第21話 Brown-1 

デザインの起こし方は人それぞれだが、室長にチェックして貰う段階でコンペに出せるレベルのものを用意しておかなくてはならない。


最初からデザインソフトを触ってイメージを積み重ねていく者もいれば、実際に似た感じのデザインの物を作ってみる者もいるし、昔ながらのスケッチブックに書き連ねる者もいる。


若手のデザイナーはタブレットとタッチペンでするする絵を描いていくが、紙ベースに慣れて来た翠のような古株にはそれはなかなか難しい。


依頼人ありきで彼女達のためにイメージを追加したり膨らませるのはさほど難しくは無いが、無から有を作り出すとなるとてんで駄目だ。


だから毎回コンペに出すデザインは行き詰まるし、最終的には当たり障りのない無難なものを出して、毎回室長に溜息を吐かれる。


自分の作品が世に出回って欲しいとは思わないし、目の前の誰かが自分用に差し出されたジュエリーを喜んで付けてくれることにこそ喜びを感じるこの気持ちは、きっと室長にはどれだけ言っても伝わらないだろう。


とにかく目立てば目立つほどいろんな場所に引っ張り出されること請け合いなので、翠が望んでいるのはひたすらな現状維持である。


けれど、現状維持を望む翠が生きる世界では、悲しいかなほかにも数多の人間が生活を送っているので、当然予想外の出来事は訪れる。


この間のほのかの一件のように。


”お姉ちゃん、知らないなんて言わないよね?芹沢さん、好きだよね?”


病院からの帰り道、ほのかから届いたメッセージに、翠は崩れ落ちそうになった。


ベッドの上のほのかがほわほわとした幸せそうなピンクに染まっていたのと同じように、翠の色もきっとピンクに染まっていたのだ。


志堂一鷹に勝手に憧れていた時は良かった。


だって彼は完全に人の物で誰にも心はおろか視線だって奪われない。


妻への愛情に溢れる彼の眼差しや声を間近にするたび、翠はたしかな愛情を目にすることが出来た。


こんな風に一身に愛される女性が羨ましいと思ったし、一鷹をそうさせる妻の幸にも強い憧れを抱いた。


自分に向けられるものではない愛情を一番外側から確かめる行為は、傍からは自虐的に見えただろうが、もはやそういう価値観から逸脱してしまった翠にとっては物凄く貴重なご褒美だった。


この世界にはこんなにも美しく尊ぶべき愛情がある。


感じた感情はイメージになって、次の依頼者へのデザインに反映されていく。


より繊細に。より優美に。


そうやって自分のなかでちゃんと循環させられていたのだ。


けれど、芹沢は違う。


志堂一鷹のように枠外で翠と向き合うことはせず、油断すれば真正面に入り込もうとする貪欲ささえ見せつけるのだ。


そのくせ翠が拒絶すると分かった途端するりと器用に身を翻して安全圏に下がるから性質が悪い。


恋情と呼ぶにはほど遠いこの感情は、適度な親密さで胸の奥をざわつかせて、温める。


それだけで十分だったのに。


ほのかのことや、いまの自分の現状を言い訳にして、違う、と線引きし続けるつもりで舵を切っていた翠の前に突然現れた有栖川のおかげで、完全に翠はほのかの保護者から格下げされてしまった。


この先ほのかに何かあっても、きっとあの子は私を頼っては来ない。


肩書云々ではなく、有栖川永季ありすがわときという男に底知れぬすごみを感じた翠の感覚は恐らく間違っていない。


ほのかは、完全に安全な男だと有栖川のことを信じ切っていた。


用心深く慎重にと言い過ぎた反動で首を突っ込んでは転んでを繰り返していたほのかは、ある意味翠よりも数倍打たれ強くて、人間を知っている。


奏も含めてほのかが身近に置く人間は、誰もが信頼に値する人間なのだ。


臆病風を吹かせては面倒だからといつも一人を選んで来た翠とは違う。


そして、物凄く頑固なほのかは、簡単に意思を曲げない。


聞いたところによれば、ほのかが緊急搬送された病院は、不動産をいくつも持っている事で有名な幸徳井の系列病院で、ほのかの診察のためにわざわざ就寝中だった院長が叩き起こされたらしい。


有栖川が持っているカードは、恐らく翠の想像の遥か上を行くのだろう。


これで完全に姉の出る幕は無くなってしまったことになる。


ほのかで占められていたスペースがぽっかり抜け落ちて、その隙間に入り込んできたのは当然のことながら芹沢の存在だった。


違う、相容れない、そうじゃない、と見て見ぬふりをして来た芹沢のことをこれ以上無視できなくなってしまった。


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