第174話『裸のお付き合い』

 ――ちゃぷん、と湯の跳ねる音が耳を優しく打つ。

 少し熱めの、若葉の色が溶け込んだような透明感のある薄黄緑の湯。

 足先からゆっくりと湯に触れると、腰、胸、肩と順繰りに身を沈めていき、比例して水面には波紋が大きく広がっていく。


 その波が静まった頃、女湯の露天風呂のなめらかな岩肌に背中を預けた雛は、金糸雀色の瞳に瞼のカーテンを下ろした。


(気持ちいい……)


 無意識に吐息がこぼれた。

 視覚を遮断したからこそ、その分の余裕は肌感覚へと回される。素肌を通り抜けて身体の奥底まで沁み込む熱さは溶けそうなほどに心地良く、気を抜いたら頭の先まで湯船に沈んでいきそうなほどだった。


 それはそれで気持ちよさそうだけれど、せっかくまとめた髪まで濡らしてしまったら本末転倒な上、単純にマナー違反になってしまう。髪を洗うこと自体もまた後の方に回すつもりなのでここは我慢だ。


 代わりに微かに香る温泉の匂いを肺の中に取り込み、ほっと一息。それから目を開けて、湯の中でたゆたうばかりだった片腕を何となしに持ち上げてみた。

 流れ落ちていく湯が伝うのは雛自身が誇る白い肌。自画自賛なのは百も承知だが、温泉の熱で少し赤みを帯びた素肌は我ながら綺麗な色をしてるんじゃないかと思う。


 脱衣所の壁にかけられていた温泉の効能一覧には『美肌』の二文字も含まれていたことだし、湯上がりはいつもよりもっと美肌になれるかもしれない。

 年頃の女の子としてそうありたいのはもちろんで、それ以上に――他でもない彼には、いつだって綺麗だと思ってもらいたいから。


「…………」


 この頬の火照りは、きっと温泉とは無関係のものだ。自覚は大いにある。

 隠すように口元を湯に沈め、吐息でぷくぷくと泡立つ水面を眺めながら、視線を斜め上に持ち上げた。


 女湯と男湯の仕切りである高い竹垣が目に入る。

 大浴場はきっちり男女別で、恋人である優人と別れてしまうのは当然の話で、なのに一抹の寂しさを覚えてしまう自分がいて、そのことに雛は人知れず呆れた。

 恋はやまいに例えられることもあるけど、だとしたら自分はとっくに重症患者だろう。おまけに不治ときた。別に治らなくて本望なのだが。


 口元を湯から上げて緩く呼吸した雛は、手を組んでぐっと身体を伸ばす。

 寂しいものは寂しいけど、お楽しみ・・・・はちゃんと控えているのだ。今は今を楽しもう。


 そう思って顔を横に向けると、隣にいる連れの彼女はちょうどため息をついたところだった。真冬なら湯気に負けず劣らず白く色付いたであろう、長い長いため息。


「あー、もー……まさかここまで来て、友達に見られるとは思わなかったわよー……」

「ですねえ」


 それはまあ、こっちも同意見なわけで。

 仕事も上がりということで一緒に入浴することになった麗奈の言葉に、雛はしみじみと頷きを返した。


 どうやら勤務時間外においては、従業員も温泉を利用して大丈夫とのことなので――正確には色々とルールもあるらしいが――、こうして麗奈と肩を並べて露天風呂に浸かっている。本当にこんなことになるとは夢にも思わなかったが、一人で満喫するよりも気心の知れた友人との方がずっと楽しい。


 優人と旅行中の現場を目撃されたことは恥ずかしいけど、麗奈にもやり返せた分、溜飲の下がった雛はにこやかな笑顔で麗奈を見る。


「麗奈さんがお付き合いしてるのって年上の方だったんですね。彼氏さんのことはいつもはぐらかされてばかりですから、ようやく知ることができました」

「……そうだけど、悪い?」

「まさか。年上の人の魅力は分かってるつもりですよ?」


 だって麗奈たちほどの年の差ではないけど、自分だって年上と付き合ってるわけなのだから。

 それを知ってる麗奈だからこそ、雛の言葉は本心だと判断してくれたのか、お手上げだと言いたげな様子でまた一つため息をこぼした。


「真兄は昔からの、まあ幼馴染みってやつよ。お父さんの姉の息子でもう十年ぐらいの付き合いになるわね」

「長い付き合いですね。もしかして、昔からの片想いとかだったんですか?」

「どうだろ……正直、自分でも好きになったきっかけなんてよく分からないのよ。小さい頃から仲は良かったと思うけど、あくまで親戚のお兄ちゃんって感じだったし。……ただ、少しずつ周りの子が恋愛とか意識し始めると、私もそれに影響されたりして、いつの間にか真兄のことをそういう目で見るようになって……」


 当時の気持ちを自分なりに振り返っているのか、頬に手を当てて半ば口元を隠しながらの麗奈の言葉は熱を帯びている。

 恋する乙女の顔というものを外側から見たのは初めての気もするが、自分も優人と付き合う前はこういう顔をしていたのだろうか。そう思うと感慨深いと同時に、ちょっと恥ずかしい。


「告白は麗奈さんからだったんですか?」

「……一応、真兄から。なんか、真兄も私と同じ感じだったらしいから」

「ふふ、波長がぴったりだったということですね」

「うー……! はいもう終わり、私の話はここまで!」

「えー」


 残念、もうちょっと色々訊いてみたかったのに。

 でもこれ以上問い詰めると、麗奈が先に温泉から上がってしまいそうだったので、雛はくすくすと笑う程度に留めておいた。

 話題を切り替えるよう咳払いをした麗奈は、こちらとの距離を詰める。


「私よりも気になるのはそっちの方よ。働いてる側がこういうことを言うのもなんだけど、ここって料金は結構お高い方でしょ? しかも雛たちが泊まってる部屋ってアレ・・もあるし……よく泊まりに来れたわね?」


