第192話『生まれてきたことに祝福を』

 ひどく甘く感じたバースデーケーキを食べ終えた頃には、優人の腹具合はさすがに限界が近かった。

 若干とはいえ胸焼けめいた感覚すら覚えているのは単純に食べ過ぎなのだろう。冷静に考えて、はたから見たらバカップルと言わても何も返せない触れ合いをしていたこととは、直接的な関係はないのだと思いたい。


 雛が淹れてくれたティーパックの紅茶でまた食休みを挟み、腹具合もひとまず落ち着いたところで彼女からプレゼントを渡された。

 ほんのりと緊張した面持ちの雛から贈られたのは男性物のベルトだ。

 普段使いはもちろん、学校の制服に合わせても問題なさそうな黒い革製の一品。数あるであろうプレゼント候補の中からベルトを、そしてベルトに決めてからも真剣に吟味を重ねてくれたであろうことは、渡す時の雛の表情を見れば一目瞭然だった。


 仮にそれを抜きにしても質の良さそうな一品で優人も気に入ったので、これから大事に使っていくことを雛に約束し、ありがたく誕生日プレゼントを受け取った。明日の登校からさっそく使ってみよう。


 さて、ご馳走を振る舞ってもらい、プレゼントも貰った。いわば誕生日のお祝いにおける一通りの工程はこれにて終わったわけなのだが、当の雛は未だお祝いにかける情熱が衰えていないらしく、にこにこと笑顔のまま優人を見ている。


「ご主人様、他に何かして欲しいことはありませんか?」

「他にって、もう十分過ぎるぐらいしてもらったんだけどなあ……」

「遠慮なさらず。膝枕とか、マッサージとか、何でも言ってくださいね」


 可愛らしくて魅力的なメイドさんが言うには際どすぎる台詞を口にし、なおも雛は優人の隣を離れようとしない。

 何でも、という言葉に一瞬ぐらりと傾いてしまった自分を自制しつつ、んーと考えを巡らせた優人はやがて雛に向けて身体を開いた。


「じゃあ雛、とりあえずもっとこっち」

「? はい」


 意図の見えない要望に小首を傾げる雛。けれど彼女は素直に優人の手招きに従い、元から近かった二人の距離はゼロに。そして優人は素早く雛の膝裏に腕を差し込むと、「ひゃっ」と上がる可愛い悲鳴に微笑みつつ、華奢な彼女を抱き抱えて自分の膝の上に横向きに座らせた。


「……えっと、ご主人様?」

「んー?」


 座ったままのお姫様抱っこ状態にぱちくりと目を瞬かせ、腕の中のメイドさんがこちらを見上げる。だが優人はその戸惑いはあえてスルーし、雛の身体をやんわりと抱き締めて甘やかすような手付きで頭を撫で始める。


