第69話『頑張り屋さんが語る過去③』

 優人へゆっくりと語り続けながら、雛は脳裏に蘇る自らの過去を思い返す。


 優人に言った通り、空森の家に引き取られたこと自体は決して悪いことでもなかった。

 裕福なだけあって生活水準は間違いなく上がったし、養護施設と違って自分だけの部屋だって与えてもらえた。綺麗でお洒落な一軒家、その中の一室がいわば自分の城になったのだから、今にしてもらえば我ながら現金だなと思うぐらいに興奮した記憶が雛にはある。


 引き取られてすぐの頃は、それなりに家族らしくあろうと三人で食卓を囲んだ覚えもある。でも結局彼らにとっては自分たちの仕事の方が優先順位は高いらしく、次第にその頻度は減っていき、定期の宅配サービスで届く食事を雛だけで食べることが代わりに増えた。


 月に何度かは家事代行として訪れた家政婦さんが作って、一緒に食べてくれる時もあったけど、基本的にはひとりぼっちだ。

 でも、それは仕方のないことだと雛は割り切っていた。


 雛よりも小さい子がいた養護施設暮らしのおかげで同年代よりも自立心は育っていたし、自分が養子に選ばれた理由もある拍子に気付かされた。

 その理由がどうであれ、問題なく日々を暮らせるように養ってもらえている以上は不満なんてない。


 だから、寂しくもない。


 ――嘘、やっぱり寂しかった。


 歪とはいえ、心の底でずっと憧れていた家族の一員になってしまったからだろう。中途半端に叶ってしまうとその先も求めてしまうものだ。

 何もいつもとまでは望まない。たまに一緒にお話したり、遊んだり、出かけたり、家族らしい団欒だんらんができたらな、と。


 どうしたら自分に振り向いてもらえるのか。それを真剣に考え始めた頃、たまたま家で電話をしている義理の父の声を聞いた。

 仕事で大きな山場を越えたらしく、珍しく笑顔を浮かべて話す彼。電話の相手は部下だったのか、「よくやった」と労いの言葉を口にしていた。


 雛は悟った。仕事人間な二人に振り向いてもらうには、それに見合うだけの成果を出せばいいのだと。


 中学に上がったのも良い転機だった。今まではお世辞にも得意と言えなかった勉強に熱心に取り組み、料理を始めとする家事も家政婦さんに教えを乞うて手を伸ばした。

 もっとも家政婦さんが来る日は限られていたから、雛の師匠せんせいはもっぱら料理の本や動画だ。


 ――優人が度々たびたび「丁寧だ」と褒めてくれた雛の手際は、何てことはない、教科書通りそういうふうにしか覚えられなかった故の産物だ。


 幸いにも雛の努力は正しい方向を向いていたのか、着々と成果は出始めた。

 初めて学校のテストで取った満点の答案は、まるでお姫様がつけるティアラみたいに輝いて見えた。


 そして答案を貰ったその日、舞台が用意されたかのように二人が在宅しているというのだから、見せるにはまたとないチャンス。

 学校が終わって走って帰ると、家の前に一台の車が停まっていた。義理の両親たちによく嫌みを言っている親戚の車だ。


 何度か来ていたこともあるから見覚えがあり、自分が養子にされた本当の理由を雛が気付くきっかけになったのも、そのおしゃべりな親戚のせいである。子供心に嫌な人だと思っていた。


 また何か小言でも言いに来たのか、と予想してこっそり家に入ってみれば、案の定のだ。

 雛を引き取る前は「子無し」という文句が、今度は「仕事ばかりで、きっとロクな子供に育てられない」に変わっていた。どうやらその親戚の方が立場は上らしく、義理の両親は二人揃って言い返すこともなく話を聞くだけ。


 正直、親戚の指摘自体はそう間違っていなかったけれど、何だか雛までダメな子みたいに言われてるようで腹が立った。

 だから、たった今帰ってきたように素知らぬ顔でその場に乱入し、雛は満点の答案も見せつけた。


 ……それが、どういう結果を引き起こすことになるかも知らずに。









「それからあの人たちは、私にもっと上を要求するようになりました」

「……どうして」


 なおも続く雛の過去を聞きながら、語られた内容に優人は眉を顰めた。

 だって話を聞くかぎり、義理の両親たちは雛自体にはあまり関心がなかったはずだ。成果を出しても取り合ってもらえなかったならまだしも、さらに上をというのは意図を計りかねる。


 そんな疑問に、雛は「簡単ですよ」と人差し指を立てた。


「私が良い子になればなるほど、あの人たちの鼻が高くなる。そういうお話です」

「……は?」

「それまで散々肩身の狭かったあの人たちにとって、私が成果を出すのはちょうどいい仕返しになったんですよ。どうだ、私たちの家で暮らしてる子がこんな優秀に育っているぞって」


 事も無げに雛が告げる言葉に、背筋がぞっとするような寒気を感じた。

 それは、あまりにも酷な話ではないか。振り向いてもらうためにした雛の努力が正しく報われないどころか、意趣返しのための道具のようにしか思われないなんて。


「そうして、あの人たちからの期待に応え続ける日々が始まりました。勉強然り、普段の生活然り、とにかく人に自慢できるような子であれと。学校の成績が学年トップになっても、家政婦さんが必要ないぐらい家事をこなせるようになっても、それは変わりません。なまじ出来てしまったがために、今度はそれを維持することが義務づけられるになっただけでした」


