呼吸は浅くなり、無酸素運動が強制される。
高い心肺能力と、敵を前にして適度に力を抜ける
そして、エアは間違いなく闘い慣れている者の構えだった。
肩からすっと力が抜け、上体を軽く揺らして的を絞らせない。
なによりも男である飯田を前にして軽い笑みを浮かべられるほどリラックスした肝の太さ。
(総合は初めてってことらしいから様子見してるんだろうが、本気でやりあったらどこまで動けるんだ?)
飯田が軽いジャブをいくつも放つ。
出どころが分かりづらく、気づいたら伸びている無駄を削ぎ落したジャブだ。
ジャブの速度は人の反射速度の限界を超える。
だから
躱すためには、的を散らさせ、ブロックでジャブのコースを制限させ、予備動作を捉える必要がある。
エアはそれを難なくやり遂げた。
(反射神経がすごく優れているな! いくつか当たったと思ったけど、全部紙一重で避けてる)
田中は飯田の勝利は一切疑っていない。
だが、エアの活躍には面白味を感じていた。
(この子、面白い! ウチで鍛えたら良い選手になるぞ!)
(なんだったら今すぐデビューさせてもいいぐらいだ!)
エアが異世界で絶対無敗の王者であったことを知らない田中は、エアのデビューから女子総合のチャンピオンへと上り詰める姿が想像できた。
飯田が距離を詰め、エアが距離を離す。
エアの素早さは軽量級さながらで、リングを縦横無尽に飛び回る。
この速さは飯田にはないものだ。
だが落ち着いて少しずつリングを周り、ロープ際へとエアを押し込もうとする。
リングで闘ったことのないエアには、ロープで区切られた狭い空間での経験の少なさが悪い方向に影響していた。
「ご、ご主人様、エアが押されてますよ!」
「ああ、そうだな。でも今のところ一発ももらってないぞ」
「でもでも、あの飯田って選手、ものすごく余裕そうです!」
「落ち着け。もうすぐ一ラウンドが終わる」
マリエルがハラハラと落ち着きなくリングを見ている。
観戦しているマリエルはただ押されているように見えているのだろう。
攻められ続けていると、相手は脅威を覚えないからどんどん強気になってしまう。
エアも見て覚えたジャブを真似る。
その瞬間、飯田の顔色が変わった。
経験者でないと出せないような鋭い一撃だった。
直撃こそしないものの、飯田が慌ててバックステップで距離を取り仕切り直した。
(おいおい、ジャブまで本物かよ。総合は初めてって言ってたけど、ボクシングとか習ってたのか?)
田中がますますエアを何とか勧誘したいと思いを募らせはじめた時、終了を告げる鐘が鳴った。
「どうだった? 私の目には女子プロの実力はありそうだったが」
「いや、綺麗な女の子だと思って油断してたらヤバかったっすよ。あの子本物だよ。めちゃくちゃ速い。次はもうちょっと近づいて打ち合ってみようかな」
「ケガをさせるなよ」
「気を付けるっすよ」
「それで腰の方は。薬の効果はどうなんだ?」
「最高。まったく痛くないし、これまで壊れてた体の中に軸が、ちゃんと通った気がする」
飯田の腰は端的に言って、壊れつくしていた。
腰椎分離すべり症という、脊椎の椎弓と呼ばれる部分が折れたために、背骨がズレて移動し、神経に触れてしまう病気で、飯田はこれまで度々腰から脚にかけての激痛と痺れに悩まされた。
医師から痛み止めの注射を打たれながら続けることも多かった。
その骨がピタリと元の正しい位置に収まった感覚。
パズルのピースが嵌ったような、あるべき物があるべき所にある、という安心感を感じると飯田は言った。
(よかったなあ……。これで後試合が三年は組めるとして一回の稼ぎが……)
これまで面倒を見てきた選手の回復を素直に喜ぶ自分と、経営者の一人として、冷静に稼ぎを計算する自分がいる。
多くのジムを借りて運営して多額の運営費をかけているからこそ、田中は人気選手の商品寿命に敏感にならざるを得なかった。
反対コーナーに戻ったエアは、一体どんな体力をしているのか、五分間ほとんど動き回っていたのに、呼吸を乱した様子もなく、落ち着いて渡たちと話をしていた。
「だ、大丈夫なの、エア!?」
「うん、ヘーキヘーキ」
「無理しないでね。ケガしたら嫌よ」
「どうだ? 感触は」
「余裕。ちゃんと全部見えてる。でも凄く洗練されてて危ないところもあった」
「大丈夫なんだな? それだけ分かれば良い。次のラウンドも頑張ってこい」
「うん、見てて。アタシが最強って所を見せてあげる」
一分間の休憩を挟んで二ラウンド目。
今度はお互いの打撃が当たり始めた。
エアが極端な距離を離す戦法を止めたためだ。
(おいおい、業界最強の飯田のストレートを見ながらブロックしてるよ!)
