第一章 始まりの春
第2話 まれびと
そこは小さな国だった。
名を四鳥国といい、鶯、梟、川蝉、鷺と呼ばれる四つの氏族がそれぞれの集落を作り、一つの国を成している。
国を統べるのは、かつて鳥の姿でこの地に舞い降りた神の子孫とされる四鳥王である。
王は四つの集落とは離れた場所に広大な館を持ち、四名の族長と共に政を行う。山の祠には、神である『風鷲さま』が祀られ、民の信仰の対象となっていた。
山の恵みを頼りにした民の暮らしぶりは慎ましかったが、国の四方を深い森や山に守られ、平和な生活を続けていた。
「お母さん、どこかで赤ちゃんの泣いてる声がするよ。うちの小夜ちゃんかなあ」
その日、十歳になる娘の小雪がそう言って母親の春日の袖を引いた。
鶯の集落に住む二人は、連れだって集落の奥にある森に薪を拾いに来たのだ。
背に負った籠の中身はまだ半分も満ちていないが、春の気持ちのよい陽気の中で、母娘二人で気長に仕事をするつもりだった。
「こんな森の中に赤ちゃんの声なんてするわけないでしょう。何かの動物の声よ。それに、小夜ちゃんは今お家でお婆ちゃんといるのよ」
留守番をしている妹を心配する小雪が微笑ましくて、春日は思わず笑ってしまう。
しかし、次の瞬間、春日の耳にもかすかに不規則な音が届いた。
人の不安を掻き立てるようなその響きは、確かに鳥や獣の鳴き声よりも赤子の声によく似ていた。
「そんな、一体どうして?」
薪拾いにしろ狩りにしろ、足場の悪い森の中にわざわざ赤子を連れて入る物好きはいない。普通は誰かに子守りを任せるものだ。春日と小雪は不思議に思い、泣き声を頼りに森の奥へと進んだ。
泣き声は次第に大きくなり、今では明らかに人間の赤ん坊のものだと分かる。
「あそこ!見て、お母さん、人が倒れている」
小雪が気づいて指差した先、ちょうど満開を迎えた山桜の根元に、黄土色の胴衣を纏った大柄な男が背を向けて倒れていた。間違いなく泣き声もそちらから聞こえてくる。
「小雪、駄目よ。下がって」
春日は無防備に駆け寄ろうとする小雪を制し、後ろに下がらせてから、慎重に一歩ずつ近づいていき、男の正面に回り込んだ。
中年とみられる男は、険しい表情のまま目を閉じていたが、その腕には小さな赤子がしっかりと抱えられていた。
布にくるまれた赤子は、両手のこぶしを握りしめ、必死で声を上げている。しわが多く赤みが強い肌から、まだ生まれて数日も経っていないと分かる。
見る限り、とりあえず赤子に怪我は無さそうで、春日は安堵した。
男の方を見ると、左の脇腹辺りに大きな血の染みがあり、傷を負っているようだ。わずかに肩が上下しているから、まだ息があると分かるが、急いで手当てしないといけない。
「お母さん、その人、生きているの?」
春日の背中にしがみついていた小春が尋ねた。
「今はね。小雪、急いで男の人を二、三人呼んできてちょうだい」
小雪は一瞬心細そうな顔をしたものの、すぐに集落の方へ走り出した。小春はそれを見届けると、まずは赤子を抱き上げて横へ避けた。
それから、男の傷を改めるために、腰の帯に提げていた小刀で胴衣を脇から切り開いていく。自分で一時凌ぎの処置をしたのか、普通は胴衣の上から結ぶ腰帯を傷の上に直接何重か巻きつけてあった。
傷と癒着していたそれをゆっくり剥がすと、脇腹から腰の裏側に掛けて一直線に走る傷が現れる。出血はすでに止まっていたが、赤く腫れて盛り上がっていた。
深さと綺麗な切り口からいって、獣に襲われた傷ではなく、刃物によるものだろう。
傷口の様子を確認すると、春日は自分の頭に巻いていた布を外して傷に当て直した。
「お待たせ。もう大丈夫よ」
赤子は泣きすぎてもう声が枯れそうになり、ひいひいと喉を鳴らしている。
春日はあぐらをかいて座り込み、自分の胴衣の前をはだけると、赤子を抱き上げた。口に乳房をあてがっても、最初は上手く咥えることができなかったが、辛抱強く手伝ってやるうちに、赤子は次第に乳を吸い始めた。
乳をやりながら、ふと、地面に置いた赤黒く染まった細い腰帯に手を伸ばした。
「よく見ると、とても綺麗」
汚れていない部分を見れば、青と黄色の太い縞の上に、白い蝶の紋様が並んで刺繍されている。
蝶の部分は柔らかな光沢のある糸が用いられており、光を反射して浮かび上がる。帯には木彫りの丸い帯留めが一つ通されており、そこにも白い蝶の意匠が施されていた。
少なくとも鶯の集落では、見たことがない意匠だった。
この男は、一体どこからやって来たのだろう。
「翡翠さまに報告しなくては」
春日が呟くと、ちょうど、小雪が誰かを導いてこちらにやってくる声が聞こえた。
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