第121話『会えない時間に募る想い』

「――よし、ではここで問題だ。この空欄に入る単語を……天見、答えてみろ」

「…………」

「天見?」

「おーい、指されてるぞー」

「え?」


 隣の席のクラスメイトから机を軽く叩かれ、校庭を眺めるばかりで授業をろくに聞いてなかったようやく優人は顔を向ける。

 教壇に立つ英語の男性教師と目が合うと、彼は呆れた様子で黒板に書かれた()マークを指で叩いた。


「ここに入る単語を答えろ。ちゃんと授業を聞いてれば分かる問題だぞ?」

「えっと……分かりません」

「お前な、分かりやすく出席番号順に当ててやってるんだから、自分に回ってきそうな時ぐらいは身構えておけ」

「……すいません」

「次から気を付けるように。井口、代わりに答えろ」


 後に指された女子が難なく正解を述べる中、自分の額に手をやった優人は人知れずため息をついた。

 指摘された時点で言うまでもないことだが、今の優人はまるで授業に集中できてない。一限目から片鱗を見せ始めたこの状態は昼休みを挟んだ五限目においても継続中であり、それどころか余計に症状が重くなっている節さえある。


 別に体調が優れないわけではない。何が原因かは、自分でもよく分かっていた。


(雛には仕方ないだろなんて言ったのにな……)


 思い返すのは明け方の一幕。

 寂しがる雛を宥めて修学旅行へ送り出したというのに、時間が経てば当の本人がこの有様。


 最近のこの時間は雛のクラスが外で体育をしていて、運動に励む彼女の姿を授業を聞きつつも目で追いかけることが度々たびたびあった。

 二年生全体が修学旅行中の今は当然その姿があるわけもなく、だからこそ余計に感じてしまう日常の物足りなさが、優人の集中を削っているわけだ。


 その自己認識が正しくできたところで集中力はなかなか回復せず、せめて板書された英単語の羅列だけはノートに書き写しながら、優人はぐっと奥歯を噛み締める。


 雛と長く会えないわけじゃない。明後日の夕方には帰ってくる。分かっているのにふとした瞬間に寂しさを覚えてしまうのは、それだけ雛のことが好きな証拠だろうか。

 そう言えば聞こえはいいものの、少し角度を変えれば色恋にうつつを抜かしてるだけとも言えてしまうので、どうにか気を持ち直して黒板とノートの間で視線を往復させる。


 そして授業終了後、先ほどの醜態をからかいにきた一騎にノートの写し間違いを指摘された時は、もはや教室の天井を仰ぐしかない優人だった。







 今日の授業を終えて帰宅し、しばらく時間を潰してから空腹を感じたタイミングで夕食を摂る。一人きりの食事がどうにも味気なく思えるのは、今夜の夕食が出来合いの弁当だからというわけでもないだろう。


 自炊する気にもなれなくて帰りがけにスーパーで購入したからあげ弁当はこれまでにも何度か食べて気に入った品物だし、何だったら雛の手料理に比べて味付けは濃いはずだ。


 なのに、二口三口と食べてもやはり味気なさが拭えない。

 無論、決してマズいわけではないのでつつがなく食べ切れたわけだが、腹は膨れど満足感はいまいちだった。


 舌が肥えた、というよりはすっかり雛に胃袋を掴まれたと言うべきだろう。

 いつも美味しい食卓を用意してくれていた雛へ、改めて感謝の念を抱きつつ、気分をさっぱりさせようと早めの入浴を済ませる。


 風呂上がりの髪を乾かしてからリビングに戻ってベッドに倒れ込むと、優人は仰向けの体勢のままスマホを手に取ってメッセージアプリを起動させた。


 トーク一覧の一番上にあるのは空森雛の三文字。

 タップすると雛とのトーク画面が開き、そこには雛からのメッセージや写真が連続で表示されていた。

 飛行機の外観や北海道の空、牧場で牛と戯れながらのツーショット写真などなど、今日の旅程で巡った場所をその都度写真にして送ってくれたらしい。


 こちらが休み時間のタイミングを狙って送ってくれたのは雛の気遣いだろう。そうでなければ優人は授業中でもスマホを取り出し、下手すればそれがバレて教師に怒られていたかもしれない。


 明け方にはどうなることかと思ったが、写真の中の雛が屈託のない笑顔を浮かべて修学旅行を楽しんでいることに安堵し、画面を一度上にスクロールさせてからトークの履歴を読み返していく。


 優人からの返信を時折挟みながらのトークは、夕方から夜にかけての時間帯で一旦止んでいた。

 恐らく旅館に到着し、そこからは食事や入浴などに移っているはず。となれば、ぼちぼち就寝前の自由時間になった頃合いだ。


 そこまで考えたところで、優人の親指がトーク画面右上の通話アイコンに伸び、直前で止まる。


 ……今ここでアイコンをタップしたら、雛は出てくれるだろうか。

 たぶん出てくれるだろうし、そのまま優人との電話に応えてくれるとも思う。

 けれどせっかくの修学旅行中。旅先でしか作れない思い出はきっとあるし、友人同士で積もる話もあると思う。


 ここで優人が電話をかけるのはその雰囲気に水を差す行為になりかねない。そう思うと通話アイコンをタップするのに躊躇してしまい、かといってスマホを手放す気にもなれないどっちつかずの状態に陥る。


