第177話『いじわるなあなたも』

 やはり女性が綺麗な髪を維持するためには、色々と手間暇がかかっているらしい。それは、雛が髪を洗う姿を横目で窺った優人が改めて抱いた感想だった。


 優人の背中を流し終えた後、優人が残った身体の前の方を洗う一方で、雛もまた自分の髪を洗うことにしたようだ。

 あらかじめ持ち込んでいた自前の防水ケースから、普段使っているらしいシャンプーやらが入った旅行用の小さなボトルをいくつか取り出した雛は、その複数のものを慣れた様子で使い始める。旅館備え付けのシャンプーを使った優人とはそこからしてレベルが違う。


 じろじろ観察するのは雛に悪いし、優人は優人で身体の前を洗う際に露わにある己のたかぶりを隠す意味でも距離を置いたのだが、洗髪中の雛の横顔はどこか真剣だ。


 そんな彼女ですら髪の長さ自体は肩に触れる程度なのだから、さらに長い人たちは一体どれほどの神経を使うのだろう。

 こんな機会でもなければお目にかかれない努力の一部に尊敬の念を覚えつつ、雛の洗髪が終わるのを見計らって彼女に近付いた。


 ほっそりとした肩越しにこちらを振り返る雛の顔は、浴場という場所を抜きにしても赤らんでいると思う。


「えっと、お願いしてもいいですか……?」

「……ん」


 雛の指が、彼女の湯浴み着の肩紐に伸びる。

 それはまあ、背中を洗う以上は当たり前の流れなのだが、目の前の光景に優人の視線は釘付けにならざるをえなかった。


 両サイドの肩紐を解き、湯浴み着を少しずつ下げる雛。水分を含んだ湯浴み着はするりとは脱げず、雛が下へ下へ引っ張ることでようやく脱げていく。それが余計に、雛が自らの手で柔肌を晒しているという事実に直結して優人の心臓を騒ぎ立てる。


「ん、しょ……」


 やがて露わになる雛の背中はこれもまたシミ一つたりとも見当たらない、見事という他ない眩しい白さを誇っている。

 さながら降り積もったばかりの一面の処女雪。華奢な肩を盛り上げる肩甲骨けんこうこつにすら色香を感じてしまう中、その下にはなめらかな曲線美が続き、きゅっとくびれた腰回りを過ぎたところで肌色は途絶える。


 そこから先は途中まで脱いだ湯浴み着で隠されているわけだが、それを残念だと思ってはいけない。

 あくまで入浴中だ。隠されたものを暴きたいという欲を表に出すのは、少なくとも今ではない。


 とはいえ、むき出しの背中をまじまじと見れる機会もあまりないのでつい黙って眺めてしまうと、やや前傾姿勢になった雛が潤んだ瞳をこちらに向けた。胸の辺りは両腕でぎゅっと隠しているので、今の雛は庇護欲と情欲を同時に湧き上がらせる。


「い、いつまで見てるんですか……」

「悪い」


 何だろう。気恥ずかしいし、正直興奮してる面があるのもそうなのだが、雛が優人以上に恥じらっているおかげでちょっと冷静になれた。

 シャンプーと同様に雛が用意したボディーソープをスポンジに垂らし、山盛りのホイップクリームのように泡立ててから、雛の背中へ優しく塗り付けていく。


 初体験の事後に雛の身体を洗ったことはあるが、あの時は本当に軽くシャワーを浴びるくらいで、こうしてちゃんと洗うのは初めての経験だ。

 そのことに新鮮さを味わいながら、ゆっくりと丁寧に雛の背中を白く染めていく。


「ん、ふぁ……」


 少なくとも嫌がられてはいないらしい。

 雛のこぼす吐息がどうにも艶っぽく聞こえてしまうのが難点だが、なるべく意識せず手を動かし続ける。


「力加減はこんな感じでいいか?」

「んー……今だと優し過ぎて、むしろちょっとくすぐったいです。もうちょっと強くても大丈夫ですよ」

「了解」

「あ、それ、気持ちいいです……」


 それならばとスポンジに込める力を強めると、比例して真っ白な背中のなめらかさがより感じるようになる。雛は気持ちいいと賞賛してくれたが、こっちの感想も大概似たようなものだ。


