どうも、先日助けていただいた狼です。

エノコモモ

どうも、先日助けていただいた狼です。


「ご主人様。どうぞ」


一筋の煙が室内をゆったりたなびく。香り高い珈琲の湯気。執務机に置かれたカップとソーサーの音に、オーレリアンは顔を上げた。


「ああ。ありがとう」


礼を言った後で、目の前のメイドが緊張した眼差しで見ていることに気付いた。ペンを置き、おもむろにカップに口を付ける。じんわりと広がる深みと心地よい酸味。彼は言った。


「美味しいよ。腕を上げたね。ノアール」


そう褒めると、彼女は花が咲くような笑顔で笑った。嬉しそうな後ろ姿を見送り、彼はカップを置く。


オーレリアン・タチバナ・ファビウス。ジュベル地方ファビウス領の第45代目当主はめっぽう評判が良い。祖母の血筋を引き継いだ暗色の髪に、柔和に下がった目じり。品のある振る舞いと地位に胡座を掻かない謙虚な人柄も相まって、領民からも一目置かれる存在である。


そんな彼にも欠点はある。そういう星の下に生まれたのだとしか言い表せないような欠点が。


オーレリアンは致命的に女性運が無かった。幼少の折、彼を巡って同級生が骨肉の争いを繰り広げた事件を皮切りに、妄想癖のある女性に刺されかけたり、婚約者の不貞行為の現場に意図せず遭遇してしまったりと話題には事欠かない。


(いよいよ私の不運もここまできたか…)


そのような不幸な経緯から恋人や結婚の類いを完全に諦めている彼だが、今になって、思わずにはいられないのだ。


「……」


彼は静かにメイドを見やる。珈琲ひとつでもオーレリアンに褒められることを心待ちにしていた可愛らしい従者を。彼女を見る度に、彼は悲観せずにはいられない。


自分は彼女に殺されるかもしれない――と。



彼女は数ヶ月ほど前にファビウス家の門を叩いた。聞けば何でもするから側に置いてほしいと言う。必死な様子に、そして他に行くところもないのだと話す彼女に、オーレリアンの心も動かされた。ちょうど長く勤めていた家政婦が定年を迎えたこともあり、晴れてファビウス家のメイドとして受け入る運びとなった。黒髪が美しい彼女は、ノアールと名乗った。


ノアールは少しばかり常識外れの行動を取る節はあるが、素直で従順。骨身を惜しまずよく働く。できたメイドだった。こんな従者はなかなか居ないと、オーレリアン自身もそう思う。仕事を達成し褒められるのを待つノアールの姿は、彼の目にも、とても可愛らしく映った。


しかし事件は起きる。


ある日の夜中。ふと思い立ち自身の執務室へと向かったオーレリアンは、知った姿を見た。


(…?ノアール…?)


扉の隙間から見えたのは、メイドの姿。声をかけようとして止まる。彼女が眼前に掲げていたのは古い首輪とリード。青い染色には見覚えがあった。オーレリアンの私物だ。


(あれは“クロ”の…)


『これを…』


そんな何の変哲もない首輪を血走った目で見ながら、鼻息荒くノアールは呟いた。


『これを…ご主人様に…!』


たった一言だ。その後も彼女は引き続き何事か興奮していたが聞こえなかった。しかしオーレリアンが全てを悟るには十分すぎる一言でもあった。


彼は思った。


(しばかれる…!)


一体どうして、主人に首輪を付けようと目論むメイドの姿に恐怖を抱かない者がいるだろうか。例に漏れずオーレリアンも恐怖心を抱いた。その場は話し掛けずに後にしたため、ノアールの凶行の理由は分かっていない。


そんな衝撃的な事件の後、オーレリアンは少し距離を置いて彼女を観察してみた。そして気付いた。ノアールの様子がおかしいことに。


日常を過ごすぶんには問題ない。働き者で仕事熱心な従者だ。しかしふとした時に彼女が見せる様子が、尋常ではないのだ。殺気走った形相に血走った目。今にも襲いかからんばかりの様子を見せることもある。そしてそれは全て、オーレリアンに向けられたもの。


彼は悟った。


(殺される…!)


理由は分からないが、ノアールはオーレリアンに対して並々ならぬ殺意を抱いているようなのだ。


(助けてくれ…!)


残念ながらオーレリアンの両親は彼が幼い頃に亡くなっている。前述の通り、妻や子もいない。友人はいるが、このような悩み誰も信じやしないだろう。だから、彼が助けを求める先はただひとつ。


「クロ…!」


彼が思わず口にしたのは、名前であった。それは件の首輪の元の持ち主。オーレリアンが5年前に森で拾った野良の仔犬に付けた名前であった。


クロは少し、いやかなりわんぱくでオーレリアンは手を焼かされたものだったが、反面立派な番犬でもあった。前述の刺されかけた事件では、いち早く現れ彼を守った。ナイフを持った相手に、主人を守らんと果敢に飛び掛かる頼もしい背中。あの時の感動を忘れたことはない。


唯一、クロはやけに成長が早く、その成長度合いに周囲からはこれは本当に犬なのかと不審に思われたりもしたが、既にクロにメロメロだったオーレリアンの耳には届かなかった。


しかしふいに、“彼女”はオーレリアンの前から姿を消した。いくら探しても見つからない。以来、新しい犬を飼う気にもなれず、名前の由来ともなった黒の美しい毛並みを思い出しては哀愁に浸るのだ。


(クロ…君に会いたいよ…)






(ご主人様…おそばにおりますよ…)


