第151話『裏返しの記憶』
行きがけに買ってあった昼食を済ませてから始めた家の掃除兼諸々のチェックは、予想よりも時間を要さなかった。
家事スキルに卓越した雛、そして彼女には劣るものの一人暮らし歴においては倍以上の優人が力を合わせたのだから、ある意味当然の結果とも言えるだろう。
先ほどの窓のサッシのように小さく埃が積もった場所こそ散見すれど、業者の管理が思いの外行き届いていたのも大きい。おかげで安奈たちの予定帰宅時間の二時間前にはほぼ片付いたので、そのまま雛と二人で近場のスーパーへと買い出しにも向かえた。
買い出しを終えて帰宅した直後、安奈から追加で買っておいて欲しいものリストがメッセージで送られてくるというタイミングの悪い事態があったものの、大した量でもなかったので雛には休んでもらい優人だけでスーパーにとんぼ返りした。
「ありがとうございましたー」
出入り口ですれ違った店員からの挨拶を背に受けつつ、優人は中ぐらいに膨れたビニール袋を片手にスーパーを後にする。
鬱陶しいまでの暑さも夕方に近付くにつれて大人しくなり、空には雲を出てきたので体感温度は割とマシになった。
それでも汗の方はまだ治まりそうにないけど、と雛が持たせてくれたひんやりとするタオルにありがたみを感じて汗を拭いつつ、赤信号の横断歩道で足を止める。
「お」
手持ち無沙汰に視線をぶらつかせた先、電柱に貼り付けられたポスターが目に留まる。濃紺の夜空に大きく咲く花火を背景にした一枚はこの地域で行われる夏祭りの告知だった。
開催は明日の夜。写真から読み取れる通り花火の打ち上げも行われるらしく、昔を思い返してみれば家族で一緒に行った覚えもある。
(祭りか……)
こっちには二泊するつもりだが、それ以外に特に予定は決まっていない。おあつらえ向きに開催日も被っているのだから雛を誘ってみるのもいいかもしれない。
スマホでポスターの写真を撮り、横断歩道の信号が青に変わったところで歩き出す。ほどなくして家に帰り着いて玄関に上がると、最初と違って涼やかな室内が出迎えてくれるから爽快感が抜群だった。
「ただいまー……って、あれ、雛?」
てっきりリビングでくつろいでいるかと思って声をかけてみても、彼女の姿はそこにない。先ほど興味を示していたキッチンにもおらず、トイレ――を確認するのはさすがにマナー違反だが、スイッチを見るかぎり電気は点いてないので違うだろう。
となれば二階かと見当をつけて上がってみれば、雛用にと割り当てた空き部屋の扉が半開きになっているのを見つける。
「雛?」
「ひあっ!?」
可愛らしい悲鳴、そしてドサッと何か固いものを落としたような音。
扉を越えた先にあったのはやけに過敏な反応を見せた雛の後ろ姿で、本棚の前に立つ彼女は慌てて落とした何かを隠すように座り込むと、借りてきた猫みたいに恐る恐るとこちらへ振り返った。
「お、おかえりなさい、早かったですね」
「そんなことはないと思うけど。……で、雛は何してるんだ?」
腕組みして扉に寄りかかりつつ、うっすらと目を細めて問いかける。
「……き、急に立ちくらみが。今日暑いです、から」
「それが本当なら心配するところだが、さすがにバレバレな嘘だと思うぞ?」
「うう……」
土台隠し通せないのは雛も理解していたらしく、諦めた様子で立ち上がった雛は優人に近付くと隠していたものを素直に差し出した。
濃紺色の、一見すると大きな分厚い辞書のように見えるそれ。だが背表紙に金文字で『kid's memory』と印字された一冊は持ってみると見た目から受ける印象よりも軽い。
「アルバムか。そういやこの部屋に置いてあるんだったな」
「ごめんなさい、勝手に見るのはよくないと思ったんですけど……」
「いいって、別に見たらダメってわけでもないから。まあ、ちょっと恥ずかしくはあるけど……」
そもそも普段使いしないものを収めた本棚があるこの部屋を雛に割り当てたのはこちらなのだから、それで彼女を責めてしまうのを筋違いだ。
思ったよりも深刻そうに頭を下げる雛の頭をぽんと優しく叩きつつ、それはそれとして気恥ずかしいものを感じた優人は視線をさまよわせる。
和訳すると『我が子の思い出』となるその中身は疑うまでもなく優人の幼少期からの写真の数々で、両親が作った一冊に果たしてどんな思い出が秘められているのかは優人自身にも分からない。
うっかり自分でも忘れていた黒歴史なんぞが雛の目に晒された暁には、しばらく顔を手の平で覆い隠すことになりそうだ。
「……あの」
「ん?」
金糸雀色の瞳がおずおずと優人を見上げる。
