第188話『文化祭の、その前に』

 パンケーキ講座から日も経ち、徐々に文化祭当日が近付きつつある週末。


 毎回そうと決めているわけではないのだが、雛と男女の一線を越えたあの日の夜を経て、次の日が休みとなる週末は雛が優人の部屋に泊まるようになっていた。

 部屋が徒歩数秒の隣同士なのだから思い立ったその瞬間に来れるぐらいに気軽であり、なんだったら毎日でもさして問題ない。そうしないのは一人の時間も必要だろうというお互いの考えの一致と……あとはまあ、単純に高校生らしい節度は守ろうという話だ。


 同棲状態に片足を突っ込んでいるのは間違いないにしろ、完全に身を沈めるのはまだ先で、雛が成人を迎えたぐらいが頃合いなのだろうか。

 そんな未来にうっすらと想いを馳せつつ、優人はシャワーの音が微かに響いてくるバスルームの方へと視線の先を傾けた。


 先週に引き続いて雛は優人の部屋を訪れており、今は先に入浴を済ませているところだ。以前に比べ、彼女の入浴姿を鮮明に思い描けるようになってしまったことに血が昂るのを自覚しながら、先ほどから弄っていた手元のスマホに視線を戻す。


 しばらくすると雛の入浴は終わった。リビングに戻ってきた彼女の姿を目の当たりにし、優人の胸はまたしても甘い疼きを覚える。


「おかえり」

「ただいまです。えへへ、思いつきで借りてみましたけど結構着心地いいですね、これ」


 感想を口にした雛はほわりと微笑み、自身が着る服の襟元を摘んでさらに笑みを深めた。

 優人の私物のジャージ――それが雛の本日の寝間着だ。

 入浴直前に雛から着てみたいと願われ、求められるままにクローゼットに仕舞っていた一着をつい渡してしまった。ちなみに、比較的高身長である優人と背丈は平均的である雛とのサイズ差が考慮された結果なのか、着用しているのはジャージの上だけである。


 そもそもとして風呂上がりの雛はそこはかとない色香があるというのに、格好のせいで余計にその傾向が強く、何の変哲もない男物のジャージが見事なファッションに早変わり。ジャージのジッパーをちゃんと上まで閉めて胸元の防御力はあるくせに、裾からはむき出しの素足が惜しげもなく晒されて優人の目を引きつけてやまなかった。


 無防備過ぎやしないかと言いたくなるも、これだけ無防備なのも自分の前だけなんだよなと思うと注意の一つや二つはあっけなく引っ込んでしまうから困ったものである。


 指先がちょこんと出る程度のぶかぶかの袖を鼻に押しつけ、へにゃりと目尻を緩める雛。幸せそうな彼女の頭をぽんぽんと叩いてすれ違うと、次は優人が風呂に入る番だ。

 雛の使ったシャンプーの残り香が微かに漂う浴室で身体を洗い、湯船に浸かって温まってから入浴を終える。


 タオルを首からかけてリビングに戻った優人は、ソファに座った雛が行っているとある作業を目撃して目を瞬かせた。


「それって文化祭の?」

「はい、当日使うメイド服が今日届いたんですよ。ただ微妙に一部がほつれてるものなどがあったので、こうして持ち帰って修繕してるわけです」


 雛が部屋に訪れた時、いつものお泊まりセットに紙袋一つ分の荷物が増えていたのは気付いていたが、どうやらくだんのメイド服を持ち込んでいたようだ。

 外れかけていたボタンを付け直しているらしく、落ち着いた色合いの黒のワンピースを手にする雛は慣れた手さばきで裁縫用の針と糸を操っていた。


「……雛って接客担当だよな? そういうのって小道具係とかの仕事じゃないのか?」


 メイド服は新品を購入するのでなく、クラスメイトの伝手つてを頼って揃えるという話はすでに聞いている。だから多少の手直しが必要になるものが出てくるのはいいのだが、それを雛が行うのはいかがなものだろうか。


 ただでさえ中核となるメイド担当で忙しそうで、今日だってゆっくりくつろいでもらおうと、ここ最近では珍しく優人が夕食を作るのを買って出たぐらいだというのに。


「ちゃんとそうなってますよ。でも、これは私が着る予定のものなので、単純に私が自分でやるって持ち帰らせてもらったんです」

「ならいいけどさ……。持ち帰ってまで作業なんて、相変わらず雛は頑張り屋だな」

「……あー、まあ……家の方が集中できるというのはありますから」

「そうか?」


 微妙に詰まった返事が少し気になりはしたが、雛は顔を上げると、何のかげりもない晴れやかな笑顔を優人に向ける。


「ふふ、そう心配しないでくださいな。美味しい夕食も作ってもらえましたし、今夜のお泊まりでたっぷり英気は養わせてもらうつもりですから」

「分かったよ。あとで好きなだけ甘えてこい」

「やった! それさえあれば百人力です」


 破顔した雛はメイド服に向き直り、ちくちくと細かい作業に戻っていく。笑みの抜けない横顔を見るかぎり、甘えることを本当に楽しみにしているのが伝わってきたので、雛の作業後はお望み通りたっぷり甘やかしてやろうと優人は密かに心に決めた。


「そういえば優人さんがお風呂に入ってる間にスマホが鳴ってましたよ。たぶんメッセージだと思いますけど」

「お、そうか。……あー、母さんからだな。文化祭の日時の確認だ」

「文化祭の時はこちらに来てくれるんでしたよね?」

「ああ。雛のクラスがメイド喫茶やるって教えたら、『絶対見に行くわ!』って息巻いてたぞ」

「あはは、それは責任重大になりましたねえ」


 早くも意気込む雛の様子に笑みを浮かべつつ、優人は母から届いたメッセージをスクロールさせ、最後に付け加えられた文面に目を通した。


『それとあなたの誕生日に届くように郵送でプレゼント贈っといたから。少し早いけど、誕生日おめでとう』


 ありがとう。そうメッセージを送り返し、優人はスマホの画面を消灯する。


 ――母のメッセージが告げる通り、優人の誕生日はすぐそこまで近付いていた。

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