夏にふたりで溶け合うような

こぞたに

第1話

 暑い。


 いろんなものがギチギチに詰められたスーパーのレジ袋を両手で吊り下げながら、私は日差しに照らされたアスファルトの上をダラダラと歩く。さっきから汗が髪とか頬とかを伝っては顎からぽたぽたと垂れ続けていて、それを振り払おうと頭をぶんぶんと振ってみた。


 隣から、漏れるような笑い声が聞こえる。


「なに」


 顔を少しだけ上げてその笑い声の主を睨みつける。彼女はついに耐えきれなくなったのか、あはは、と笑いながらごめんごめんと私の頭をわしゃわしゃ撫でてきた。


 実花みかの撫でたがり癖はいつものことで、私はそれに応えるみたいに目を細めてしまう。なんか懐柔されてるみたいだ。そのことに腹が立って、半分八つ当たりのようにもう一度彼女に鋭い視線を向けた。


「そんな怒んないでって」


 そう言いながらも実花は手を止める気はないらしく、ニコニコしながら私の髪を乱し続ける。くすぐったい。身をよじりながら、もう怒ってないからとこぼすと、実花の手はそっと離れていった。


ぐちゃぐちゃになったショートヘアーを整えるように頭をわさっと一振りすると、実花に優しく手櫛で梳かされる。やめてと言いかけて、まあいいか、と素直に目を閉じた。


「はい終わり」

「……ありがと」


 頬にもう一筋、汗が流れる。それを肩で拭うようにしながら、あっつ、と漏らすと、やばいよね、と言いながら実花は自分の軽そうなレジ袋からアイスを取り出した。


「なにそれ、いつ入れたの」


 さっきの買い物で入れた覚えがなくて、私は尋ねる。


「暑かったから、こっそり入れちゃった」


 そう笑いながら実花はパッケージを剥いて、水色をした氷菓子をしゃくりと食べると、頭が痛くなったのか、目をぎゅっと結んで顔をしかめた。その隙に彼女の持つ棒に顔を近づけて食べかけのそれを削ってやる。口の中にラムネ味の冷たさが広がって、さっきまで熱を帯びていた頭がキンと冷やされる。


「……っ、痛った……」


 でも、最高に美味しい。ふた口目が欲しくなって、アイスに向かって大きく口を開ける。かじりつこうとしたその時、ふいにアイスは持ち上げられ、そして実花の口に吸い込まれていった。


「はい」


 今度は私の目の前に棒が差し出され、私はそれにかじり付く。ゆっくりと氷を舌で転がし、小さくなったそれをごくりと飲み込むと、不意にはっくしゅ、とくしゃみが出た。同じような音が聞こえて隣を見ると実花もくしゃみをしていて、ふと目があって気恥ずかしさで目を背けてしまう。


「……美味しいね」


 実花が、顔を真っ赤にしながら笑った。うんと頷いて、私たちは一本のアイスをふたりで食べすすめる。最初は綺麗な直方体をしていたアイスもどんどんと減っていって、最後には棒だけになってしまった。


「ちょっとだけど体冷えたでしょ」

「うん」


 彼女の言う通り、さっきまで火照っていた体はだいぶ落ち着いてきていた。アイス、ありがとね、と言うと、実花は照れくさそうにえへへと笑って、でも食べ終わっちゃったと名残惜しそうな顔をした。


「……家までもうちょっとだよ」


 その顔を見つめ続けているのにふと気づいて、何か話題はないかと変なことを口走ってしまう。実花は一瞬きょとんとした顔をしたけれど、そうだね、と眩しい笑顔を浮かべた。


十字路を左に曲がればすぐ私たちの住むアパートが見えて、実花は走り出すとやがて止まってとうちゃーく、とこちらを振り返る。手はVサインを作っている。その満面の笑みに急かされるように、私も早歩きでアパートの階段下の日陰に潜り込んだ。


「早く部屋入ろ」


 暑すぎ、と実花は恨めしそうに言って、手で自分を扇ぐ。確かにアイスを食べて引っ込んだ汗がまた出始めていた。シャワーを浴びたいと実花に言うと、彼女はいいねと親指を立てる。


