第176話『振り返る思い出』
「背中からと言いましたけど、それより先に頭を洗いましょうか」
「んー」
掃除の基本は上から下だ。それは人間においても同じであり、手中に収めたスポンジやボディーソープを一旦脇に置いた雛は、新たにシャンプーのボトルを手元に寄せる。
元より雛に任せているのだから、順番だって彼女の好きにしてもらっていい。
まずは軽くシャワーで髪を濡らされ、そしてボトルから出したシャンプーを手の平で擦る雛。ある程度泡立ったことを鏡越しに確認した優人は、雛がやりやすいように少し後ろに頭を傾けた。
「シャンプー入りますよー」
言われてから一拍置き、雛の手と共にシャンプーの泡が優人の髪に押し当てられた。たおやかでゆっくりとした手付きは頭頂部からやがて髪全体に伸びていき、耳の横や襟足など、各部を余すことなく雛の指が揉み込んでいく。
基本的に短く整えている優人の髪などもっと乱雑でもいいぐらいなのに、雛の手付きはどこまでも優しく丁寧だ。
「どこかかゆいところはありませんか?」
「大丈夫だ。その調子で続けてくれ」
「はーい」
こういった丁寧さがいつも根底にあるからこそ、雛の外見は誰もが目を奪われるぐらいに整っているんだろうなあと彼女の人知れずの努力に想いを馳せつつ、どこか楽しそうな雛の問いかけに相槌を打つ。
マッサージめいた気持ちのいい手付きに、小さく聞こえてくる鼻歌。しばらく目を閉じて心地よい時間に漫然と浸っていると、ふとその中に懐かしさが混ざるのを優人は感じた。
前に似たようなことがあった気がする。薄く開いた目がたまたま自身の右手を視界の端に捉えた瞬間、優人の脳裏によみがえる記憶があった。
(そっか、俺が怪我した時にだったな)
今年始めの方、季節が今と真逆の冬だった頃のマラソン大会で優人は右手に怪我を負った。近場で行われていた野球の試合から飛んできた特大ファールボールが直撃し、約一週間ほどは利き手が自由に使えない事態に見舞われたのだった。
その時も雛は色々と世話を焼いてくれて、自分一人ではうまく頭を洗えない優人のためにと、スクール水着なんて持ち出してまで一緒にバスルームに――。
「……っ」
「優人さん? どうかしました?」
「いや、何でもない」
「はあ……? あ、もうちょっとしたら流しますからね」
わしゃわしゃと手を動かし続ける雛に対して平静を装いつつ、優人は自戒の意味を込めて内ももを指で
――あの時、理性の鎖が一部ちぎれてしまった優人は雛に迫ってしまった。
雛が色々と無防備で、不可抗力とはいえ柔らかな感触を押し当ててくるものだから抑えが効かず……という一応の言い分はあるものの、力業に出てしまったのは覆すことのできない事実だ。
迫るに留まりはしたのでさすがに大事にまでは至らなかったが、雛にはもうちょっとやんわり注意することができなかったものかと、今でも当時の自分を恥じてしまう。
(そういえば、あの頃だとまだ雛からは『先輩』って呼ばれてたっけ)
正確には、その一件でお互いを名前で呼ぶようになった。
今となっては遠い過去の思い出――とまでは言わないが、すっかり関係が深まったことに面映ゆさを感じていると、優人の背後から手を伸ばした雛がシャワーノズルを掴む。
「それでは流しますけど……
念を押すように、はっきりと。
告げられた言葉に思わず表情を固めた優人が頷くと、頭上から温水が降り注ぎ、優人の髪に残ったシャンプーの泡を隅々まで洗い流していく。
短い黒髪ではそう時間をかからず、ついでにコンディショナーまできっちり終えて雛は満足げに一息ついた。
「はい、これで髪はバッチリですね。次はお背中です」
「……うん」
「優人さん、さっきからどうしたんですか?」
「あー、その、雛はさ……」
「はい」
「あの時のことって……やっぱり覚えてるんだよな?」
いつのことかは明言しなかったが、先ほどの発言から考えて、雛が同じ記憶を思い出していることは間違いない。
優人の予想通り、淡く頬を色付かせた雛は「もちろん」と首を縦に振ると、脇に置いていたボディーソープを改めて手にする。
「マラソン大会で優人さんが怪我した時のことですよね? 利き手が使えなくて大変だろうからって、今みたいに優人さんの髪を洗ってたら……急に迫られちゃいましたね」
「……あの時は本当にごめん、怖かったよな」
「あ、謝らないでください。私が迂闊だっただけの話なんですから」
言葉を交わしながらもせっせっとボディーソープを塗ったスポンジを泡立てていた雛は、やがて白いかたまりを優人の背に押し当てる。
ふわふわの泡の感触の中、柔らかな雛の手の平がそっと重ねられるのを感じた。
「あの時の私は、優人さんに恩返しができるって張り切ってたんですよね」
「恩返し?」
「はい。そもそも優人さんが怪我したのだって、私や
「恩返しとか報いるとか、雛は大げさだな」
「とんでもありませんよ。何なら私がどれだけ救われていたのか、一つ一つご説明してあげましょうか?」
「……少なくとも今は勘弁」
「ふふ、残念です」
耳元まで寄り添ってきたからかい混じりの囁きに、背筋を甘い痺れでぞくりとさせつつ身をよじると、意外とあっけなく雛は離れた。
引き続き、優人の背中を雛の手とスポンジが滑る。
「優人さん」
「ん?」
「これからもずっと、恩返しさせてくださいね?」
「へえ、雛が俺のそばにいてくれるのは恩返しのためなのかー」
「む、もちろん好きだからっていうのが大前提にありますとも。それはそれ、これはこれです」
「分かってるよ」
雛からの愛情を疑うなんて愚かな真似は、これから先だって絶対しない。
聞き捨てならないと言いたげに即座に反論されたことが嬉しくて笑ってしまうと、ぺちんと背中を叩かれてしまった。
「というか恩返しなんて言い出したら、俺の方こそ雛に返さなきゃならない分が貯まりまくってる気がするんだけど」
「おや、そうなんですか。私はいつでもお返しを受け付けてますけど」
「言ったな? ならこれ終わったら、次は俺が雛の背中を流すから」
「頭はしてくれないんですか?」
「さすがにハードルが……。女の子の髪って色々気を遣って手入れしてるだろうし、経験のない俺が触ったら変に痛めそうで怖い」
「優人さんってそういう気遣いが自然とできますよねえ……」
大事にしてくれてありがとうございます、と面映ゆそうに言い足した雛に頷き返し、優人はもうしばらく心地よい恩返しを堪能するのだった。
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