スティレット・エルシー

@sashimisan

死の天使



それは、まだ仄かな温かさの香る、9月の昼下がりの事です。


旅の医者である私は、様々な地へ出向いては建物を借り、町の人々へ医療を施していました。


腕に自信がある訳でもなく、ごく簡易的な処置ばかりであったのですが、ありがたいことに私の腕は多くの方に頼られ、いつしか借りた家は小さな診療所のようになっていました。


そんなある日の出来事です。


町を訪れて一週間ほどが経った頃、私が診察を行った男性から、あるお話を伺いました。


町はずれの家に、重い病にかかり、死を待つだけになった男が住んでいる、と。


それを耳にした私はその日、診療を打ち止め、件の場所へと出向くことにしたのです。


その場所は、町から少し離れた、小高くなった丘の上にぽつんと建っていました。


あまり大きな家屋ではありませんでしたが、庭先の木々は秋の始まりを告げるかのように、ほんのりと紅く染まった林檎をいくつか実らせて、風に揺れています。


そんな景色を横目にし、戸の前に立った時。玄関の横に吊るされた籠に、一つの手紙が置かれているのを、私は目にしました。


ひどく震えたような手つきのインクで、手紙にはこう綴られています。


“僕はもう、歩くことができません。御用のある方は、廊下の奥の寝室をお訪ねください。鍵は、植木鉢の横に置いてあります。”


その文を目にし、ここに住まうお方がどのような状態にあるのかを私は直感的に理解し、手に持っていた鞄を肩に掛け、私は足を前へと進めました。


「…失礼いたします」


白い漆塗りの戸を軽く叩き、私は扉を開きました。


部屋へと入った私を出迎えたのは、それはひどく痩せこけた、若い殿方でした。


「君は……」


皺の多いベッドに横たわり、ほんの少しだけ驚いた目が私を捉えます。


「私は、旅医者の者です。町の方にお話を伺い、参りました」


そう言い終えると、そのお方は乾いた咳をし、枯れた声でこちらに答えます。


「旅医者…どうりで、知らない声だと思った…」


彼がベッドの縁に手を付き、腕に力を込め、起きあがろうとします。


私はすぐさま側へと寄り、脇腹へと手をかけました。


「無理をなさらないでください」


「いや、いいよ。平気だから……」


彼は私の手を振り解こうとしましたが、もうそんな力も残っていないことが窺えました。


間近で見るそのお方の姿は、あまりにも見るに堪えないものです。筋肉が衰え、枯れ枝のように痩せ細った手足。抜け落ちた髪と、あちこち強張った体に巻き付けられた、包帯の数々。


「……ありがとう。すまない」


上半身を起こし、すっかり乾いた声で彼は言いました。


「では、改めまして。」


鞄を床に置き、私はスカートの両端を摘んで、一礼を行いました。


「旅の医師の、エルシーと申します。先週の土曜に、この町へ参りました」


「ああ、そうだったんだ。君みたいな若い女性が、こんな辺鄙な町へ旅に来るだなんて……」


生気のない、色褪せた瞳を向け、彼は言います。


「けれどもう、今更どうにもならない。死ぬんだよ。なんにも遺せず、このまま一人で」


苦しみに満ちた声でそう嘆く姿は、なんとも悲痛で、そして度し難いものです。


「……包帯を、お変えになりましょうか」


少しでも彼の気を紛らわせようと、声調を高め、私は言いました。


「失礼致します」


肌を傷つけないよう、ゆっくりと服を脱がしていくと、痩せ細った体と、痛々しい傷の数々が露わになります。


背に隆起した骨が浮かび上がったその姿は、まるで死人そのもののようでした。


「……くだらない話さ」


血の滲む包帯を取り替えた時、彼はぽつりとそう呟きました。


「前線で守りを固めていたあの日、ティビアの軍隊が束になって攻めてきたんだ。その時に、敵に背をと足を撃たれて」


この国コルニアが、大国であるティビアと争っていたのは丁度、一年ほど前の出来事でした。長期化したこの戦争によって、多くの民衆が国に徴兵され、亡くなったと、以前に町の方に伺いました。


