第172話『あなただからこそ』

 浜辺での散歩をひとしきり堪能した後、海水浴場に設置されていたトイレ併設のシャワーで砂を洗い落としてから旅館へと向かった。

 温泉旅館『いちのせ』。

 達筆な筆文字でつづられた看板が頭上に掲げられている表玄関をくぐれば、温かみのある暖色の照明と鮮やかな生け花が優人たちを出迎える。


 建てられてから長らくこの旅館を支えている柱の一本に触れると、決して少なくはない細かな傷跡を指先に感じるが、全体的な印象はやはり手入れの行き届いた立派な施設といったものだ。


 ひとまず受付でチェックインを済ませ、先ほど快く預かってもらえた荷物を回収。一つ一つの所作がとても流麗な壮年の仲居の先導の下、今回優人たちが泊まる客間へと案内される。


「こちらが大浴場で、一日ごとに男湯と女湯が入れ替わる形になっております。ただし午前三時から五時までの間は清掃の関係で入浴することができませんので、あらかじめご了承ください」


 早すぎず、そして遅すぎもないペースで歩を進めつつ、仲居は旅館の主要設備に適宜説明を加えていく。何十何百と繰り返している接客だと思うが、決して流れ作業という雰囲気もなく、通りかかった旅館の窓から覗く景色にふと雛が足を止めれば、同じように立ち止まって彼女が落ち着くのを待ってくれた。


 しばらくそうして歩く中、客間へと繋がる渡り廊下の途中で一組の老夫婦とすれ違う。

 貫禄のある彼らは優人たちと同じ宿泊客だろう。仲居と会釈を交わした老夫婦はそのまま通り過ぎていくのだが、夫の方が本人も無意識であろうほんの一瞬だけ、優人たちを見て訝しげに眉をひそめたように見えた。


 悪く捉えれば値踏みするような不躾な視線だったかもしれないが、こういった老舗の温泉旅館に高校生二人だけで泊まりに来た優人たちは異質に見えても仕方ない。

 実際、自分たちだけの財力ではとても宿泊に踏み切れなかったわけなのだから、場違い感は否めなくて当然。大学生ぐらいだったらまだ多少の背伸び程度で済んだことだろう。


 ちらりと視線を横に向ければ雛も似たような想いを覚えたらしく、優人を見上げて小さく肩を竦めた。


「何かご不明な点がございますか? よろしければお申し付けください」


 経験豊富な仲居は観察眼も相応のものをお持ちらしい。老夫婦を見送った視線を優人たちに向けた彼女は、こちらの感情の機微を敏感に察知して慎み深い笑みを浮かべる。


「そういうのではなくて、むしろ良い旅館だから逆に恐れ多いというか……俺、いえ自分たちにはちょっと不相応なのかもなと」

「不相応ですか?」

「はい。宿泊代金だって半分ぐらいは親に出してもらってますから、当然と言えば当然なんですけど」

「あら、そんなことはないと思いますよ?」


 首に手をやりながらの優人の言葉に、親しみの色を足した仲居はふふっと口元に手を添えて破顔した。


「お見かけしたところ、お二人は高校生ですか?」

「あ、はい。自分が高三で、彼女が一つ下です」


 お部屋はもうすぐです、と先を示す仲居の後に続く中、投げかけられた問いには優人が答える。


「夏休みの学生旅行ということですね。いいじゃありませんか。若い内から自分の知らない世界に触れて、見聞を深めるのはとても有意義なことですよ」

「と言っても、私たちはただ遊びに来たようなものですし……」

「それでもですよ。遊びであろうと何であろうと、経験を積むという点では同じことです」


 どうにも割り切れないような雛の言葉には、接客以上の意味が込められたにっこりとした笑顔で返された。


「それにご両親が代金の半分を出してくれたということは、裏を返せばお二人でのご宿泊をお認めになってるわけですよね? 太鼓判を押されたのなら何も気に病むことはありません。胸を張って堂々と、大いに楽しめばいいのです」


 仲居が締めくくるように断言するのと同時、まるで計ったかのような客間の前へと辿り着く。まさか話の長さまで計算づくとは思えないが、思わずそう信じてしまいそうになるほどの熟練具合が窺えるみたいだった。