胸の前で両の指先を合わせ、もじもじと上目遣いに。
「まだ半分も見れてないので、ダメじゃなかったら続きを見てもいいですか……?」
「…………」
やっぱダメ、とは言えなかった。
(めっちゃ食いついとる……)
リビングのソファへと場所移して本格的に鑑賞モードへと入った雛をキッチンから眺めながら、半ば諦めの境地に達した優人は一人静かにため息をついた。
優人が帰ってきてもそばに来るまで気付きもしなかった熱中っぷりは未だ健在らしく、むしろより強まってると言ってもいい。離れたところからでも一枚一枚じっくりじっくりと眺めているのがよく分かった。
最初こそ優人も雛の隣に座ってどんなもんかと一緒に眺めていたのだが、ものの数分でギブアップ。
当時放送された特撮ヒーローの変身ベルトを巻いてポーズを取ったり、全身びしょ濡れで尻餅をついて大泣きしていたりと、久しぶりに直面した過去の自分は見てるだけで恥ずかしい。
しかもご丁寧なことに、サインペンで『お家のピンチに参上!』だの『お手伝い失敗……』だのと安奈の字でありがたい解説も付け加えられているのだからタチが悪く、優人に向けて一片の容赦のない羞恥心を叩き込んでくる。それを雛が、きらきらと目を輝かせて見るものだから余計に。何の拷問だこれは。
結局今さら強引にアルバムを奪うわけにもいかないので、少しでもむず痒さから逃れるべくこうしてキッチンまで撤退し、まったく必要のない調理器具の整理整頓なんぞを行っているのが優人の現状というわけだ。
意味のない行動ではさすがに間が保たず何か適当な飲み物でも用意しようとお湯を沸かしていると、パタンとアルバムを閉じる音が優人の耳に届き、満足そうに大きく息を吐く雛の姿が目に入った。
「ご満足頂けましたでしょうか?」
「はい、良いものを見させてもらいました」
若干皮肉めいた言い回しも今の雛には通用せず、それどころか跳ね返すほどの満面の笑顔を向けられてしまい何も言えない。かと思えば仏頂面であろう優人をじっと見つめた雛は、やがてこらえ切れないようにくすくすと喉を鳴らし始めた。
「何だよその笑いは」
「いえ、優人さんにもこんな可愛らしい頃があったんだなあと」
「どうせすっかり可愛げ無くなりましたよーだ」
「そうですか?
『今』の二音を強調した言葉に「それ以上はやめろ」と唇を尖らせたところで、雛はなおさら可笑しそうに笑みを深めるだけ。もう一度大きなため息をついた優人は粉末スティックタイプのカフェオレをマグカップに開封して沸いたお湯を注いでいく。
「本当に可愛いと思ってるんですよ? この写真だって何枚かコピーさせてもらいたいぐらいで――あれ?」
優人が二人分のカフェオレを用意する中、聞き捨てならないことを口にする雛はパラパラとアルバムのページをめくり不可解そうな声を上げた。
「どうした?」
「いえ、最後のページに何故か白紙の写真が……あ、裏返してるんでしょうか」
「裏返し?」
両手にそれぞれマグカップを持ってソファまで近付くと、アルバムのそのページを開いた雛が「ほら」と見せつけた。
確かに最後のページ、それも一番右下の最後の一枚のスペースに裏返した写真が差し込まれている。
確認してみるとアルバムにはまだ途中に空きがあるので、わざわざ一枚だけ他と外れたこんなスペースに入れる意味が分からなかった。
「何でしょう、これ?」
「さあ……」
どうにも不可解で手を出すのを躊躇う雛に代わり、ソファに座った優人がアルバムから写真を引き抜いて、表の印刷面を露わにする。
「――っ」
それに映っていたのはもうずっと前の、優人がまだ小学生だった頃の姿。
「あ、これも可愛いですね」
すぐ隣からのそんな呟きが、ひどく、遠く聞こえた。
写真の中の当時の優人はやっぱり年の割には目つきが鋭く、それでも今よりずっと屈託のない笑顔を浮かべている。カメラマンをしていた両親へ向け、見せつけるように突き出した大皿に乗っているのは、見るからに手作りと分かる少し形の崩れた何枚ものクッキー。
『ちいさなパティシエさん、はじめての力作!』
サインペンで踊るように書かれたそのコメントを見た瞬間、時折覚えるいつもの感覚が優人を襲った。
じゅくりと、塞がっているはずのかさぶたの奥が疼くような、そんな鈍い痛み。
「これはいつの時の写真なんですか?」
「……どうだっけなあ。思い出せないな」
そう言って優人はマグカップを傾けた。
嘘で歪んだ自らの口元を、誰の目にも触れさせないように。
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