 周りに他の客もいる中でのお金の話だから、声を落としたかったらしい。手伝いとは言えども、こういうところはちゃんとしてるなあと感心しつつ、雛もまた麗奈の方に口を傾けた。


「そこはまあ、色々あって優人さんのご両親から援助してもらったので」

「へえ、つまり雛たちはすでに親公認の仲ってわけね」

「う……そ、それは麗奈さんたちも同じことでは?」


 付け入る隙を見つけたと言わんばかりに麗奈はからかってくるが、麗奈と真が従兄妹ということは、親同士の繋がりはそちらの方がよっぽど深いはずだ。

 どうやら雛の反撃は最善手だったらしく、図星を指された麗奈は「……そうね」と大人しく引き下がった。何の勝負をしているんだろう、自分たちは。


「……親公認、か」


 しばし流れる湯の音に耳を傾ける中、麗奈がぽつりと呟いた一言が雛の興味を誘う。

 何だろうと思って首を捻ると、麗奈は少しずつ星が見え始めてきた薄闇の空を見上げて口を開く。


「ねえ雛、ちょっと訊いてもいい?」

「はい、どうぞ」

「……結婚とかって考えてたりする?」

「け、結婚ですか?」


 世間話のような軽い話題でないのは麗奈の雰囲気から漂っていたが、投げかけられた内容が内容だけに雛の返事は少し裏返る。

 結婚。それはもちろん今付き合っている相手――雛なら優人、麗奈なら真とのという意味だろう。


「質問に質問を返すようで悪いですけど、麗奈さんは考えてるんですか?」

「考えてるってわけじゃないんだけど……ほら、雛が言う通り私と真兄の仲も親公認で、だから親同士で妙に盛り上がってる時があるっていうか……」

「なるほど」


 麗奈の言葉に相槌を打ちつつ、雛は優人の実家を訪れた時のことを思い出す。

 新婚さんと評されたりもすれば、優人とどんなデートをしたのかを訊かれたりもした。想像の範疇にはなるけれど、自分の子供がどんな恋愛を繰り広げているかが気になったり、つい先のことを期待してしまうのはどこの親も同じらしい。


「別に嫌とか迷惑ってわけじゃないのよ? 真兄のことは、ちゃんと本気で好きなんだし……。でも、結婚とかまだ先のことで盛り上がられてもねー……いまいち想像できないから反応にも困る」

「確かにそうですよね」


 言われて雛も想像してみる。

 例えばある日の夕食時、仕事から帰ってきた優人を出迎えて二人でご飯。それから食後はまったりして同じベッドに入って眠る、そんな生活の一コマ。


 ……とっくに似たような生活をしているから想像すること自体はまあ割と容易いのだが、それだけに結婚という要素を足されてもいまいち変化がなくピンとは来ない。


 実際、高校生の内から結婚までを視野に入れるカップルなんて極少数だろう。

 高校生なんて社会全体から見たらまだまだ幼い立場で、経済的にも自立し難い身では考えるための知識なんて足りなくて、だからきちんと思い描くことができない不確かな未来図。


 それでも、


「私だって結婚なんて先のことはまだ分かりませんね。でも、少なくとも私は――優人さんを好きだってこの気持ちを、これから先もずっと持ち続けたいと思います」


 胸に手を当てる。

 優人のことを思い出すたび、とくんと脈打つ鼓動。

 生まれて初めてどうしもようないぐらいに恋い焦がれた自分の初恋を、いつまでも大事にしていきたい。


 未来が不確かだろうと、それだけは断言できた。


「……そうね。それは私も、同じ気持ちかな」


 結局大した答えは返せなかったと思うが、麗奈はどこか満足げな表情で口元を弛ませる。


「悪いわね、急に変なこと訊いちゃって」

「いえいえ、麗奈さんには色々と相談に乗ってもらった身なんですからお安い御用ですよ。喜んで力になりますから、何でも訊いてくださいね?」

「そう。ならもう一つ訊きたいことあるんだけど、いい?」

「はい」

「――あんたちょっと胸おっきくなってない?」

「はい!?」


 反射的に動いた両腕が胸を隠し、ばしゃりと大きな水しぶきが上がる。


「な、なんでいきなりそんな……」

「だって何でも訊いていいって」

「えぇ……」


 いや言ったけど。確かに言ったけども。でも、こう、なんか、今それは違うんじゃないだろうか。


「で、どうなの?」


 ずいっと身を乗り出した麗奈が胸を見つめてくる。

 同じ女といえど凝視されるのはさすがに恥ずかしい。雛は両腕で胸を覆い隠したまま麗奈とは逆方向に後ずさる。


「麗奈さんはそんな気にするほどじゃないでしょう……! 私と大してサイズ変わりませんしっ」

「だからよだから。同じぐらいだと思ってたのに、なーんかいつの間にか置き去りにされてる気がしなくもないような……」


 追求の手を緩めようとしない麗奈。

 今だけは優人にも匹敵するんじゃないかと感じるほどに鋭くなった眼光が雛を射抜き、そう時間もかけずに湯船の隅に追い詰められて逃げ場を失う。


 果たして答えは、是か否のどちらか。

 それを明らかにするまで引き下がらないという麗奈の凄みを一身に受ける中、実は最近新しい下着を購入したことを頭の中から追い出しつつ、雛は回答を絞り出す。


「べ、別に変わってませんけど……?」


 言葉だけで誤魔化せるほど、麗奈は甘くなどなかった。

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