「破傷風だって告げられたのは、ここに戻ってきてすぐの事だった。医者は、銃創から感染したんだろうって言っていたよ」


「……そうでしたか。」


そう語る彼の目は煤ガラスのように濁り、そして何よりも悲しみに満ちていました。


いえ、悲しいという表現では、あまりに端的に過ぎるでしょう。まさにそれは、絶望そのものと言っても過言ではありません。


そして、私がその瞳を目にした時。自分の胸の奥で、熱い感情が息を吹き返したような感覚に陥りました。


「……結局、両親も死んで兄弟も居ない僕は、産まれたこの家で、一人で暮らす事になった。それからは……見ての通りだ」


彼が首を、窓の外へと向けます。窓の外には、先程目にした林檎の木が、ゆらゆらと風に揺れていました。


「苦しいんだ、ずっと。親にだって、孫の顔すら見せてやれなかった。こうして、苦しんで死ぬなら……あの時、あのまま頭を撃たれて死ねばよかったんだ」


嗚咽混じりの声で語る彼を見て、私の中で、ある決心が芽生えたのを感じました。


「これで、終わりです」


最後の包帯を巻き、パチンと鋏で切りました。


彼の瞳は暗く沈み、もはや何も映すことはないように見えました。


どうか、彼に救いを与えたい。


そんなエゴのような意志を胸に抱いた私は無意識に、彼の手を握っていました。


「何を…」


ほんの少しだけ身を引き、彼が答えます。


「では、私の方からも、ひとつお話を致しましょう」


そう言って私は自らの過去を、今日初めて出逢った旦那様に打ち明けました。


「私はかつて、スロート国の従軍医師でした」


初めのその一言で彼の目はがらりと変わり、すぐにこちらを見上げました。


「従軍……」


「ええ。私は国で医療を学んだ後、軍に仕える事を選んだのです」




初めて戦地へと赴いたのは、医者となり、3ヶ月ほどが経った時のことでした。


銃を背負った兵士たちに連れられ戦場へと近づくと、ほんの数キロ先の平地より、大きな煙が立ち昇ったのを目にしました。


それが敵国からの迫撃砲によるものだという事は、すぐに

分かりました。


「国家の間での、終わりの見えないような戦争……あれがどのような場所であるかは、旦那様が一番よくお分かりになっていることでしょう」


旦那様は黙り込んで、私の話に耳を傾けます。



あの場所では、人の命が容易く、まるで蠟燭の火のように、次々と消えていきました。

私はこの目で直接戦いを目にした訳ではありませんが、あちこちから響く、酷く乾いた銃弾や爆弾の音。火薬と飛び散る血の香り……それらを、鮮明に覚えていました。


ですがそれよりも、私の心に焼き付けるような記憶を刻み込んだ物が、そこにはありました。


「それは?」


枯れた声で、旦那様はそう尋ねます。私は、俯いたまま答えました。


「負傷をした、兵士たちの姿です」


野戦病院のテントで見た光景は、凄惨な物でした。


泥に塗れ、粗末なベッドに大量の血を滴らせる兵士たち。手や足を失い、痛みに喘ぐ幾つもの人間の姿。


「軍医となった以上、それなりの覚悟はしていたつもりでした。ですが…そんなもの、あの場ではなんの役にも立たないと、私はこの身をもって知り得たのです」


私は汗を拭い、すぐに治療に取り掛かりました。布で兵士たちの鮮血を拭き取り、消毒し、傷を縫い合わせ…あの時の私にとって精一杯の事は、全て行ったつもりでした。


しかし、あまりに血を流しすぎた兵士たちがもう助からないこと。私や、他の軍医、そして兵士たち本人さえも、その事実を察していました。


「今の自分に行えることを必死で模索した私は、一つの行為に手を染めました」


無言で聞き入る旦那様を横目にしながら、すぅと息を小さく吸い込み、私は言を紡ぎます。


「私はあの場で、命を絶つ殺人者となったのです」


旦那様を見つめ、呟くかのように話す私に、強張った体がほんの少しだけ動きます。


「それは、どういう……」


「多くの血を失い、苦しみに嘆き、もはや死を待つだけとなった無数の兵士たちを、私はこの手で殺めたのです」


私の所に運び込まれた方々のほとんどは、既に助からない状態にありました。


粗末なベッドの上に寝かされ、縋るように私を見つめる眼差しに、私は強い思いを抱きます。


それは、ある種の憐れみであったのかもしれません。慈悲とも、あるいは傲慢とも取れるそれが、どう形容すべき感情であったのか……それは、何年も経った今でも、私には分かりません。


