三 おわりとはじめ

三 おわりとはじめ

 

 八月初旬、おれのネタ見せはセミで満員御礼だった。その中に一人、人間も混じっている。

「もう終わらしてもらうわ!」

 汗だくになりながら、なんとかネタを完走する。最後の方は暑すぎて口が回らなかった。小道具のフリップも手の汗でふやけている。青々と生い茂った木々の揺れる木陰と優しいそよ風では、この汗はひきそうになかった。

「で、どうですか先生」

「うぅん……」

 ショートパンツ姿の大先生は汗一つかかずに首を捻っている。笑い声が聞こえなかったのはセミのせいではなさそうだった。

「あかん、酷評聞く前に暑さで死んでまうわ。茶店付き合え、かき氷食わしたるから」

「ほんま? なにしてるん、はよ行こ!」

 散らばった画用紙を集めるおれを置き去りにして、ハジメは遠くで手を振っている。ちょっとくらい、手伝ってもいいだろうに。

 あの一件以降、おれとハジメは時々この場所で話すようになった。おれはネタについて、ハジメは人生相談といった具合に。二人の間に連絡手段はない。だから、示し合わせてではなく、殆ど運任せだった。

 駅前でばったり会うこともあったが、大抵はおれがここでネタを書いたり練習したりしている時に、ハジメの方がひょっこり現れる事が多かった。仮にあいつが携帯を持っていたとしても、中学生相手にこちらから連絡をしていたら、表舞台に上がる前から消える可能性が出てくる。これくらいで丁度良かった。

 

「あー生き返るわ……」

 よく冷えたアイスコーヒーが胃に染み渡っていく。

「そんな暑い? 今くらいが丁度いいけど」

 かき氷を頬張りながら、ハジメは涼しい顔だ。伸びた髪の根本が黒くなっている。

「髪えらいまだらやな。イタチみたいや」

「なんやねんイタチって、普通プリンやろ」

「染めへんのか?」

「……伸ばしてんねん」

 大きな窓から差し込む日差しに輪郭が白く溶けて、俯いた顔が随分大人にも見えた。

 商店街の一角にある、時が止まったような喫茶店。近所の爺さん婆さんくらいしか来ないここはいつ来ても程よく空いていて、居心地が良かった。ここならひと目を気にする必要もあまりない。

「で、どうやった? 今日のは」

「んー、なんかちょっと難しかったかな。私じゃ分からん話が結構出てきたし。私らくらいの子には国がどうのとかは笑えへんかも」

「そうか、難しいか……」

「笑える所もあったで」

「も、な」

 お笑いを知らないと言っていたハジメの評価は、いつも存外的確だった。おかげでおれのネタは、かなり今っぽく変わってきていると思えた。見比べると昔のネタは、自虐と皮肉ばかりで嫌にじっとりとしていた。海外のスタンダップコメディをかじったせいだった。

「お前の方はどうや、お仲間と夏休みで非行三昧してへんか」

「してへんわ、あいつら、アホやし」

「まぁ、賢くはなさそうやな」

 緑色の液体をスプーンで混ぜながら、ハジメは眉間に皺を寄せていた。

「なぁ、高校っておもろい?」

「お、興味でてきたか」

 何度聞いてもぼやけた答えしか返ってこなかった進路の話が彼女の口から出るのは、初めてのことだった。

「面白いぞ。そうじゃない事もたくさんあるけど、それはどこでも同じや」

「ふぅん……尾張も高校生やったんや」

「当たり前や、これでも大卒やぞ」

 本当は卒業していないが、大人の威厳を保つための必要な嘘だ。

「元相方は高校の同級生でな。毎日つるんで、教室や文化祭でネタやったり。大親友やったわ。よぉ喧嘩もしたけどな」

 あの頃の事は、今でもすぐそこの記憶みたいに思い出せる。とうに過ぎた場所へこれから向かうハジメが、少し羨ましかった。

「人生の選択肢が増えるのは、間違いないわ」

「選択肢?」

「中学校まではメロンか、いちごか、ブルーハワイか。それくらいしかなかったもんが高校に行ったらもっと色んな味が選べるって感じや」

「うーん……。私、メロンでいいけど」

「それでもええねん。増えれば増えるほど、自分が好きやったもんがよりはっきりと好きやなって思えるようになったりするねん」

「ふーん……」

 ハジメはゆっくりと飲み込むように、口先を尖らせていた。


「あっつ!」

 店を出ると、重たい日差しは相変わらずだ。おれは店先の日陰に立ったまま、ポケットに押し込んでいた一枚のチケットを手に取った。

「そうやハジメ、これやるわ」

「なに?」

「月末にあるライブのチケット。知り合いのライブハウスでやるちっさいやつで、若手も何人か居るけど殆どアマチュアで……」

「行きたい! 行く!」

 言うなり、ハジメはチケットをひったくって、穴が開くくらい凝視している。意外な反応だった。

「そ、そうか。俺はこのあと遅番やから、行くで」

「え、あ、分かった。ちゃんと働きや」

「言われんでも働いてるわ。それじゃな」

 一本咥えて、ライターを擦る。後ろから声がして振り返ると、白く照らされたハジメが手を振っている。

「尾張! 今度は勉強教えてや! 大卒やろ!」

「なんでも教えたるわ! いつでも来い!」

 おれは片手をあげ答えて、頭の中で高校受験の引き出しを探していた。

 けれどその後、特等席にあいつが現れる事は、なかった。いつもの倍以上はウケたライブの客席にも、あいつの姿は、なかった。

 

