祓い屋トミノの奇譚録

駄犬

祓い屋トミノの記憶巡り

記憶と彼女

 生まれてこの方、誰かの大笑いや、大泣きを見ることはあっても、したことはない。ときに、感情の乏しい人間だとレッテルを貼られることもあった。酷く腹立たしかったのだろう。見舞った面はとうに忘れても、こうして覚えている。記憶とは、感情に紐付けられたパズルのピースだ。忘れたと思い込んでいても、ふとした瞬間、引き出されて喜怒哀楽のどれかに差し当たる。


 無難な選択に感情は伴わず、無数にあったはずの人生を左右する決断という奴が、全くもって思い出せない。無味乾燥な人生の最後を飾る遺書も期待が持てないのだから、当時の自分に「タイムカプセルに展望を記せ」、と時間を与えられても無為に過ごしたのは当然の事である。徒然とペンを回して都合の良い将来について夢想し始めた頃、隣の席に座る彼女は既に書き終わっていて、ペンを机に置いていた。


 前世では仲睦まじくも散り散りとなった男女が、今世に於いては幼なじみとして関係を築く。そんな意義深い背景を行間から起こさねば語れない器量が戸崎三咲にはあり、とてもじゃないが分不相応な身であると自覚している。


「戸崎……は今日も休みか」


 無遅刻無欠席、優良健康少女が立て続けに学校を休んだ。社交性に事欠かない彼女の人脈は、教室を山の天気さながらに空気を一変させる。自分には、事情通を名乗るのに充分な屋台骨は備わっているが、彼女の動向を知るには少々越えるべき障害があった。彼女の自宅に伺いを立てたなら、開口一番に「お久しぶりです」と、枕詞を使わねばならない年月が経ってしまっているということ。ある日を境に家族ぐるみの付き合いが疎かになっていたのだ。


「髪、伸びたな」


 人肌恋しそうな錆び付くサインポールは、彼女の自宅の目印でもあった。ここでは昔、散髪をよしなにお願いしてもらっていた。しかし今となっては、どのような手捌きでどのような顔をしていたのかさえ、おぼろげだ。カーテンが閉め切られた二階の窓を俺は注視する。幼少の頃、彼女の部屋へ遊びに行ったことがある。細かな作りは覚えていないが、窓の位置程度なら頭の中に入っている。床に伏しているであろう、彼女の姿を心の中に浮かべて祈りを込めた。快方に向かうことを。


 しかし、少し考てみろ。お百度参りという、裸足で神仏へ祈願する涙ぐましい努力をして漸く、願いを届ける方法があるのに対して、道端で誰に願う訳でもない、独り言を誰が叶えてくれるというのだ。学生ならではの夏季の休暇を迎えるまで、彼女は終ぞ、登校してくることはなかった。


 平日の昼間、出来るだけ薄着をして町を闊歩していると、ビル群がスーツに身を包む男女の群れを吐き出した。これでもかとカンカン照りの日差しを浴びせる太陽の眼差しに、皆一様に苦い顔をする。俺もそのうちの一人だ。あまりの暑さに日影を常に探して歩き、時折立ち止まって汗が引くのを待つ。まるで渡り鳥のようである。


 背負った煉瓦造りのレストランは、ランチメニューをデカデカと押し出して、客引きに余念がない。俺は卑しい値踏みの体裁をもって、店内をそれとなく一瞥した。


 逃げ水を追った覚えはない。しかし、彼女の陽炎を見てしまったのは何故なのか。彼女と向かい合う背広の男が、談笑に励んで和やかな表情を湛えている。それは逢瀬を重ねた恋人同士のようなやりとりだった。見ていられず、俺は身体を翻して不詳の背中をレストランへ向け直す。


 意地汚い腹積りで視線を操った疚しさが裏返って睨み返された。その場から立ち去ることを選べず、未だ仁王立ち、煮えくり返る感情を持て余している。刑事顔負けの凛然たる目付きで自分の脇を通して盗み見る。先刻は、男の方に注いだ熱視線を彼女に移すと、実に愉しげな所作と笑みが伺え、身体の不具合は一切見られない。学問への精進を放棄し、愛を囁き合い茶を交わすなど言語道断。不貞の致すところである。


 暫くして、彼女が席から立ち上がり、背広の男に何かを渡す。食事を終えた客の行き先は決まっている。俺は、靴紐を結ぶシルエットに擬態し、彼女の視線を掻い潜る姿勢を取った。来店と退店を兼ねる扉の鈴が鳴り、殊更に息を殺せば、彼女の注意は全くもって此方へ向かず、ひたすら悠然と風を切る背中を

見送った。その背中に侘しさを覚えたのは我ながら呆れる。


 アスファルトの地面の僅かな砂利を踏み締める革靴の硬質な足音が、直ぐ隣から発せられた。それは、気の抜けた姿勢を正すきっかけとなり、直ちに厳しい表情を拵える。


「君、ずっと見てたでしょ」


 胸ぐらを掴み合って、怒気を飛ばす血気盛んな姿は凡そ想像できない。ただ、バツが悪いと汗を滲ませ、脱兎の如く逃げ出す真似はしない。俺は、コイツに問い正さずにはいられなかった。


「俺、彼女の同級生なんですけど、学校を休んでいる事をご存知ですか?」

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