 努力しても褒められず、当たり前のようにしか思われない。想像しただけでいたたまれなくなるその日々を、雛は淡々と語り続ける。


「高校に上がっても同じままです。あの人たちが直接何かを教えてくれることはありませんでしたけど、代わりに必要なものには大概お金を出してくれました。その点に関しては、他の人より恵まれてるでしょうか」


 違う。そんなのを恵まれてるなんて言っちゃいけない。

 いっそ英才教育でも施すならともかく、自分たちの要求に応えるための手段ですら雛に放り投げているだけだ。


「……やめたいとか、思ったことは」

「そりゃ何度もありましたよ。でも養われている身である以上、反発してあの人たちの機嫌を損ねるわけにもいきませんし」


 ――そうじゃないと、また捨てられてしまうかもしれないから。


 実際に口にしたわけではないけれど、今にも消えそうな雛の横顔がそう物語っているように見えた。

 確かに雛の言う通りだ。あくまで生活基盤の実権を向こうが握っている以上、逆らっても自分の首を絞めることになるだけだろう。


 それは分かるけれど、手にしたコーヒーの缶を握り締める力を、優人は緩めることができなかった。

 どうしてそうも割り切れてしまうのかと、雛に対しての憤りすら抱いてしまう。


 優人の手の中で少し凹むスチール缶を見て、雛はくすりと自嘲気味に笑った。


「ごめんなさい。悟った風なことを言っておいて、結局私も優人さんと同じです。……ある日、とうとう爆発しちゃいました」

「……え?」

「二学期の中間テストです。順位こそ一位でしたけど少し点数を落としてしまって、気が緩んでるんじゃないかって言われて……それでとうとう我慢の限界ですよ。私だって頑張ってる、ロクに褒めもしないのに文句だけは言ってくるなんていい加減にしてって。その後適当に荷物をまとめたら家を飛び出して――……そこから先は、優人さんも知ってますよね?」

「……そうだな」


 それが、家出したという雛を優人の住むアパートへ連れて行ったあの日というわけか。


「私の人生史上、初めての反抗期でしたからね。今まで大人しく従っていた分、あの人たちも結構面を喰らったみたいです。それなりに思うところもあったみたいなので、一人暮らしも割とあっさり認めてもらえました。まあ、家族や親戚からの小言もすっかり鳴りを潜めていたみたいなので、色々とちょうど良いタイミングだっただけでしょうけど」


 そう言い切ると、雛は話を締め括るように長く、重苦しい息を吐いた。

 これだけの過去だ。思い出すだけでも辛いだろうに、それを言葉に乗せさせてしまったことが今さらに申し訳なくなる。


「辛かったな」


 少しでも雛の慰めにと思って探した言葉は結局それしか出てこない。

 慰めどころかただの事実確認でしかない言葉に、けれど雛は「そう言ってもらえると少しは救われます」とお礼を返してくれた。


「そして私の成績が下がった理由ですけど、たぶん目的が無くなったからだと思います」

「目的?」

「ええ。空森の家にいた頃は、あの人たちの期待に応えなければならないという目的がありました。でも今はその必要もなくなって……あの人たちが言った通り、気が緩んでしまったんだと思います。覚えたはずの英単語も、理解したはずの公式も、テスト本番にはど忘れみたいに頭の中から消えちゃいました」


 あははと渇いた笑みを浮かべて雛が頬を掻いた。

 目的の欠如。つまり今の雛は、勉強に対する原動力を失った状態に近いのだと思う。


「……なら、もう成績とかに拘らなくていいんじゃないのか?」

「…………」

「先生からは色々言われるかもしれないけどさ、別に学校の成績が人生の全部ってわけでもないだろ? 義理の両親だって、一人暮らしさせてくれるってことは好きにしていいってことなんだろうし、もっと他に、自分のやりたいこととかそういう――」

「それが無いんですよ」


 遮って呟かれた言葉が帯びていたのは、どこまでも空虚な響き。

 その一言で口を閉ざしてしまった優人が呆けたように雛を見ると、彼女は今にも崩れて泣き出してしまいそうな、そんな儚い笑みで自分を保っていた。


「無いんです。やりたいこととか、叶えたい夢とか、そういうのが。だから今までと同じことを続けて……でも惰性で続けたところで、こうしてどんどんほころびが出てくる。限界が来てるんですね、きっと」

「ひ、な……」


 瞬間、優人は理解した。

 空森雛という少女のことを、残酷なまでに理解してしまった。


 彼女はいわば――籠の中の鳥だった・・・んだ。

 自分の面倒を見てくれる相手へ、愛想を振りまくことだけしか許されなかった愛玩動物。

 そんな彼女が今、いざ籠の中から出られたところで、一体どうすればいい?


 飛び方なんて知らない。どこへ飛んでいけばいいかも分からない。

 そんな小さい、生まれたばかりの雛鳥のような彼女が、何を目指して生きていけばいいというのだ。


「優人さん、私は、どうしたらいいんでしょうね?」


 縋るような弱々しい声が、優人の胸の奥深くに突き刺さる。

 だけど今の優人には、それ以上かける言葉も、彼女を道を照らすための手立ても、何一つ持ち合わせていなかった。

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