 夏の面影もとうに消えた頃、おれは茶店の奥で一人、ネタを書いていた。

 皮肉屋めいたキャラクターを変えて、若い世代にも分かりやすい共感ネタを中心にしたおれは、短い間にかなりの手応えを感じていた。

 スポットを浴びて話す、大きな笑いが返ってくる。今までの含み笑いの重なりみたいなものじゃなく、お腹が痛くなるような笑いが、おれ一人に向かって。ピンになってから、初めての体験だった。おれの腕は確実にあがっていた。辞めたい気持ちも、あいつと一緒にどこかへ消えてしまっていた。

「このネタは、どうやろな」大先生。

 あの夏のライブ以降、おれは何度か特等席にタバコを吹かしに行っていた。単純に、心配だったという理由もある。昼に行ってみたり、夜に行ってみたり。大人の意地で、生意気なあいつを待っていたと認めたくはなかった。それでも、おれは何度かあの場所で、長い長い時間タバコを吹かしていた。

 おれのシフトは早番から遅番に変更になっていたし、そもそもあいつは学生で、おれとは生活時間が違うのだから見かけなくて当然といえば当然だった。今までが偶然だっただけだ。

 あいつは今、きっと一生懸命勉強しているはず。受験のために、遅れていた時間を今必死で追いかけているはず。おれの教えなど必要ないくらい、必死に。

 変な柄シャツをコートに着替えるようになり、あの場所へ行くのはもう終わりにした。

 今はずっと、ここか家にこもってネタを作っている。もう一度、見てほしかった。

 

 朝から急に冷え込んだ夜、ホール裏の勝手口を開けるとバックヤードから大きな声が聞こえてきた。

「マジで勘弁してください!」

 若い男の声だった。不良客が裏に連れてこられるようなトラブルは年に一回あるかないかだ。少し気を引き締めて、おれは顔を出した。

「警察はまじで勘弁してください」

 監視カメラ用のモニターが十数台並んだ広くない部屋で、カラフルな髪色をした男が二人、パイプ椅子に座ってうなだれていた。腕組みをした店長が渋い顔をして二人を見下ろしている。その後ろでは、嶋野常務がくわえタバコで頭を掻いていた。

「あぁ尾張くんおはようさん。出勤か?」

「おはようございます。いや、夜メンテのヘルプで……何があったんですか?」

「メダルドロや。この子らスロット打っとってな、どうもぎこちないからカメラで店長と見てたんや。そしたら隣の客が席離れた間に下皿からひょいっとな。自分の金は千円くらいで、あとはそれを繰り返して遊んどったんや」

 アホな事をしたものだ。今どきの店はあらゆる位置にカメラがあるし、録画もされている。バレないわけがなかった。もちろんこれは窃盗で、犯罪行為だった。

「で、店長とスタッフが捕まえた、と。もうひとり居たらしいけど、店にはおらんかったわ」

「学校にも言わんといて下さい!」

「君等な、虫が良すぎるで」

 珍しく常務が声を荒げている。確かに、反省の色はあまり見えなかった。

「極めつけは中坊やて、この子ら」

「中坊ですか? 根性あるなぁ」

「アホ、笑い事ちゃうわ!」

 肘で肩を突かれてしまった。ホールは十八歳未満の立ち入りを禁止している。ホールは立ち入りを未然に防ぐ義務があり、見過ごすとこちらが警察の指導を受けることもある。つまりこの時点で、彼らの運命はもう決まったも同然だった。

