歪なカップ、泥の沼

いぷしろん

歪なカップ、泥の沼


ガシャン!


 まず思ったのは、こんな音がするんだな、ということだった。

 パリンとか、透き通った音がするものだと勝手に想像していた。だがそれは、自分のお気に入りのコップに対する何かしらの期待だったようだ。

 そして、この思考もお気に入りのコップが落ちたことを現実逃避しているだけだと気がついてきた。


 視界が滲む。コップに入っていたブラックコーヒーが飛んで目に入ったわけでもなければ、破片で怪我をしたわけでもない。

 だ。私の目からは涙が出ている。溢れ出る涙が否が応でも私が悲しんでいることを認識させ、それがまた脳を狂わせる。


 このコップに、私は自分の想像している以上の愛着を持っていたようだ。

 それに驚くとともに、私はいつからこのようなセンチメンタルな人間になってしまっただろうかと、軽く自嘲する。


 拭っても拭っても涙は出てきて、ハンカチも湿ってしまった。


 その時、足に冷たいような温かいような、あるいはコーヒーの感触とでもいうような、生々しい液体が触れた。

 それが私をに戻してくれたようだ。涙も止まった。

 私はコップを落としたことを思い出し、片づけることにした。


 に横倒しになっているコップは、私が席を立つとくるくると回転した。

 そこで疑問に思う。私のお気に入りのコップはいわゆるマグカップで、取っ手が付いているものなのだ。どうして転がるのか。

 屈みこみ、泥に指を浸ける。コーヒーの感触が第二関節あたりまでのびてきて、どこか心地よい。


 堅いものが指に触れ、摘まみ上げる。案の定、それは陶磁器でできたマグカップの一部。ローマ字のUをひしゃげたような取っ手の部分であった。

 取っ手だけで見るとそのひしゃげ方は形容しがたい歪さで、どうしてだか私は恐怖を感じていた。


 ――手が震え、泥の湖に波紋が生じる。


 その瞬間。

 私は本能が疼くのを察知した。手が動く、頭が動く。そこに思考は介在せず、脳は働かない。

 気がついた時には、歪な取っ手は私の口に咥えられていた。



「――ッあぁ……」



 苦く、酸っぱく、甘美なものが私の味覚を染めるように、なぶるように刺激する。私は多幸感に包まれていた。これだけで生きていけると思える、えもいわれぬ快感。そこに陶磁器の冷めた態度が加わり、私を更に夢中にさせる。

 意識が絶海をたゆたい、感覚が極限まで引き延ばされ、水平線のその先の景色を幻視する。

 たった数滴。その余韻は舌を痺れさせ、私から思考を放棄させた。



 そのような時間はどれほど続いただろうか。恐らく、僅か数十秒のことだったろう。

 虚しさが私を襲い、そのまま吹き去っていく。ほんのひと時の正気の私も一緒に連れ去られた。



 足にひんやりとしたものが当たる。

 私のお気に入りのコップであった。ひとりでに移動してきたのか。足に身を寄せている様子からは、何かを訴えているようにも見える。

 それを拾い上げようとして、私はそこで初めてに腰を落としていることに気づいた。ズボンの中のその下にコーヒーが浸入しているが、不思議と不快には感じない。

 私は気にしないことにした。


 お気に入りのコップを泥の海に直立させる。ぐるりと一周回すと、やはり取っ手がなくなっていた。そして、代わりに二つの歪なこぶが新たに現れている。

 マグカップではなくなってしまったコップの側面を、茶色が伝う。コーヒーが白のコップを染色し直す。


 私は気持ちの赴くままにコップを傾け、あの歪な取っ手を付けようとする。

 ともすれば、それは私の使命であった。


 ……だが、ない。取っ手が、ない。どこだ。どこにある。どこだどこだどこだどこ――、


 焦燥に駆られる。

 そうだ。こんな時はコーヒーを飲もう。ブラックがいい。

 コップを持ち上げ、垂れるコーヒーで服が泥と化すのも構わずに口へと近づける。そして、口を震わせ流し込もうとし――気づいた。


ポチャン


 抜けた音を出しコップが泥没する。

 それを再び手で留めつつ、無心でもう片方の手を口の中に入れる。


 取り出したものはぬらりと光沢し、その妖しさを一層と高めていた。

 それはいつとはなしに口に含んでいた歪な取っ手。のどが、渇く。


 私の手と手は自然と動き、歪なこぶに歪な取っ手を合わせる。

 刹那にも満たぬ間、私の身体を電撃が迸った。頭の先髪の毛一本から足の爪、精神をも走り抜ける。胸の奥から何かが込み上げてきて身体が震える。


 私はに回帰した。



 部屋は、となっていた。

 私は腰まで浸かり、それはあの時見た水平線の先のよう。

 手には、お気に入りのマグカップ。白色はブラックコーヒーの色と調和し、取っ手は見事な曲線を描いている。中にはなみなみと、溢れださんばかりのコーヒーが湧き出していた。


 それを一滴たりともこぼさぬように立ち上がり、椅子へと向かう。

 泥は一切の抵抗を見せず、そればかりか、余計に波を立てるのを控えているようでさえもあった。


 湿る衣服と一緒に椅子に座る。

 泥面にひとつ、ふたつと波紋ができ、それらは反響して、調律し合って増えていく。

 ぼやける視界で眺めると、魅入られるように引き込まれていく。


 マグカップを見る。その端麗な容姿で心を落ち着かせる。

 そうだ。私はマグカップの出すままにコーヒーを嗜み、それだけをする。


 泥の沼。


 踏ん張りもがく必要などない。

 もしすれば、私は泥の沼へとたちまち溺れ、コーヒーを楽しむ時間が減ってしまうだろう。

 私はただ身を委ね、コーヒーを香り、お気に入りのマグカップを薫ればいい。


 それが私の幸福だ。


 を舐めとると、泥の味がした。







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