第131話『大切にしたいのは』
雛の誕生日を間近に控えた週末の夜、彼女の部屋でいつも通り二人での夕食を終えた優人は一つの悩みを抱えていた。
特別深刻というほどではないのだが、さりとて無視をするわけにもいかない心の引っかかり。食休みを終えた後の食器洗いに黙々と勤しむ優人は、その原因である雛の方をちらりと盗み見る。
(……やっぱり何か気になる)
クッションに腰を下ろしてスマホを眺めている雛の様子は一見すると普通だ。しかし漂う雰囲気には微妙な違和感があり、優人に対してそこはかとなく物言いたげな視線を投げかけてくることが
不満というよりは何か相談したいことがあるような、そんな素振りだ。
優人が雛の異変に気付いたのは一昨日からだが、二日経った現在も状況はあまり変わらない。
なかなか言い出せないのは相応の理由があってのことだと思う。だから優人はあえて触れず雛が動くのを待っていたのだが、この調子だとこちらから踏み込んだ方がいいかもしれない。
せっかくの誕生日、雛には何の憂いもなく迎えて欲しいから。
そう決めて洗い終えた食器を水切りラックに並べ、平行して用意したホットミルクを白猫と黒猫のペアマグカップに注ぐ。
ほわほわと湯気を上らせるそれらを持ち、雛のすぐ左隣へ。「ありがとうございます」としっかりお礼を忘れない雛に笑みを返しつつ、彼女がホットミルクに口を付けるのを見守る。
優しい味を心がけた一杯で雛が満足そうに口元を緩めたのを見届けると、優人は次の行動に移った。
「雛」
「はい?」
「こっち」
振り向く雛に短く告げると、華奢な右肩に手を回して彼女をそっと抱き寄せる。「ひゃっ」と小さな可愛らしい悲鳴を上げた雛はあっけなく優人の半身へともたれかかる形になり、戸惑いの色を帯びた金糸雀色の瞳が優人を見上げた。
至近距離で絡まる視線に炙られたように、白磁の肌をほのかな赤みが彩る。
「あ、あの、優人さん……?」
「いいから」
恥ずかしそうな雛に構わず、艶やかな群青の髪を手櫛で
「……んう」
効果は
最初は戸惑っていた雛もほどなくうっとりとした様子で瞳で細め、心地良さげな声音で喉を鳴らす。衣服を通しても柔らかい身体からは力が抜け落ちていき、全幅の信頼を身を以て表現するように預けられる。
すっかり骨抜きになってしまった様子の雛だが、それでも甘やかしの手を緩めることはせず、優人はしばらく雛の頭を撫でることに尽力した。
「何かあったか?」
「……え?」
「最近、ちょっと悩んでる感じなのが気になってな」
頃合いを見計らって話を切り出すと、雛が目を丸くさせる。
「いつから気付いてたんですか?」
「二、三日前からかな」
「あはは……ならほぼ最初からですね」
照れくさそうに笑った雛が頬を掻く。どうやら異変自体にはすぐに気付いてあげられたらしい。
「言い出しにくそうだったからしばらくそっとしとこうかと思ったんだけど……何か相談したいことがあるなら、遠慮なく言ってくれていいんだぞ?」
「そこまで見抜かれちゃってますか。優人さんには
嬉しそうでありながら申し訳なさも
「いいのか?」
ちらっと見えた感じだと誰かからのメールのようだ。雛のプライベートに関することなので念の為の確認を挟むと、こくりと首肯が返ってきた。
雛からスマホを受け取り、頭からメールの内容に目を通す。差出人は――
(……
雛に届いた一通のメールは、彼女の義理の父である空森明からのものだった。
要約すると、雛の誕生日に祝いの席を用意しようと考えているとのこと。もし雛が応じてくれるのならば、今までの謝罪とこれからのことについて話ができないかという内容だった。
(そっか……雛と向き合うことにしてくれたんだな)
優人が明と会話したのは五月の頭だったか。あの時は一度妻と相談してみるということで場はお開きになったが、その心構えができたということらしい。
雛の誕生日祝いという形にしたのは何かしらのきっかけを求めた結果だろう。
メールに込められた相手の意図を一通り噛み砕いた優人は、スマホを返して雛を窺う。
「名字が空森ってことは、この人は雛の義理の父親ってことでいいのか?」
とうに分かっていながらそう質問したのは、優人と明の話し合いは雛に秘密裏で行われたものだったからだ。
雛の中だと、優人と明は顔も名前も知らない赤の他人同士という認識のはず。だからその認識とズレのないよう気を付けながら優人は話を進める。
「はい、それで合ってます」
幸い雛に悟られることはなく、優人から受け取ったスマホを両手に収めた彼女は表示されたままのメール画面に視線を落とす。
細い指が『誕生日』と記された部分を静かになぞった。
「……あの家にいた頃は、誕生日なんてちゃんと祝ってもらったことはありませんでした。把握こそしてくれてましたけど、自由にできるお金をその分多く渡されて、あとは自分で好きなものを買えばいいみたいな感じで。やっぱり、仕事の方が大事だったんでしょうね」