「店長、生安に連絡しよか」

 店長は無言でうなずくと、白い電話の受話器をあげた。

「セイアンってなんすか?」

「生活安全課。風営法の許可と君らみたいな非行少年の補導をしてくれるえらい所や」

「まじでしくったわ……」

 天を仰ぐ緑髪。

「お前……」

 その顔をはっきり見た時、おれの心臓は急に慌てだした。

「緑、お前のグループに金髪の子、おらんか?」

 殆ど無意識に、声が出ていた。「え?」常務と緑が同時におれのほうを向く。

「金髪の、愛想悪いイタチみたいな子や!」

「イタチって……」

「ハジメって名前の!」

 自分の声の大きさに自分で驚く。鼓動はもう駆け足になっていた。

「え、ハジメの知り合いなん? マジで助かった! 俺ハジメの連れで」

「一緒に来たんか?」

「え、一緒やったけどこの店来たら急に……」

「なんでやねん!」

 もう一人、それがハジメだったのか。

「俺もハジメの連れやねん、助けてや!」

「おまえは、ハジメの連れやない」

 状況が飲み込めていない彼らを置いて、おれは駆け出す。

「常務、店長! 休憩、先にもらいます! すんません!」

「お、おいなんや尾張くん! 尾張くん!」

 背中に刺さる声を無視して、部屋から飛び出した。きんと張り詰めた年の瀬の空気が、肌を刺す。

 いくら身体が冷えても、火照った頭は冷えてこなかった。あいつが居る場所の心当たりは、一つしかない。乗降客で溢れる天神駅を通り抜けて、おれは走り続けた。

 視界の隅に、一つ、二つ、白い粒がちらついていた。

 そして、うっすらと白くなった細い歩道の先。

 街灯の明かりに照らされた金色を、おれはみつけた。

「ハジメ、お前……」

 いつか見た時と同じように、ハジメはその手に細いタバコをつまんでいた。

「尾張……」

 黒いマフラーがなびいて、ハジメはおれを見た。

「お前、なんでやねん、違うやろ……」

 握った手が、震えている。

「なにしてんねん! 約束と違うやないか!」

 約束なんて、していなかった。それでも、なぜかそう言葉に出ていた。小刻みに漏れる白い息が、考えと視界を覆う。おれはハジメに近づいて、細い手からタバコを取り上げた。川へ投げ捨てようとして思いとどまり、ポケットに押し込む。

 俯いたままで、何も言わない。両肩が少しだけ、白くなっていた。

「……てくれた」

 消え入りそうな声に、おれは膝を折る。「なんて」

「来てくれた」

 今度ははっきり、そう聞こえた。小さい衝撃が身体を揺らす。

 胸元で震える小さな肩。ハジメはおれにしがみつき、大声をあげて泣いていた。

 おれは何もしてやれず、ただ髪と肩につもった雪を払ってやる。言いたいことは山程あるのに、もう、どうでもよくなっていた。

 

「落ち着いたか」

「うん」

「ほい、これ」

「……ありがとう」

 雪を払ってベンチに座り、自販機のお茶を同時に飲んだ。冷えた身体の奥に、じわりとぬくもりが戻る。ハジメは、ゆっくりと口を開いた。

「ライブ、見に行けへんくてごめん」

「そんなん、ええよ。なんかあったんか」

「お母さんが急にな……」

 彼女が言うには、ライブのあった日、出かける前になって急な腹痛があったらしい。結果的には単純な結石だったらしいが、救急車を呼んで大変だったそうだ。

「でも、おかげでお酒控えるようになって着替えて寝るようになった」

「それは大きい進歩やな」

「そやろ」嬉しそうな横顔だった。

「それで、なんでこんな事に」

「それは……」

「話したくないか?」

「ううん。私、期末テストでいい点とったろうと思ってめっちゃ勉強しててん。家でも、学校でも」

「そやったんか」

「けど、皆から真面目かって馬鹿にされるし、結局点数も全然あかんかって、やっぱり私には高校無理かなって……」

 もうずっと前に大人になってしまったおれからすれば、ハジメの悩みなど爪の先程に思える。だが、おれだって彼女くらいの頃はきっとそうだったはずだ。

「それで、また髪も染めて、あいつらと居るようになってた。きっと尾張は私を見たら怒るやろうし、ここにもこれへんかった。今日も、急にパチンコ行こうやって言われて、断れへんくて……。尾張のいる店やって分かってたから、逃げた」

 話し終えると、ハジメはマフラーで顔を隠す。少しはがっかりしたが、おれは怒るどころか、変わろうとしたハジメのことが誇らしかった。おれの言葉が少しでも響いた気がして、嬉しかった。だから今度は、おれの話しをした。

「おれのネタ、ライブでめっちゃウケるようになったぞ」

「え、ほんま?」

「ほんまやで。お前が言う通り、難しすぎた。もっと単純にして、若い子でも分かるようなネタに変えてな。ライブの本数も増えてきたんや」

「すごいやん!」

 ハジメは、目を見開いて驚いてくれた。

「おまえのおかげや。ハジメ」

「私の?」

「そうや、おれは、それが伝えたくてずっと、お前に会いたかった」

 季節が変わってもずっと胸にひっかかっていたものが、取れた気がした。

「……それ、告白? 警察に電話しよ」

「アホか、逆にパチンコ打ってましたいうて突き出すぞ」

「打ってへんし! 入っただけやし!」

「入っただけでもアウトなんや、前科モンめ」

「うっざ、おっさん」

「もうええわ、黙っとけクソガキ」

 一番聞きたかった笑い声が、やっとおれの前に居た。

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