「はふ……」


 心地良さそうな声。雛にしては珍しい気の抜けた様子だが、完全にリラックスモードとまではいけないらしく、時折スポンジが首筋や脇腹などに触れるとぴくんと肩を震わせる。

 鏡越しに窺える顔からは、まだまだ赤みが抜けそうにない。


「やっぱり恥ずかしい?」


 口の端が吊り上がるのを自覚しつつも尋ねると、雛は「当たり前じゃないですか……」とほんのり唇を尖らせて振り返った。


「そりゃ優人さんにはもう、ぜ、ぜんぶ見られてるわけですから? 今さら恥ずかしがるのも変だとは思いますけど……こればっかりはしばらく……いえ、慣れる気がしません」

「……俺としてはそっちの方が嬉しいけど」

「……いじめがいがあるからですか?」

「そこはせめて可愛がりがいと言ってくれ」


 他人が聞いたら、優人が鬼畜か何かのように思われしまう物言いには訂正を入れておく。

 まあ、『可愛がる』と『いじめる』をイコールで結んでしまう面も優人の中にはあるのだが、それについてはいちいちそそる反応をする雛が悪い。決して雛を理想で縛るつもりはないけれど、男心としては恥ずかしがってくれる方が嬉しいものだ。


 ……例えば今、この手を前に滑らせたらどうなるのだろう。

 そんなほぼ欲求に近い妄想が頭をよぎってしまう。すると、金糸雀色の瞳は何か物言いたげに優人を見つめた。


「なに?」

「今の優人さん、なんだかいじわるな目をしてました」


 ――鋭い。

 よからぬ考えはなるべくすぐ奥に沈めたというのに、ものの見事に的中した雛には舌を巻く。

 とはいえ言い当てられたことを素直に認めて終わりなのも癪で、少しだけやり返してやろうと思った優人は雛との距離をゼロにした。


 背後から覆い被さるように雛を抱き締め、スポンジを持ったままの両手を彼女の細いお腹に回す。ひゃっ、ととても可愛らしい悲鳴が上がった。


「あ、あの、優人さん……っ」

「いじわるいじわるばっかり言ってくるなら、いっそそれらしいことしてやろうか?」

「ひ、あっ……」


 少しばかり低い声を意識して耳元で囁くと、雛の全身は面白いぐらいに震えを起こす。試しにお腹からその上を目指して手を這わせようとすれば、息を呑んだ雛がきゅっと唇を噛んだのが雰囲気で分かった。


 蠱惑的な丸みを描く雛のそこは、未だ彼女の両腕で隠されたまま。だが、そんなベールなど男の腕力をもってすれば剥がすことは容易く、それを敏感に感じ取ったであろう雛はやがて、長く、熱い吐息を喉の奥から絞り出す。


 もちろんこれはちょっとした戯れのつもりで、雛が言うところの『いじわる』でしかない。

 だから「冗談だって」と言って優人が手をどけようとした、その矢先――雛の手が逆にそれを止めた。


「ひ、雛?」

「……ゆ、優人さんが、望むんだったら……私は、その……。そうなることも視野に入れなかった、わけじゃないです……から」

「……っ」


 たどたどしくも暗に受け入れると告げられ、今度は優人が身体を震わせる番だ。

 心臓が強く脈打ち、全身をドクドクと熱い血液が駆け巡る中、優人はもう一度雛の耳元に唇を寄せる。


「……せっかくの温泉だし、今はゆっくり入ろう」

「は、はい」

「だから、温泉から上がって、落ち着いたら……いいか?」

「……はい」


 こうして密着しなければ聞こえなかったかもしれないほどの、ちいさなちいさな声。

 だがその分を埋め合わせるかのように、雛ははっきりと、首を縦に振った。

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