さて。オーレリアンに拾われ、かけがえのない時を共に過ごした仔犬――クロ。彼女はオーレリアンの隣にいた。まさに今、執務室で本棚の整理をしている、ノアール自身が“クロ”であった。


クロはペットでありながら、オーレリアンに恋に落ちた。しかしそれは異種族間の許されない恋。当然、オーレリアンは自分に家族に対する愛情以外の感情を向けてきてはいない。


それでもノアールは一途だった。どうしても彼にこの胸の内を伝えたいと、ペットとしてではなく恋愛の相手として見てもらいたいと願った。そして強い想いは身を結ぶ。妖精の森に住む女神に助けを借り、彼女は人間の女性へと変貌を遂げたのだ。そして従者として、オーレリアンのそばに居られることも決まった。あとは胸に秘めたこの想いを達成するだけ。


(ご主人様…)


しかしこの恋路にはひとつ問題があった。


(どうか、私に首輪を付けお散歩させてほしい…!)


人間となったノアールは、オーレリアンのペットだった時の習性を強く継いでいることだ。


オーレリアンは良い飼い主だった。前述の通り、“クロ”はかなりヤンチャな部類の飼い犬で、主人を何時間も散歩に連れ回したり餌の入った袋をビリビリに破いて大惨事を引き起こしたり、悪戯の類いは一通り行った。それでも、オーレリアンは愛情いっぱいに接してくれた。そして“クロ”はそんな主人のことが大好きだった。


だからオーレリアンが今でもその首輪をリードと共に大切に保管していることを知った時には、ノアールは天にも昇る気持ちになったものだ。


『これを…ご主人様に…!』


そして衝動的に思ってしまった。またこの首輪を自分に付けお散歩させてほしいと。少女に首輪を付け散歩させる紳士。オーレリアンの人徳がどれほどあろうともそれを一瞬で塵へと消し去る絵面を思い浮かべ、彼女は興奮してしまったのだ。


(いけません!仕事に集中しなくては!)


ノアールはぶんぶんと首を振る。彼女にとっては幸せ以外のなにものでもなかった散歩風景を頭から追い出し、次の仕事を探す。するとふと、主人の足元が目に入った。


「オーレリアン様。お履き物が汚れてしまっています。磨いてもよろしいでしょうか?」

「あ、ああ。頼むよ」


予備の靴にはきかえたオーレリアンから、靴を受け取る。彼女は仕事熱心だった。主人の為になるならばと人間社会の勉強努力は惜しまない。珈琲を淹れることも、靴を磨くこともその一部。しかし並々ならぬその努力をノアールは特別なことだとは思ってはいなかった。


(当然のことです。今の私は人間でありオーレリアン様の従者なのです、か、ら…)


固く決意をする彼女の視線が落ちる。辿り着いたのは手元で鈍い輝きを放つ主人の私物。


「くつ…」

「な、なんだい?」


主人の声に、誘惑を慌てて振り払う。靴墨とブラシを手に取り、自分に言い聞かせた。


「抑えるのですノアール…!痛め付けたいなどと思ってしまってはダメ…!」


飼い犬時代は、オーレリアンの靴を噛んでボロボロにするのがノアールの日課だったのだ。愛しの日々を思い出し、同じ衝動に駆られてしまったとしても不思議ではない。しかし今の彼女は人間。自分を痛め付けられると思った主人が顔色を悪くしていることなど露知らず、彼女は衝動を抑え靴磨きを始める。


(私と来たらまた…!私がこんなだから、ご主人様に告白できないでいるのです!)


ペット時代ならいざ知らず、今のノアールは人間だ。しかし見た目だけでは足りない。オーレリアンに相応しい女性として、理性的で完璧な人間とならなくてはいけないのだ。


それこそが人間となった彼女の決意。身も心も立派な人間となるまで、彼女の夢は果たせない。その為には首輪を付けてほしいだとか、靴にかぶりつきたいだとか、そういった人間としてトチ狂った願望は捨てねばならないのだ。


(そしていつか…オーレリアン様の横に並んでも恥ずかしくない人間になれたなら…)


ノアールは頬を染めて未来を夢見る。白い肌がぽっと赤らんで、瞳は一途に彼だけを映す。今の彼女の目標はただひとつ。


(私はご主人様と子孫を残したい…!)


彼女は元々獣である。好意を抱く雄を前に多少直接的な願望を持ってしまっても致し方ない。


(その為に私は頑張ります…!)


ノアールは決意を新たに前を見る。ついでに口の端からはみ出てしまった涎を拭った。オーレリアンから視線を外し、彼の靴へ集中する。


「貴方を襲うその日まで…」


しかしながら、彼女の口からは物騒な欲望が漏れ出てしまった。椅子に座る主人の肩がびくっと動いたのだが、彼女は気付かない。


「……」


(クロ…すまない…)


オーレリアンは窓へ視線を移す。この上なく美しい青い空が硝子越しに映っている。かつてかけがえのない親友と駆け回った時と同じ色。それを眩しそうに見つめ、彼はそっと目を瞑った。


(私は先に逝くよ…)


オーレリアンが今世を諦めた頃、可憐な少女は新品のようになった靴を前に、幸福に浸っていた。


(ご主人様…もうずっと一緒です…!)


思いを馳せるふたりは、そもそもクロの種族が犬ではなく、狼であったことに気付くことはない。ノアールがクロであることをオーレリアンが知るのが先か、本能に負けた狼が主人を襲うのが先かは、まさに神のみぞ知るのだ。

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