優人の腕の中から、
華奢な存在を抱き寄せる手につい力が入ってしまうと、くすぐったそうに肩を揺らした雛は「大丈夫ですよ」と穏やかな微笑みを見せてくれた。
「そういうわけでしたから、こんなお誘いが来て戸惑ってるっていうのが正直な感想です。……私と話したいなんて、そんな風に思ってくれてたんですね」
今まで仕事ばかりを優先していた空森夫妻が、今度は雛のために時間を取ろうとしている。そのことが、彼らなりに今後の関係を真剣に考えているであろうことを伝えてくる。
それ故か雛の声音からも、嫌悪や不信感といったものは感じない。
「雛はどう思ってるんだ、義理の両親のこと」
「正直、あまり良い印象があるとは言えません。……でも、あの人たちなりに大変なことや辛いことはあったと思いますし、理由はどうあれ私を引き取って、今もこうして一人暮らしさせてもらえることには感謝してます」
自分自身の気持ちを紐解くように雛がゆっくり言葉を紡ぐ。
つまり相手が謝りたいと思っているのなら、それには応じたいということなのだろう。
「それなら雛はどうする……って言っても俺に相談したかったってことは、誘いを受けようか悩む気持ちがあるってことなんだよな?」
「……怒りますよね? 当日は優人さんがケーキまで作ってお祝いしてくれるっていうのに、それを
「こらこらちょっと待て雛」
顔を俯かせてしまう雛の言葉を遮り、優人は彼女の頬を指で摘んだ。白くなめらかな肌触りの頬はむにっと形を変え、雛の口の端を可笑しく歪める。
「……やっぱり、怒ってます?」
「怒ってるっちゃ怒ってるけど、これは俺がその程度でへそを曲げる男だと思われてることから来るもんだな」
「そ、そういうわけでは」
「分かってるよ、冗談だ」
雛にとってはどうしたって申し訳なさが募るのだろう。優人の軽口を真に受けてしまいそうな彼女に笑いかけ、摘んだ頬に今度は手の平を当てて優しく撫でる。
「別に蔑ろにされたなんて思わないさ。事情が事情だろうし、そんな風に相手のことを考えてやれるのは雛の良さだと思うしな」
雛は優しい。たとえ自分のことを苦しめた相手だったとしても、それを
もしかしたらただ甘いだけかもしれないけれど、そんな甘さだってきっと雛の美点の一つだ。
「改めて訊くけど雛はどうしたい? もし誘いを受けたいって言うなら、俺はそれでもいいと思うぞ」
「優人さんは……いいんですか? せっかく当日は色々と準備してくれてるのに」
「俺は雛の意志を尊重したい。予定が一日二日ズレるぐらい構わないし、来年だって再来年だって、その先でだってずっと俺は雛の誕生日を祝う。ずっと雛のそばにいるから心配するな」
「優人さん……」
雛の目の中にじわりと光るものが滲む。それを瞼のカーテンで覆い隠し、やがて雛はいつもの愛らしい笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。おかげで踏ん切りがつきました」
「ん。じゃあ」
「はい、今回のお誘いはお断りします」
「分かった。ケーキは次の日にでも回して――……え?」
はて、予想と違う答えが返ってきたような……?
聞き間違いかと思ってつい雛の顔を凝視してしまう中、雛は変わらず柔らかな表情で優人を見つめ返す。
「え、お断りってことは……つまり、その」
「もちろん優人さんとの約束を優先するという意味です」
「えーっと……」
「勘違いしないでくださいね? あの人たちに会いたくないわけではなく、単純にまたの機会にしてもらうということです」
「……それでいいのか? さっきも言ったけど、俺はずっと雛と」
すっと伸びてきた人差し指が優人の口に蓋をした。まるで糸で縫い合わせるように唇をくすぐられ、優人が何も言えず押し黙ってしまうと、雛はふわりと淑やかに笑う。
「確かに優人さんの言う通り、二人で過ごす時間はこれからもたくさん取れると思います。それでも私はやっぱり……こんなにも私のことを大事に想ってくれる、そんなあなたとの時間を何よりも大切にしたくなったんです」
「……雛」
「優人さん――んっ」
雛に唇を奪われ、丁寧に重ねられる。
言葉だけでは足りない愛情を伝えるかのように、ゆっくり、ゆっくりと、お互いの熱を溶かして混ぜ合わせるような口付け。
与えられる瑞々しさと柔らかさを兼ね備えた感触に浸っていると、少しして甘い残滓を残しながら雛の唇が離れた。
ほうとこぼれた熱っぽい吐息に当てられ、優人の顔も熱を持つ。
「大好きです、優人さん。――バースデーケーキ、楽しみにしてますね?」
「任せろ」
力強く頷き、今度は優人の方から唇を重ねる。
雛と共有しているこの甘さに負けないような、とびきり素敵なケーキを作ってみせようと思いながら。
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