第03話 二人目の薬の購入者 笠松遼太郎

 亮太が渡に紹介した笠松遼太郎の名は、高校球史において燦然と輝いている。

 関東の名門野球部に所属し、甲子園の出場回数は計四回。

 二年生には不動のエースとして君臨し、三年には春夏連覇を叶えた。


 当時最速一五八キロの速球と、まったく同じフォームから放たれる縦・横のスライダー。

 手元で急に落ちるスプリットの存在もあって、三振の山を築いた。

 プロでも即活躍間違いなしのドラフト一位最有力候補。

 これだけでも十分な知名度を誇っただろうことは間違いない。


 だが、なによりも笠松の名を知らしめたのは、三年の夏の甲子園で奇跡を起こしたことだ。

 奇跡の始まりは二年夏の初戦、九州の高校と当たった笠松は、九回二死まで完全試合を達成した。

 球場を包む異様な緊張感の中、最終打者を凡打に打ち取ったかと思った瞬間、キャッチャーがまさかの暴投。


 記録はエラーとして残り、完全試合の夢は絶たれた。

 続く打者を三振に打ち取り、惜しくもノーヒットノーランを達成した笠松は、泣きじゃくる女房役の肩を抱いて強く慰めたという。


「泣くなよ。まだチャンスはあるじゃないか。お前の采配で俺をもう一度完全試合に導いてくれ」


 その年、笠松たちは準決勝で敗退する。


 しかし翌年、再び奇跡は起きた。

 三年夏、最後の甲子園の地に臨んだ笠松は、準決勝戦にて完全試合達成し、昨年の雪辱を果たす。

 高校野球甲子園において、夏の完全試合は初めての偉業だった。


 その活躍の裏には全国のライバルたちの情報を調べ、的確な采配をした捕手の存在があったという。

 笠松の名は怪物二号として不動のものとなった。


 ここまでが光の部分。

 プロに入ってからの笠松の経歴は、暗黒期が続く。

 ドラフト一位指名で入団し、初戦を見事勝利投手として終えたものの、まさかの肘のトラブルが発生する。


 上腕骨内側上顆炎。

 いわゆる野球肘を発症し、手術による長期戦線離脱を余儀なくされる。

 その後は投球の感覚が狂ってしまい、球速や制球に問題が見られるようになり、長らく二軍生活が続いた。


 今では二軍なら間違いなくトップクラスの活躍をし、定期的に一軍に昇格。

 一軍では被安打を大量に浴びての降板を繰り返していた。


 高校時代に驚くべき成績を残しながらも、そこがピークになってしまう選手は少なくない。

 それでも笠松の復活劇を期待しているファンは多い。

 かつての栄光をもう一度。カムバックを。

 奇跡を見せてくれ。


 何よりも現状に不満を抱えているのは、笠松自身だっただろう。


 自分の元々のポテンシャルは誰よりも把握している。

 もっとやれる、やれたはずだ、と苦々しく思っていた。

 だが、できない。


 有名病院はもとより、多くの整体やカイロプラクティックなど治療を受けた。

 投球コーチによる指導でフォームを矯正したりもしたが、体が思うように動かず、不本意な投球を強制される。


 自分でも後がないと不安に襲われつつもがき苦しみ、あがき続けたある日、福音が聞こえた。


「なあ、笠松。お前に良い話があるんだけどさ」


 遠藤亮太。

 同じ球団の先輩で、才能に溢れながらも、ケガに苦しむ同じカテゴリー仲間だ。

 入団以来よく相談事には乗ってもらっていて、世話になっている。

 それでも、次の言葉は安易に信用できなかった。


「金さえ出せばお前のケガが一発で治るって言ったら、どうする?」

「どうするもこうするも、いくらだって出しますよ。先輩でもそうでしょ?」

「だよな。俺さ、知り合いに薬を売ってもらって治ったんだ」

「えっ、本当ですか? 先輩騙されてません?」

「これ診断書。検査の結果、完治だってよ」

「……うそでしょ?」

「本当だよ。へへ、見てろよ。俺めちゃくちゃ活躍して見せるから」


 亮太の膝は完全に壊れていた。

 持ち前の運動神経でカバーしていたが、俊敏で野生の獣のような素早い動きはなくなり、見るものが見れば痛々しかった。

 遠征のバスに乗りながらサポーターでガチガチに固めた膝を、ずっと擦っていたのを知っている。