「介錯を行った兵士は皆、それぞれ人種、階級など、様々な物が違っていました。しかし、冷たく暗い死を前にした時……彼らの見せる表情は、全てが同じでした。ですから、もうこれ以上、痛みに苦しまぬように。そして、せめて最期は安らかであるように、と。」


そうして、私は人を救う医療者の立場でありながら、人の命を断つ殺人者となりました。その次の戦場も、その次の次の戦場でも。


「やがて私は、兵士や他の軍医から“死の天使”と、そう呼ばれるに至ったのです」


「……辛くはないのか?」


「ふふっ、お優しいのですね」


枕に頭を深く沈め尋ねる旦那様に、私は微笑みます。


「人を殺めるという事には、大きな責任が伴うものです。とても心苦しいことではありますが…それ以上に、逃れられない死を前にした方がお辛いでしょうから」


「……そうか」


私から目を背け、旦那様は窓の外を眺めます。


同じようにして向いた窓の外は気が付けば、既に夕焼けの色に染まっていました。


「私が、何を言いたいのか。お分かりになりましたか?」


私は鞄を膝に置き、中からゆっくりと短剣を取り出しました。


磨かれた、銀色の鋭い刃が、鈍く輝きます。


「旦那様には、二つの選択肢があります。一つ、このまま時間に身を任せ、ゆっくりと死に逝くこと。そして二つ、私に身を委ね、ここで命を終えること……」


その二つの分かれ道はどちらも、同じ結末を迎えるでしょう。


「もし、僕が君に身を委ねたとして……君にもっと、苦しみを与えてしまわないだろうか」


「ええ。けれども、それが“死の天使”の役目ですから」


短剣から目を離し、できるだけ旦那様に安心感を与えるよう、私は拙い微笑みを浮かべました。


「なら、終わらせてくれ。僕はもう、これ以上は…」


旦那様がそこまで話された時、暖かな夕焼けを反射したその瞳が、小さく煌めいて見えました。


「…それで、良いのですね」


手に持った短剣の柄を握り、手袋越しに硬い刃をそっと撫でます。


「待ってくれ」


私のその様子を見た旦那様は、手の甲に指を当て、私に言いました。


「僕が死ぬ前に、君に一つ、頼みたいことがある」




「…了解致しました」


旦那様の願いを聞き入れた私は、ゆっくりと頷きました。


「ああ…ありがとう」


そう言った後、旦那様は窓の外を眺めていらしたので、私も窓の外に目をやりました。


この家を訪れた時に見た、穏やかな風に揺れる木々。それらが皆、太い枝から葉の先に至るまで、ゆっくり優しく揺らいでいました。


旦那様がそれを見て、何を思ったのか。


私には言葉で表すことはできませんが……何故でしょうか。旦那様の瞳はその時、とても優しく、温かい思いが含まれているように感じられました。

─────

やがて、私はその家を背に歩き出しました。


ごう、ごうと火が燃え盛り、煙が立ち上って、空に消えていきます。


木々の焦げる匂いを風が運び、ゆっくりと家を燃やしていきました。


「……」


その光景を前にして口から漏れたのは、小さな吐息だけでした。


夕焼けと同じ色のその火は勢いを増し、庭先の木々すらも包みます。


私は短剣に付着したその赤を拭き取り、刃を覗き込みます。

鏡のように光るそれは揺れる私の目と、後方でただ勢いを増す炎だけを映し出していました。


あの時、旦那様が何を思っていたのか。

死の瞬間、私に言った言葉が頭を巡ります。


「…君に会えてよかった」


気が付けば私は、旦那様の最期の言葉を、無意識のうちに復唱していました。


焦げた香りに気がついたのか、町の方角から犬の吠える声が聞こえました。


私は鞄を肩にかけ、少しばかりのお金と町の人々宛の謝罪の文を入れた布袋を庭先に置き、その場を後にします。


きっともう、私がこの地へと訪れる事は二度とないでしょう。


帽子を深く被り、コートを羽織りながら、私は祈りました。

どうかこの炎が、旦那様の思いごと燃やし尽くしてしまうように。

そしてもう二度と、辛い生を受けぬように…と。


「……おやすみなさい、旦那様」


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