第29話 Gray-1
これまではお付き合いしている彼女に纏わりつく異性ばかりに気を取られていた芹沢は、ここに来て考えを改めさせられる羽目になった。
もっと身近な場所にこそ危険な伏兵は潜んでいる。
お付き合いしている彼女に纏わりつく同性こそいまの芹沢にとって一番注視するべき相手なのだ。
「翠さんももう分かってるでしょ。富樫さん、そっちだろ?あの人完全に翠さん狙ってるもんな」
・・・・・・・・・
二人の関係が確実に変化したあの日、手持ちのタスクを早々に捌いて定時間際に身体を空けてデザイン室に顔を出せば、いつもの定位置に彼女の姿は見えなかった。
出勤から退勤まで呼ばれない限り根城から出ないはずの彼女が喫煙スペース以外に寄りつきそうな場所なんて思い当たらない。
もうちょっとリサーチしておくべきだったと出直そうとした矢先、一人のデザイナーがデザイン室に戻って来た。
男の8割の視線を虜にしそうな凹凸の素晴らしい身体を細身のパンツスーツで包み込んだ彼女は、すらりとした長身をさらに魅惑的な赤のヒールで底上げして、ほぼ同じ目線でこちらを見止めておや、と眉を持ち上げた。
チーフデザイナーの富樫だ。
あと10年もすれば彼女がデザイン室のトップになるとまことしやかに噂されているデザイン室一番の実力者で、室長の右腕でもある彼女は、楽しそうに目を細めて芹沢の前までやって来るとすいと顔を近づけて内緒話でもするように囁いた。
『あらぁ・・・探し人はいなかったのね』
ふわりと香ったトムフォードの覚えのある香水に、すぐに表情を強張らせた芹沢を見て、富樫がふうんと視線を揺らして、デザイン室の外を示した。
『此処に居ないときは、煙草か、隣の資料庫。だけど、ちょっかいなら、かけないで。私は見込みあると思ってるから』
何の見込みかなんて尋ねずともすぐに分かった。
女性からこんな形で牽制を喰らうなんて思ってもみなかった。
蠱惑的な富樫の雰囲気や仕草を見れば、きちんと男の誘い方を知っていることは見て取れる。
つまり、彼女の恋愛に性差は全く関係ないのだ。
フィーリングとか感性とか、そんなところで相手を見定めるのだろう。
翠も厄介な相手に見つかったものだ。
『見込みはすぐなくなりますよ』
あってたまるかと内心吐き捨てながら、念のため入っても?とお伺いを立てる。
今更噂に尾鰭が付こうが、芹沢的には全く問題ではないが翠はそうは思わないだろう。
始める前から拗れるのは避けたいので出来るだけ穏便に静かに話を纏めて早々に彼女を捕獲しておきたい。
『どうぞ?』
『どうも』
『ああ、でも、あんまり長居されたら邪魔しに行ってしまうかも』
『その時は場所変えますよ』
せいぜい愛想よく返事をして、富樫に背中を向ける。
聞こえて来た含み笑いの意味は考えないようにして、教えられた隣の資料庫のドアの向こうで翠の穏やかな横顔を見つけたら、わだかまりも、苛立ちも綺麗に消し飛んだ。
・・・・・・・・
「えええ・・・いやぁ・・・まあ・・・」
あの数分間のやり取りで、彼女の思想と嗜好は大体理解出来た。
富樫が翠のどこに見込みを感じたのかは物凄く問いただしたい気もするが、彼女のどこに惹かれたのかは、悔しいかな何となく理解出来るのだ。
そして、芹沢に関しては完全に線引きして追い出したくせに、デザイナーの先輩に擦り寄られても受け入れてしまう彼女の危うさが物凄く恐ろしい。
富樫の気持ちが分かっていてきっぱりと拒絶していないことも。
「知ってたんだ?」
「んー・・・まあ」
「いつから?」
「ええっと・・・7、8年くらい前から?」
芹沢が翠を認知する何年も前からあの状態で今まで来てんのかと思わず身を乗り出す。
「はあ!?」
率直に言って本当に信じられない。
雰囲気のよいレトロな純喫茶に芹沢の声が響いて、カウンター席の男性客が新聞からちらりとこちらに視線を向けて来た。
軽く頭を下げて咳払いをして、とりあえず落ち着こうと緑のマルボロを引き寄せる。
吸ったところでリフレッシュなんて出来そうもないけれど。
「いや、でも、大っぴらにしてるわけでもないし、たまにそういうモーションかけて来るだけだから」
「たまにって・・・あのさ、頬ずりは普通じゃないし、俺は許可しないから、もうさせないで。大体あの人についてはちゃんと枠内でなんで俺が範疇外なのかさっぱり分からん」
「いやでも富樫さん女子だからさ」
ざっくりと富樫を自分と同じ部類に入れてしまえる大らかさを、褒めればいいのか嘆けばよいのか分からない。
他人の嗜好にどうこうケチをつけるつもりはないし、口を挟むつもりもない。
百合も薔薇もお好きにどうぞ、ご自由にというのが間違いなく本心だが、そこに自分の恋人が絡むのは不本意だし困る。
「女子でも翠さんのことそういう目で見てるから、性欲の対象だから」
「ちょ、そんな言い方は・・・せせせ性欲って」
のどかな日曜の昼下がりの、ジャズが似合う純喫茶には不似合いすぎる単語を口にした芹沢に向かって翠が顔をしかめる。
芹沢とて好き好んでこの話題を口にしているわけではないが、月曜日からも今まで通りでは本当に困るのだ。
富樫のあの感じだと逆に面白がって距離を詰めてきそうだから尚更意識を改めさせておきたい。
狭量な男だとは思われたくないが、それとこれとは別問題である。
ようやく彼女の心を捕まえたと思ったら、同性に横からかっさらわれました、なんて笑い話にもならない。
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