 その亮太の膝が完治した。

 にわかには信じがたい話だった。


「五百万、用意できるか? 俺が紹介してやるよ」


 プロ入りしたときの契約金こそ高かったものの、二軍続きの笠松にとっては五百万は十分に大金だ。

 それでも体が本当に治るならば……。

 もはやマトモな方法で肘が治る見込みは考えられなかった。


「お願いします!」


 藁にもすがる思いで、笠松は頭を下げた。


 〇


(こんな栄養ドリンクみたいな瓶一本が五〇〇万かよ。これで効かなかったら詐欺だよな)


 大阪の都心部のレンタルスペースに、笠松は来ていた。

 体の状態が良くなってすぐに動きが試せるように、ということだ。

 レンタルスペースと言っても会議室などではなく、フィットネスやヨガなどのスタジオ風の作りになっていて、部屋は広く、四方には鏡が設置されていた。


 遠藤から紹介された渡という男は、笠松にはどことなく胡散臭く感じた。

 そんなにすごい薬を売っていながら年が若い。

 営業っぽい雰囲気が感じられない。

 待ち合わせ場所がレンタルスペースだったことなど、不安な点がいくつもあった。


 笠松は一時、有望なプロ野球選手として多くの社会人に囲まれていたこともあった。

 一廉の人物は大体、それなりの風格を備えている。


 その経験からすると、渡は超優秀な人材というよりは、優秀、もしくは平凡な人物に見えてしまった。

 とびきりの美女二人が後ろに控えて笑みを浮かべているのも、なんとなく怪しい。


(いや、疑ってる一番の理由は、本当に治るのかが、自分自身で信じきれてないからだよな)


 そんな疑念が表情に出ていたのだろうか。


「どうされますか。信じられないようでしたら、止めていただいても構いませんよ?」

「いえ、飲みます」

「そうですか?」


 聞かれて、笠松は慌てて否定した。

 ここまできて止めるという選択肢はない。

 飲んで必ず治る保証はないが、飲まなければ治らない。

 そして軽く話したところ、この薬を求めているライバルたちが多くいるようなのだ。


 約束の現金は事前に下ろしてきた。

 公にしないという契約書も書いた。

 下手に口外しないようには、亮太からも念を入れて釘を刺されていた。

 あとは結果を信じて飲むだけだ。


 スタジオに唯一設置されていたテーブルに、問題の薬瓶が置かれていた。

 小さな栄養ドリンクぐらいの大きさ。

 コルク栓を抜いてグイっと一気に飲む。

 とろみのある甘い味が口に広がった。


「すぐに効くと思うんで、そのまま座っていてください」

「ええ。…………あっ、なんだ、これ!?」

「大丈夫です。薬の効果が出てきているだけです。落ち着いて」


 座ってソワソワと変化を待つこと数秒。

 不意に右肘の内側に熱さのような、痒みのような不思議な感覚に包まれる。

 そして驚いたのが、目をやった自分の肘がわずかに発光していることだ。

 笠松は目を見開いて、自分の体を凝視した。


(なんで体が光るんだよ。おかしいだろ! ホタルやイカじゃねえんだぞ!)


 不思議な光景に笠松は焦りを覚えた。

 だが、同時に肘に長年感じていた熱感や違和感がスウッと引いていくのが分かる。

 光が完全に収まった後には、体が先ほどまでとは別物になっているのが、何も言われなくても分かった。


「へへ、なんだこれ……」

「光が収まったので、もう存分に体を動かして大丈夫です。効果を実感してみてください。こちらにシャドー用のタオル、それとボールとネットも用意しています」

「ああ、さっそく試させてもらう!」


 投げる前から分かる。

 これは本物だ。

 あるべき場所に、あるべき物が完璧に収まっている安心感。


 いつもと同じように構えているのに、安定感が違った。

 投げる。

 投げる。


 確かめるように、肘を試すように。

 感覚の違いは投げれば投げるほど修正されて、どれだけ全力を振り絞ってもまったく痛くないことが分かる。


 ボールが走る。

 鋭く進み、ネットを揺らす。


 治った。

 治ったのだ。

 投げれる。また全力で投げられる……!