 カツカツとふたり分の足音を響かせながら、二階へと階段を昇る。実花は機嫌がいいのか、その軽快な足取りのまま、たったかと二〇三号室——私たちの部屋のドアへと向かって、私は重い荷物を左右に揺らしながらそれを追いかける。ふと、ジーンズの後ろポケットを探っていた実花がこちらを振り向いた。


「どうした?」

「鍵、持ってないや」


 ちょっと申し訳なさそうに私を見る彼女に、持っててと自分のレジ袋を押し付ける。それが思ったより重かったのか、実花はぐえと声を漏らした。


「お、重い……、早く開けて……」

「はいはい」


 荷物に振り回されてふらふらと動く実花に早く早くとせっつかれながら、私は肩掛けかばんから鍵を見つけ出してドアを開ける。途端にひんやりした空気が外に漏れ出してきて、そういえばエアコンをつけっぱなしにして出てきたことを思い出した。


「あー、涼しい」


 玄関に荷物を置くやいなや、実花はそう言って溶けるように床に寝そべる。よほど気持ちいいらしく足をぱたぱたと動かしながら目を閉じる彼女に、そんなところで寝ちゃわないでねと釘を刺しながら、私は玄関の鍵をかけてポストを手で探る。数枚の紙が指先に当たり、どうせ広告か何かだろうと思いながらそれを引っ張り出すと、案の定カラフルなチラシばかりだった。やっぱりと思いながら適当に紙をめくり、その中に透明な袋に包まれた冊子が二枚あるのに気づいて、それらをチラシの束から引っ張り出した。


 同窓会会報。高校のものだ。


 一部は私宛で、もう一部は実花宛だった。実家からこの家に引っ越して数か月しか経っていないからか、律儀にこんなのまで転送されてきたらしい。


「何だった?」

「同窓会の会報。高校の」


 いつの間にか床に寝そべるのをやめたらしい実花が、私の肩越しに私の手元を覗き込んで、つまらなそうに再び離れていく。表紙には成功しているらしい卒業生の顔が大きくうつされていて、私はそれを一瞥してチラシの中に戻した。


「高校か〜」


 実花が懐かしむような声を出す。彼女の方を向くとまたフローリングに寝転んでいたので、踏んじゃうよと言いながら身体をまたいで部屋に上がった。ぐい、と急に足が引っ張られて足元を見ると、実花が私の右足にしがみ付いている。


「どうしたの」

「高校、懐かしいな」

「……かまって欲しかっただけ?」


 私が尋ねると、いい笑顔で頷かれた。実花はそのまま私の身体をよじのぼるように立ち上がって、今度は私の腕を抱く。


「……私、高校生活、そんなに覚えてないんだよね」


 ぴっとりとくっついている実花の頭をてしてしと叩きながら、私はそう呟いた。私の腕をぶらぶらと揺らしている実花が、えーと不満そうな声を上げる。


「色々とあったじゃん」

「……色々?」


 ほら、文化祭とか体育祭とか修学旅行とか、と彼女は一生懸命に高校時代の思い出をあげる。ああ、確かにあったなと記憶から引っ張り出したそれはどれももう色褪せていて、だけど私の隣の一点だけはまだカラフルなままだ。


「……そういえば私ってずっと実花と一緒にいたんだね」


 彼女と私が知り合ったきっかけは中学一年の四月に席が隣だったという些細なことだったけれど、そんな小さな偶然から始まった関係は案外長く続いて、一つ屋根の下で寝て起きるまでになった。


「まさか二十歳になってもあたしたち毎日一緒にいるなんてね」

「びっくりだよね」


 本当にびっくりだ。彼女の顔を見ながら思う。高校を卒業して、大学に入って。せいぜい休日に一緒に遊びにいくような、そんな——親友で終わると思っていた。お隣さんが友達になって、親友になって、いつの間にか隣にいるのが当たり前になっていて、思い出のほとんどが彼女の姿になったのは、いつからだろう——。


「……シャワー、浴びてくるね」

「あ、うん、いってらっしゃい」


 私が玄関に突っ立って呆けている間に実花はレジ袋を運び終えたらしく、着替えを持ってシャワールームへと向かっていた。私はそれに手を振って見送る。


 ——わからない。中学から高校に上がっても、大学生になって自由な時間が増えても、私たちがやっていることはほとんど変わっていない。夏にはアイスを食べて、冬にはこたつに潜り込んで。