「これはその、どういう……」

「抱き締めて頭を撫でてる」

「それは分かりますけど……! これだと私がご主人様にするんじゃなくて、されちゃってます」

「可愛いメイドを愛でたいってのはダメなのか?」

「……で、でも立場が逆というか……」

「へえ、メイドなのに主人には従えないのか」

「うっ……ず、ずるいです……!」


 じとりと不服そうに睨まれても知らんぷり。恨むなら進んでメイドという立場に身を置いた自分を恨むといい。

 ご主人様としての権限を最大限に活用する優人は雛の艶やかな髪を梳き、もう一方の手で彼女をあやす。


 尽くしたいという雛の意志を尊重したい気持ちはあれど、こっちだってただされっぱなしでは終われず、最高のもてなしをしてくれた彼女を労いたい気持ちがあるのだ。

 とりあえずしばらくはこのまま雛を甘やかしたい。

 そう思ってより優しさを込めて頭を撫でようとした矢先、されるがままだった雛が動きを見せた。


「――今夜ばかりは、流されてなんてあげませんから」


 雛自身の手によって取り外される頭のホワイトブリム。それを脇に置いた小さな手は優人に伸びると、同時に体勢を変えて優人を身体ごと強引に引き寄せる。

 雛が見せた思わぬ反抗に為すすべを失った優人の頭が迎えられた先は、彼女が誇る柔らかさの最高峰、メイド服を内側からこんもりと押し上げる双丘の間だ。


 雛を甘やかす体勢から一転、今度は優人の方が彼女の胸に顔をうずめて甘えるような形になってしまった。


「ふふ、こんな風に甘えてくれたらいいんですよ」


 服の上からでも柔らかく包み込んでくれる起伏と細い両腕、その三つを駆使して優人を捕まえた雛は艶やかに微笑む。


「メイドに反抗されたんだが」

「今の私はメイドじゃなくてただの恋人ですので」


 わざわざホワイトブリムを外したのは、つまりそういうことらしい。

 装飾品の一つを外した程度でメイドモードのオンオフができるのは、随分と都合のいい設定じゃないかと言いたくなるが、魅惑の柔らかさと甘い香りにほだされるとその牙も抜かれてしまうというものだ。


「今日の雛はなんというか、とことん尽くしたがりだなあ……」

「当然です。だって今日は優人さんのお誕生日――生まれてきた日なんですよ?」

「うん?」


 どこか含みを持たせたような物言いに、優人は雛の胸に抱かれたままわずかに面を上げた。


「本当にたまにですけど、考えちゃう時があるんですよね……もし優人さんと出会うことがなかったら、今の私はどうなってたんだろうって」

「俺と出会わなかったら?」

「はい。――正直あまり想像できません。それぐらい優人さんがそばにいてくれる現在いまが当たり前で、かけがえないもので……とっても幸せなんです。私が温かくて幸せな気持ちでいられるのは、優人さんと出会うことができたからなんです」


 母性すらも通り越し、まるで聖母のような面持ちで優人を見る雛。どこまでも優しい光をたたえた金糸雀色の瞳が優人を捉えて、離さない。


「だから私は、優人さんが生まれてきたこの日を全力でお祝いして、優人さんのことを心ゆくまで感じたいんです」


 だからこその触れ合いだと、それを証明するように雛の両腕に力がこもった。


「俺も……雛に出会えたよかった。本当にそう思ってるよ」

「えへへ、ならお互い様ですね」


 お互い様と言われたら確かにそうかもしれないが、少なくとも今夜は優人の方がたくさんものを貰っている。いっそ罰が当たりそうなほどの至上の幸せだけれど、今の雛の話を聞いた後だと、彼女の好きにさせてあげたいと思ってしまった。


 ……しかし、それはそれとして、今の状況にはなかなか危ういものがあるわけで。


「なあ雛、尽くしてくれるのは嬉しいんだけどさ……この体勢だけはちょっと変えないか?」


 さっきから何か喋ろうと口を動かすたび、大きめの胸の柔らかさや甘い匂いが優人を刺激する。おまけに雛の心音も微かに伝わるようで、落ち着くやら落ち着かないやらで優人の内心は忙しい。


「何でですか。優人さんはこういうの好きでしょうに」

「いや好きだけど……好きだから、余計にっていうか……」

「何度言うようですけど、今日は優人さんのお誕生日です。だから大いにわがままになっても……いいと思いますけど?」


 雛の口元が妖しく弧を描いた。


「け、けどよくないだろ。このメイド服は文化祭で使う用なんだから、皺になるとマズいし……」

「どうせ一度洗濯してアイロンかけるつもりですから」

「……いいのか、雛は?」


 メイド姿の彼女と……というのは非常に興味をそそられるシチュエーションだが、趣向としては特殊マニアックな部類に入るはずだ。

 そういうの、女性側としては敬遠したりしないのだろうか。


 優人のそんな危惧をよそに、雛の手がテーブルに置いたホワイトブリムに伸びる。


 再び装着された白い冠は優人のメイドであることの確固たる証明。

 頬を鮮やかな薔薇色に染めて、いけないメイドは主人をたぶらかす。


「――ご主人様のご命令とあらば、従うしかありませんね」


 この後優人がどんな命令を下したかは、言うまでもないことだろう。

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