「あ……ああ。あ゛あッ!!」


 気づけば笠松は嗚咽を挙げていた。

 視界が涙で滲んで、まともに前が見えない。


「おれ、またっ、投げられるんだ……」


 これまで抱えてきた不満や不安が一気に表に溢れでてしまった。

 顔を真っ赤にして頬を涙で濡らして、笠松はたまらず左手で顔を覆った。

 次から次に涙があふれて止まらない。


(これじゃ今すぐもっと投げたいのに、投げれないじゃないか)


 顔を伏せて涙を流す笠松に、渡たちも思わずもらい泣きしている。

 立ち尽くす笠松に近づくと、優しい声をかけてくれた。


「良かったですね」

「あ゛、あ゛りがどうございまず! あ、あなたは救世主だ!」

「そんな凄いモノじゃないですよ」

「貴方には俺たちがどれだけ治りたかったか分かってない。本当に、本当にどれだけ苦しんできたか。この一本の薬瓶が、どれだけありがたいか!」


 自分の人生のほとんどを競技に捧げてきた。

 友達とゲームをする時間も、学校のイベントでバカ騒ぎする時間も、家族で旅行する時間も、全部全部、野球に捧げてきた。

 自分の体は人生そのものなのだ。

 それを容易く治してしまった渡は、笠松にとって救世主にも等しかった。


 渡にどれほど想いが伝わっただろうか。

 苦笑を浮かべ、助手の女性たちと三人でしばらく落ち着かせられる。


「しばらく様子を見て調整してください。病院で精密検査を受けるのも、安心できて良いかもしれません」

「はい……ん゛んっ、ほんと、ありがとうございました」


 本物だと分かって、信用していなかった自分が急に恥ずかしく思えてきた笠松は、自然と渡に対して敬語使いになっていた。

 涙が引っ込むと、照れくさそうに笑みを浮かべる。

 疑いは完全に晴れていた。


「体が治ったからと言って、それで確実に活躍できるわけじゃないですからね。あとは笠松選手の練習次第ですよ」

「それは言われるまでもなくわかってます。俺もプロですから。体さえちゃんと動けば、もっと活躍できます、必ず」


 その点に対しては自信があった。

 プロの他の投手の球を見ていても、自分の高校の頃の方が良い球を投げられていたと言い切れる。

 曲がりなりにもプロとして多くの選手を見てきて、自分の立ち位置については嫌というほどよく分かったのだ。


「あの、本当に宣伝しなくて良いんですか? 俺、いくらでも証言しますよ」

「ありがとうございます。でも、薬がまだ数を用意できないんです。注文だけもらっても待たせることになるから。それにすごい騒ぎになるでしょう?」

「それは間違いないですね。野球選手だけじゃなくて、世界中のアスリートが放っておかないですよ」

「マスコミに騒がれても、正直困るんです。本当に信頼できる人を一人か二人だけ、ご紹介ください。だからあの契約はちゃんと覚えていてくださいね」

「わ、分かりました」


 渡に念押しされた笠松は、絶対に忘れないでおこうと肝に銘じた。


 笠松遼太郎はその後、優勝争いから脱落した消化試合になったペナントレース終盤、久々の一軍登録を果たし、七回二失点無四球で数年ぶりの勝利を得た。

 スポーツ新聞だけでなく、お茶の間のニュースにも放映される。


 投球内容が優れていたことから翌年の登板機会が増え、一軍に定着。

 完全復活を果たし、月間MVPや最優秀防御率などを取る球団の柱にまで成長するには、まだしばし後の話。


 そして笠松への薬の販売を終えた渡は、あるレジェンドと対面することになる。

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