 画面に触れそうな瀬戸際まで指を近付け、すんでのところで離すという謎のチキンレースめいた行為を繰り返すこと約二分。生産性など微塵もないその行為を終わらせたのは、まさに今この瞬間に舞い込んできた雛からの通話を告げる画面表示だった。


「うおっ」


 予想だにしていなかっただけに変な声を上げてしまい、着信音にビクついた親指が偶発的に応答を表す緑の丸をタップする。

 繋げてしまった以上は切るわけにもいかず慌ててスマホを耳に当てると、電話越しからはどことなく固唾を呑むような沈黙が漂ってくるように感じた。


『……も、もしもし』

「もしもし、雛?」

『あ、優人さん……こ、こんばんは』

「……こんばんは」


 恋人相手に何を畏まった挨拶をしてるのかと、優人の中にある冷静さがツッコミを入れた。


『えっと……今、大丈夫ですか? 今さらですけど、断りもなく電話しちゃって……』

「大丈夫だ。ちょうど……まあ、暇してたし。そっちは自由時間か?」

『はい。ついさっき入浴を終えたので、後は部屋でゆっくりしようかと』

「……そっか、一日目お疲れさん」


 話だと旅館は毎年同じ場所を利用してるらしく、去年優人も泊まったそこはなかなかに風情のある温泉と館内着としての浴衣が用意されていたはずだ。

 浴衣を着込んだ湯上がりの雛を思わず想像してしまい、優人はくすぶる口惜しさを手近な枕にぶつけながら労いの言葉を口にした。


 きっと、いや間違いなく綺麗だろう。できることなら一目でも見てみたかった。


「それで、電話してきたってことは何かあったのか?」

『い、いえ、特に何がってことはないんですけど……ちょっと優人さんの声を聞きたくなっちゃって……』

「――――」


 呆気に取られ、思わずスマホを取り落としそうになったのは、恥じらいと申し訳なさ混じりに囁かれた言葉があまりにもいじらしい願いを紡いだからだった。

 優人の口元には堪えきれない面映ゆさが笑みとなって浮かび、雛の声に骨抜きされたようにベッドへ身を沈める。


『ごめんなさい。朝だってわがままを言ってしまったのに、またこんなことを……』

「そんなことないさ。……ありがとな、雛」

『え、何でお礼を言われたんですか私』

「俺も雛と同じだよ。なんとなく雛の声が聞きたくなってさ、さっきまで電話してみようかどうかってスマホとにらめっこしてた。けど、修学旅行に水を差すのも悪いかと思うと踏ん切りがつかなくてな。だから、こうして雛の方から電話してきてくれて嬉しいよ」

『……そうだったんですか。どうりですぐに電話に出たわけです』


 ほぼワンコールでしたよ、と可愛らしい微笑みが目に浮かびそうな声音に優人も軽く笑う。


『いいですね、こういうの』

「こういうのって?」

『ほら、離れていても心は通じ合ってるって感じで、すごく恋人らしいと思えませんか?』

「……またそういう恥ずかしいことを」

『ふふ、今なら顔は見られませんもの』


 つまり優人に見られたら恥ずかしい程度には赤くなっているということだろうけど、同じように顔が熱を持っている優人としては指摘するわけにもいかなかった。


 照れ隠しのような言葉で返したものの、雛と気持ちが通じ合っているという事実は素直に嬉しく、こみ上げる面映ゆさで口元を緩めつつ優人はふと思い浮かんだことを言葉に乗せる。


「あのさ雛、夏休み入ったら泊まりでどこかに行ってみないか?」

『……旅行ってことですか?』

「ああ。修学旅行を一緒には無理でもそれならいけるだろ? 特にどこかアテがあるわけでもないし、一泊ぐらいとかにはなるかもだけど、その、雛が良ければ――」

『はい、行きたいです。二人で行きましょう』


 少ししどもろもどろになった優人を優しく受け止めてくれるような、ノータイムの雛の快諾。心にすっと沁み入る声音が心地良い。


『約束ですよ? 絶対なんですからね?』

「自分から提案しといて破らないって。約束だ」


 無意識に何もない空間へと向けた指切り。けれど、どこかしっかりと結ばれたような錯覚に自然と口角が上げていると、電話の向こう側で雛を呼ぶ声が微かに聞こえる。


「友達か?」

『あ、はい。そろそろ部屋に戻らないかって』

「ん。そっちもそっちでちゃんと楽しんでこい。電話、本当にありがとな」

『こちらこそですよ。それじゃあ、おやすみなさい優人さん』

「おやすみ雛」


 雛との通話を終える。

 やっぱり口惜しさは少し残るけれど、ほんの数分の通話でも随分と満たされた気がした。

 目を閉じて確かな満足感に浸っていれば、スマホから新たなメッセージを告げる電子音が二回続けて鳴った。


『こっちは月が綺麗ですよ』


 そんな一言と共に添えられていたのは、澄み切った夜空に浮かぶ月を背景バックにした雛の自撮り写真。

 月の方に比重を置いているため雛の写りは控えめだが、小さなピースサインと湯上がりでほんのりと色づいた笑顔がとても可愛らしくて目を引く。


 ついでに言えば念願の浴衣姿も見れたのだから、しばし画面の中の彼女を見つめてしまうのは致し方ないことだろう。

 月の美しさを見せてきた雛には悪いけれど、優人は自分の正直な気持ちをメッセージにして送った。


 ――雛の方が綺麗だ、と。

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