第190話『初めてはいつだってあなたに』
『入る前にチャイムを鳴らして、少し間を置いてから入ってきてもらえますか?』
そんなメッセージを雛からもらったのは帰宅直前のこと。
不可解さに首を捻りつつも言われた通りにしてみた矢先、優人は自宅の玄関の戸を開けた体勢のまま硬直せざるをえなかった。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
優人を出迎えるのは愛らしい見慣れた笑顔。しかしそれ以外は見慣れぬ、どころか初めて見る姿形。
――ご主人様。
優人のことをあえてそう呼んだことが証明する通り、今の雛が身を包むのはメイド服である。
白と黒のモノトーンを基調とし、所々にリボンの飾りで赤色を足した一着。黒いワンピースの上からフリルで装飾された白のエプロンドレスを
文化祭で着る例のメイド服であることは一目瞭然なのだが、こうして目の当たりにしてみると意外とコスプレ感は強くない。
というのも、長袖やロングのスカート丈を主体として露出は控えめで、品の良さというものが感じられるからだろう。もっとも品の良さについては、そもそもの雛の清楚さあっての部分も大きい気がするが。
とにもかくにも雛のメイド姿は予想をはるかに越えるほど見事なもので、全体像を確認し終わっても優人は呆気に取られたまま、目の前の光景にただ見惚れるしかなかった。
ごく普通の日本のアパートの一室に突如として舞い降りたメイドは、くすりと耳に心地良い音色で笑う。
悪戯を成功させてしてやったりといった感情の色が乗っているあたり、このお出迎えは前々から計画していたことなのだろう。
「……やってくれたな、雛」
「ええ、やらせていただきましたとも。荷物はお預かりしますので、まずは手洗いうがいからどうぞ」
恨み節にもならない言葉は笑顔で受け止められ、ようやく優人が玄関を閉めたところで、雛もしずしずとこちらに歩み寄る。
せっかくなのだからロールプレイに付き合うのも楽しそうだと思って鞄を渡すと、雛は
靴を脱ぐ傍ら、綺麗な姿勢を保ったままの雛にふと思ったことを尋ねる。
「もしかしてだけど、メイド服をわざわざ家に持ち帰って手直ししたのって」
「はい、ちょうどいい口実ができてラッキーでした」
「本当に雛はさあ……」
つまり、その時点から計算尽く。色々と忙しいであろう中、魅力的なサプライズのために手を尽くしてくれた雛には心から脱帽だ。
シューズラックに靴を置いて優人は改めて雛に向き直る。
「俺のためにありがとな」
「どういたしまして。一年に一度、そして私にとっては初めての優人さんのお誕生日ですからね。それに、」
「ん?」
「――独占欲が強い誰かさんのためにも、私のメイド姿を一番最初にお見せしたかったので」
背伸びをした雛の囁きが、優人の耳元を吐息混じりにくすぐった。
優人の背筋を甘い痺れが駆け下りる中、脳裏によみがえるのは雛のクラスの出し物がメイド喫茶だと教えられた日、自分が口にした身勝手なわがまま。
それをちゃんと覚えていてくれて、こうして出来るかぎりの形で叶えてくれて。
雛の献身的な心遣いに、優人の胸の内はいとも容易くいっぱいになってしまう。
「ささ、約束通りご馳走も用意してますので手を洗ってきてください」
雛に促されて洗面所へ。
楽しみにしていたご馳走への期待は高く、優人の腹の虫は早く食わせろとしきりに訴えを起こしている。
でも、ちょっと待ってほしい。
洗面所の鏡に写し出される自分自身の、このだらしなく緩んだ口元が落ち着くまでには、もう少し時間が必要みたいだから。
普段の四割増しで期待してくださいと言われた雛のご馳走は、確かにその宣言に恥じない出来映えだった。
構成は洋風で固められており、メインのクリームシチューはじっくりことこと煮込んであろうことが噛み締めた鶏肉や野菜から伝わる。副菜のパスタサラダやチーズたっぷりのオムレツなども大変美味である。
一通り手をつけたところで思い出したように「美味い……」と呟くと、対面に座る雛が「お褒め頂き光栄です」とメイドらしい口調ではにかみを浮かべ、そんな可愛らしいメイドの笑顔にまた癒されてしまう。
花より団子でなければ、団子より花でもない。花も団子も最高のものを味わえる優人は男なら誰もが羨む状況にいることだろう。無論、誰一人にとして譲る気などさらさらない。
「ほんと美味いなあ……。このシチューなんて特に絶品だ」
「ふふ、今夜もちゃんとおかわりを用意してますので、たくさん召し上がってください」
「ん。さっそく貰うよ」
「はい、それでは」
さっそく二杯目のシチューをよそうべく空になった器を手に取った矢先、やんわりと重ねられた雛の手に制止され、瞬く間に器は掠め取られてしまう。いつもならおかわりぐらい自分でよそってるし、何なら座り位置的にも優人の方がキッチンに近いというのに。
「これぐらい自分で――」
「メイドとしてお手を煩わせるわけにはいきませんよ。だからゆっくり座っててくださいね、ご主人様?」
最後のご主人様呼びはダメ押しだろう。
一度立ち止まった雛は踵を返すと完璧な笑顔で優人をその場に留め、そしてまた振り返ってキッチンへと向かう。空気を含んでふわりと舞うスカートが実に優雅で、黒のストッキングに包まれた
「お待たせしました。またおかわりが必要な時はお申し付けください」
「分かったよ」
どうやら今夜の雛はメイドとしてとことん尽くしてくれる腹積もりらしい。
正統派メイド、ここに極まれり。そんなことを思いながら、優人は続けてご馳走に舌鼓を打つのだった。
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