田中は目を見開いて、この戦いを凝視しはじめた。
飯田が中量級の二階級制覇を果たした王者になったのは、ヘビー級でも通用しそうな重たい打撃があってのことだ。
マトモに当たれば鍛え上げられた格闘家でも一発でダウンする。
そんな強打をエアが的確に一発一発払いのけている。
驚くべきことは、払い切れる力を持っていることだ。
下手なブロックでは、ブロックごと直撃を受ける選手も少なくない。
「ハハッ、マジかよ。これはどうだ!?」
「ニャハハ。まだまだいけるよー」
「オラッ!」
「きゃああ、エア、大丈夫!?」
「んあっ! 当ったらない当たらない。風が涼しくて気持ちいいー」
飯田の回転が少しずつ上がっていく。
ジャブからストレート、フックを織り交ぜ、時には死角からハイキックが飛び出してくる。
だが、それらすべてをエアは受け、払い、余裕をもって躱す。
リングの上で飯田がおかしなものを見たと歯を見せて笑い、ますますギアを上げていく。
(飯田のやつ本気になってるな。それについていけるこの子も何者なんだ!?)
(うおっ、あれを躱すのか!! 間違いなくこれ、飯田の全盛期だぞっ!?)
驚きの連続に目が離せない。
飯田の初めて見せる全力の凄まじい速さ。
それに完全に対応しているエアのスピードと反応。
(あー、畜生。配信してたかったなー。金が取れる試合じゃないか。くっそー)
(本気でスカウトしたい)
鐘が鳴って、二ラウンドが終了した。
コーナーに帰ってきた飯田は汗が吹き出し、大きく呼吸を繰り返していた。
三ラウンドまでとはいえ、ペース配分が乱れている。
相当な消耗具合だった。
「おい、大丈夫か?」
「へへへ、体が凄く軽いんで結構飛ばしちゃいましたね」
「しかしお前の全力もエグいけど、なんだあの子」
「いやあ、天才っすね。今度から俺のスパー役に頼もうかな」
楽しそうに話しながらも、疲労の色が濃い。
(スタミナお化けの飯田が、ここまで疲れさせられるのか……)
田中は唾を飲み込んで、相手コーナーを見た。
渡は余裕の表情。
先ほどハラハラしていたマリエルという少女も、先ほどより落ち着いてみている。
「どうだ、力加減は把握したか?」
「うん、アタシのほうが全然力持ち。ぶいぶい! にひひ!」
「大丈夫そうだな……じゃあ最終ラウンドだ。いいか、
「んふふ、たっのしみー!」
獰猛な笑みを浮かべてコーナーから出たきたエアに、不意になぜか、田中は猛獣を前にしたような恐怖を覚えた。
まるで幾度も大物を仕留めた老熟した野生の虎を前にしたような威圧感。
(……はは、まさかな)
それでも飯田の勝利は揺るがない。
田中は嫌な想像を否定した。
ゴングが鳴る。
最終の三ラウンド。
今度はエアが勢いよく飛び出してきて、盛んに打撃を繰り出す。
「おっ、やべっ、ほっ、シッ!」
「んふふ、どうにゃ!」
「くう、ま、まじかよ」
軽量級の俊敏な動きはそのまま、矢のように突っ込んでくる。
飯田がストレートを放とうと踏み込んだ瞬間、バスン! と鳴り響く鋭いローキックが飯田の太ももに当たった。
角度や当たる場所でおおよそのダメージは推測できる。
生半可な攻撃ではなかった。
一瞬飯田の動きが止まった。
(そりゃ女子でも蹴りの威力は強いけど、ええ……)
驚くというよりも呆れてしまう。
それと同時に、さすがに倒されるわけにはいかないと、セコンドの仕事を思い出した。
「飯田! 打撃だけじゃなくテイクダウン持っていけ!」
「ッス!」
飯田が寝技を狙わなかったのは、相手が女の子だったからだろう。
打撃で決着が着くなら、あえて接触を多くすることもないと遠慮していた。
だが田中は遠慮なくテイクダウンを取ることを指示した。
さすがに飯田が押されたままで終わるのは、私的な練習とは言え外聞が悪い。
マウントを取ってしまえば、体重差や身長差から圧倒的に有利になる。
なによりも総合格闘技を経験したことのないエアにとって、致命的なポジションになるはずだった。
見せジャブをフェイントにしての超高速タックル。
両足を抱え込んで、後ろ倒しにする飯田の得意技の一つ。
これまで打撃だけを見せていたためか、エアは簡単にテイクダウンを取られた。
(やっぱりこの子、打撃専門だ!)