「お待たせしました。こちらがお客様のお部屋になります」


 戸を開けてくれた仲居の手に促され、部屋の中へと足を踏み入れる。

 埃っぽさもなく、しっかりと掃除の施された和室。自宅のフローリングの床に慣れた足裏にも不思議と畳の感触が馴染む。


「あの、色々とありがとうございました。すっかり気を遣って頂いたみたいで」

「いえいえ、私にもちょうどお嬢さんと同い年のめいがいるものですから、つい差し出がましい口をいてしまいました。お客様に気兼ねなくお楽しみ頂くのが私どもの務めですので、どうかお気になさらず」


 仲居へお礼を告げる雛に続いて優人も軽く頭を下げると、やはり返ってくるのは柔和な笑み。

 よろしければ、と言って最後に二人分のお茶を用意してから退室する最後の一瞬までその笑みが崩れることはなく、膝をついた仲居の手によって閉められた部屋の戸は、文字通り音も無く閉まった。


「……なんというか」

「これぞ大人の人って感じでしたねえ……」


 二人だけになった室内、飲むのにほどよい温度の緑茶で唇を湿らせながら、テーブルの対面に座る雛と頷き合う。

 優人たちのような若輩者を軽んじることなく真摯に接してくれた。全部ひっくるめてそれが彼女の仕事なのだから、当たり前と言えばそれまでかもしれないが、された側が得たのはただの接客を越えた満足感である。


 あんな大人になりたい。雛のみならず、性別の違う優人でもそう思える一つの完成形と言えた。


「所作もお綺麗でしたし、ああいった方には憧れますね。お茶も美味しい……」

「俺からしてみたら、所作なんかは雛も大したもんだと思うけど」

「そうですか?」


 本人は自覚もなさそうにきょとんしているが、右手で湯呑みを持ち左手を底に添えてお茶を飲む雛の姿勢は、正座も相まってとても美しい。胡座をかいて片手で湯呑みを持つ優人とは大違いである。


「雛だったら仲居さんとか似合いそうだなあ。和服だって似合うし」

「それ絶対贔屓目ひいきめ入ってますよねえ。まあ、ああいった見事な仕事ぶりを見てしまうと接客業にも興味は出てきますが」

「美人女将ってことで評判になりそう。……あー、人気になるのはいいことだけど、彼氏としては複雑かもしれない……」

「困った彼氏さんですことで。私にやって欲しいのか欲しくないのかどっちなんですか」


 雛はやれやれと首を横に振った。

 言動の割には満更でもなさそうに微笑んでいた彼女は、ふと顎に人差し指を添えて目を閉じ、考え込む素振りを見せる。


「……ふむ、優人さんがそう言うのでしたら、一つ試してみましょうか」

「え?」


 ぱちりと目を開いた雛は立ち上がると、テーブルを回り込んで優人の隣へ。その場で再び正座で腰を下ろした雛は両手を膝の上で揃え、静かに口を開く。


「お客様、よろしければお茶のお代わりはいかがでしょうか?」


 浜辺での散歩で思ったより汗をかいたのもあり、優人は仲居が出してくれたお茶をすでに飲み切っていた。

 雛は空になった湯呑みを一瞥し、ふわりと柔らかな笑みで優人の返事を待っている。


「じゃあお願いします」

「かしこまりました。失礼致します」


 雛の意図を察して空の湯呑みを差し出す。

 先ほどの仲居の動きを真似て二杯目のお茶を淹れる雛。もしかしたらプロの目からすると修正点はあるのかもしれないが、基本的に何事も丁寧な雛の手つきは十二分に合格点だ。


 ほどなくして「お待たせしました」と出されたお茶を一口味わい、優人は告げる。


「百点」

「ちゃんとした採点をお願いします」

「満点」

「この試験官さんは大甘ですねえ……」


 半ば呆れた様子で金糸雀色の瞳を細められてしまったが、優人の脳内会議では全会一致なので採点結果は揺るぎようがない。

 一歩も譲らない優人にため息をこぼし、優人の対面ではなく隣の座布団に座り直した雛はくすっと小さく吹き出した。


「お墨付きをもらった後で悪いですけど、やっぱり私はまだまだと思いますよ。あの域に達するにはきちんと修行しないとです」

「自己評価が厳しいなあ。今のだって、ほら、表情とか特に良い感じ――」

「優人さんが相手だからなんですけど?」


 むに、と人差し指で頬をつつかれた。


「先ほどの採点、そういった部分は考慮されてましたか?」

「……失礼しました」

「分かればいいんですよ」


 ふふ、とこぼれる吐息は優人の顔のすぐ横で。

 指で押された感触を上書きするのは、そっと触れた柔らかく瑞々しいものだった。

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