 その変わらない「日常」に区切りを見つけることなんてできない。


 でも、その中に私たちが形にした区切りが一つだけ。


 大学入試も終わって、二人が同じ大学に通うことになって、何もやることがない日だった。いつものように私の部屋でダラダラとしていて、私たちは。


 一回目は気の迷いだったと思う。ふと彼女がどんな感触なのか知りたくなって、でも頭の中が沸騰するようで何も分からなかった。二回目は彼女から、何があったかをリプレイするように。顔を真っ赤にした実花が、まだ頭がぐわんぐわんしている私に、恐る恐るといった感じで。


 そして、その後。二人でいっぱい話をして、笑って、泣いて、それから私たちは、確かめるように、三回目。


 私たちはあの日、三回口づけをして、そして恋人になった。


 恋人、と懐かしむように呟いていると、その本人が、さっきよりラフな部屋着で風呂から出てくる。


「出てきたよー」


 頭に乗せたタオルで濡れた髪を拭きながら手を振る実花に小さく手を振りかえして、じゃあ入ってきちゃうねと着替えを手に浴室に向かう。汗で濡れてぴったりと体に張り付いた服を手早く脱いで、磨りガラス風の折りたたみ扉をガラリと開けると、温かい湿り気があたりに立ち込めた。


 すう、と息を吸い込んでみる。鼻をくすぐる匂いはシャンプーとボディソープのもので、もう嗅ぎ慣れたものだ。それでも、この香りを実花は今まとっていて、これから私もまとおうとしていることを思うと、どきりとしてしまう。


 まるで、私がやましいことをしているみたいだ。


 自分でも顔が真っ赤になっていることが分かって、シャワーを頭から浴びる。出てくるお湯はもう適温になっていた。実花が使った後だからか、と思い当たり、その事実にさらに顔が赤くなってしまう。


 いつもは全然意識していないのに、今日は全てが恥ずかしい。きっとあの日のことを考えてしまったせいだ。


 汗とかと一緒に私の煩悩も流れてしまえばいいと思いながら、いつもの顔に戻るまで私はシャワーを浴び続けた。


「ただいま」

「おー、出てきた」


 ほかほかとした体で脱衣所を出ると、ソファに体を預けた実花が笑顔で出迎えてくれる。部屋に満ちるエアコンの冷気の気持ちよさに目を細めながら、私は彼女の隣に腰を落ち着ける。


 不意に、彼女がよいしょと体を起こし、目の前のテーブルに手を伸ばすと、プルトップの缶を手に取る。実花はそれを用意してずっと待っていたらしく、缶の表面には大粒の水滴が付いてしまっていた。


「ごめん、待たせちゃった」


 私は謝りながら、もう一本のそれを手に取って、プルタブを開けた。ぷしゅという景気のいい音がする。少し遅れて、彼女の持つ缶からも同じ音が聞こえて、それからグラスへと液体が注がれる。私も同じようにグラスを取ると、そこにとくとくと黄金色の液体を流し入れる。


 乾杯、とかちりとグラスをぶつけてから、その液体をぐいと口に含む。苦い。どこか青臭いそれに、私はまだ慣れそうもなかった。


「……昼間っからビールなんて飲んじゃってさ」


 飲み始めてからしばらく経って酔いが回ってきたのか、少しだけ湿った声で実花は楽しそうに笑う。夏休みだし、いいじゃんと私はもう一缶を開けて、目の前のグラスに注いだ。ちょっと、ふわふわするな。この感覚にもまだ慣れないけれど、あまり嫌な感じはしない。あたしにもちょうだいと私の腕を揺らす実花の、その頭を撫でながら、あんまり飲みすぎないでよ、と釘を刺しておく。そうしないと、この後ができないから。


 恋人になって、あれだけ緊張したキスを自然にできるようになって。


 それでも、その先の、私たちがこれからしようとしていることを思うと、まだ頭が沸騰してしまう。


 真夏、外と隔絶されたこの涼しい部屋の中で、それでも私たちの体は熱を帯びるのだろう。


 私は、グラスに口をつける彼女の横顔を見ながら、顔の火照りをグラスの中の炭酸のせいにした。

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