(このままマウントポジションから打ち下ろしを狙えば勝てる!)
田中の頭からは記念対決などという考えは完全に抜け落ちていた。
だが飯田はおそらくはもっと早くから、真剣なものに切り替わっていた。
マウントポジションからの打ち下ろし、膝や肘を使ってもいいし、あるいはそこからの固め技に繋げることもできる。
勝利への道筋を幾通りも考えていただろう。
その時、まったくの予想外の事態が起きた。
寝転がったことで逃げ場を失ったエアの尻尾を、たまたま飯田の足が全力で踏んだのだ。
見えていない飯田には、当然狙ってできたことではない。
エアを一般人に見せている『変身』の装身具は、隠せても実体がなくなっているわけではない。
耐えがたい激痛がエアを襲った。
「い゛っだあああああああああああああああああああ!!」
「ぐわああああああああああああっ!?」
「エア!!」
「い、飯田!?」
「げほっ、ごほっ……」
エアが大声を上げて、つい加減を忘れて全力で突き飛ばしてしまう。
飯田はリングの端へと弾丸のように吹き飛び、ロープを思いきり撓ませたあと、跳ね返ってリングにぶつかった。
「いつつつつ……すっげえパワー。っていうかなんだあの感触……」
「い、いだいにゃあ……アタシの自慢の尻尾が……」
「ご、ご主人様! エア、エアが!!」
「だ、大丈夫か!? 田中さん、中止でお願いします!」
「は、はい!」
涙目になったエアが見えない尻尾を掴んで擦っている。
吹き飛んだ飯田も大きなケガはないようだったが、突然の驚くべき力と尻尾の感触にビックリしていた。
かくして飯田VSエアの対決は、未決着のまま終わりを告げることになった。
命を懸けた戦いにおいて、使える手はすべて使うべし。
そんな意識を持ったエアにとっては、尻尾を踏まれたのは自分の責任であって、飯田の落ち度は一切ない。
それに尻尾も一時的に痛かったが、後遺症を残すようなこともなかった。
後に尾を引くこともなく、すぐさま和解が成立した。
終わってみれば大怪我もなく、お互いに得るものの多い試合だったのだろう。
エアも飯田も晴れ晴れとした爽やかな表情を浮かべていた。
「君みたいな強い女の子がいるなんて驚いた。またやりましょう」
「ふふん、イイダの技は見切った! 次は絶対アタシが勝つ」
「言ったな!」
お互いに認め合ったのだろう。
がっしりと握手を交わす二人の姿はとても絵になっていた。
その姿を見ていた渡は、形容しがたい気持ちに襲われていた。
「夜の寝技なら俺の方が強いし……」
「ご主人様、そこで夜の話題が出るのはちょっとカッコ悪いです……」
「にひひ、主が嫉妬してる! アタシが鍛えてあげようか?」
「良かったら
「いいですね! 俺が全力で鍛えるっすよ?」
「結構です! エア、マリエル、帰るぞ!」
「はーい! またやろーね!」
「では、田中様、飯田様、本日はありがとうございました。失礼します」
渡たちがジムを後にする。
その後ろをエアとマリエルが慌ててついて行った。
――――――――――――――――――――――
五千字超えて、めちゃくちゃ長くなってしまった……。
ちなみに作者、柔道は三年ちょっとやったましたが、総合は未経験者です。
間違いがありましたらご指摘ください。
追記。コメントをもとに本筋が変わらない程度に、少しだけ修正を行いました。
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