第62話『やらかした』

 バレンタインの甘い雰囲気はまた来年まで鳴りを潜め、取って代わるように台頭するのはテスト前のどこか張り詰めた空気。優人の通う高校が比較的学業に対して真面目な傾向が強く、かつ場所が自習で利用される図書室だから特にそう思ってしまうのだろう。


 放課後、テスト前の勉強にと図書室を訪れた優人は、シャーペンを走らせる音やページをめくる音を聞きながら、ぐるりと室内を見回す。

 授業が終わってすぐに来たのもあって、テーブルの空きはまだ多くある。どうせなら日当たりが良い場所でもと思って窓に近い一番端の近い席を選んで座り、鞄からノートや文房具、さらに途中で本棚から抜き取った数学の問題集を広げ、試験勉強の態勢を整える。


 そうしてテスト範囲と同様の問題を黙々と解いて時間を過ごせば、気付いた頃にはテーブルの空きも半分を下回っていた。テスト前ともなれば普段よりも勉強に励む生徒が多いのだろう。

 かくいう自分もその一人である優人は軽く肩を回して凝りをほぐし、ついでに首を回してリフレッシュを図る。


 その最中、たった今図書室にやって来て空いている席を探す女生徒。リボンの色的に一つ下の後輩である彼女とたまたま目が合うと、ビクリと一瞬だけだが肩を震わせ、そさくさと優人からなるべく離れた座席の方へと歩いていった。


「…………」


 自分の目つきの鋭さは重々承知しているが、ああも分かりやすいぐらいの反応をされると、さすがにちょっと虚しい。

 相手がぱっと見だと大人しそうな子で、なおかつ問題集に苦戦した結果でそうなった優人の仏頂面も原因だとは思うのだが、やはり優人の目つきは他人から敬遠されやすい作りをしているらしい。


 いっそ伊達眼鏡でもかければマシになるか、なんて少し真面目に考えながら、首に続いて目頭を指で揉む。するとそんな優人の対面の席で、誰かがすっと椅子を引く気配があった。


「お疲れですか?」


 図書室だから少し声量を落とした、だからこそそっと耳を撫でるようなその声音。

 手を下ろして目を向けた先には、優人を見下ろしてほんの微かに口元を弛ませる雛の姿があった。


「これと格闘してた。中々の強敵だ」


 問題集を人差し指でトントンと叩く。


「勝率のほどは?」

「約五割。なあなあで覚えてた公式が敗因だな」

「なら幸先はいいですね。原因さえ分かっていれば、あとはそれを潰すだけなんですから」

「なるほど。さすが学年主席、言うことに説得力がある」

「元、ですけどね」


 椅子に座り、自分の鞄から教材を取り出しながら苦笑する雛。その笑みにはきっと優人でしか分からないような、ほんのりとした親しみを含んでいるように見える。


 雛が見知らぬ異性の先輩と話している――その光景に周囲が眉を寄せたように感じたけれど、すぐに納得して落ち着いたようにも思えた。


『え、誰あの人、空森さんの知り合い?』

『ほら、あれだよ。例のマラソン大会の』

『ああ、あの人が。……本当に目つきが、何と言うか……』


 この間、学校で雛とすれ違いざまに挨拶した時、小耳に挟んだ会話がこんな内容だった。目つきが鋭いという特徴が今回ばかりは本人照合に役立ってくれるらしく、こうして雛と軽く言葉を交わすぐらいなら不思議に思われることもない。


 というか、こうして少し話すだけでも興味を向けられる辺り、雛の人気の高さが改めて窺えるというものだ。

 場違いめいた居心地の悪さに姿勢を正し、けれど雛本人には何ら非がないことだから悟られないように気を付けつつ、リフレッシュを終えた優人は今一度問題集に向かい直す。


 すでに自分の勉強を始めて集中状態に入った雛を見習い、優人も目の前の数式の群に挑む。

 優人の集中は不思議と、さっきよりも深く沈んでいけるように感じた。









 勉強を再開して、小一時間は過ぎただろうか。集中できただけに時間の感覚が曖昧で、図書室の窓から覗く空に混じり始めた暗い色が時間の経過を示していた。

 解いた問題の結果が解答と相違ないことに満足げな息を吐き、優人は向かいの席の雛の様子をそっと盗み見る。


 本当に、何というかすごい。それは勉強に対する根本的な集中力もそうなのだが。


「――という和訳になるので、この場面だとこの単語が正解というわけなんですよ」

「あっ、そうかー。やっぱり空森さんの教え方は分かりやすいなあ。ごめんね邪魔しちゃって、ありがと!」

「いえ、また何かあったら聞いてください」


 さっきからこんな調子だ。

 同じ一年生が「分からないところがある」と雛に声をかけ、それに快く雛が応えて教えると、最後は笑顔でお礼を言って去っていく。

 声をかける人が様々なら、教科も色々。それでも雛は特につっかかることもなく説明を始め、そんな流れが何度も目の前で繰り広げられる度に、優人は内心で舌を巻いていた。


 横で聞いているだけでも雛の解説は分かりやすく、言葉も聞き取りやすい。何よりただ答えを教えるのではなく、しっかり相手が理解できるように適宜質問を交えているのが好印象だ。

 確かにこれなら、下手に教科書や参考者と睨めっこするよりも雛に教えを乞いたくなる。優人だって学年が違わなければたぶん訊いていた。


 ――だからまあ、質問すること自体はいいと思うのだけど。


「最後にこの値を代入して計算すると、正解が出せるというわけです」

「なるほどなるほど。じゃあさ、次こっち、この問題頼むよ」

「えっと、これはですね……」


 ……さすがに限度というものがあるのではないか。


 約二十分前から雛の隣に座ったこの一年生男子は、一つの問題が片付く度にまた別の問題の解説を雛に求めている。まるで、少しでも人気の美少女の隣をキープするかのように。


 解説を求めたのは今までの他の生徒だって同じだが、それでもよくて二つ。少なくとも雛の勉強の邪魔にならないようにという配慮は、大なり小なり感じ取れた。


 だが、こいつは違う。

 雛が引き受けてくれるのをいいことにあれもこれもとお願いし、それに対する礼すらもおざなりに進める。自分の行動が相手の手を煩わせていることを気にする素振りすら見せない身勝手な言動に、優人の胸に少しずつ苛立ちが募っていく。


 それでも、それでもまだ、試験勉強ということなら口を挟むのもどうかと思ったが……注意深く観察してみれば、男子の目線がどこかおかしいのに優人は気付いた。

 彼の視線は、雛が解説しながらシャーペンを走らせるノートや教科書に向いているように見えてその実、雛の横顔ばかりをちらちらと盗み見ている。


 こっそり値踏みするような、舐め回すような、そんな視線。


 その癖、解説の途中で投げかけられる雛からの問いには一応答えられているのだから、そもそも教えてもらう必要があるほど問題を理解してないとも思えない。

 つまりこの男子は、試験勉強という建前で雛に近付ているだけだ。


 いよいよ男子の視線が雛の胸元に伸びようとした瞬間、優人の我慢は限界を越えた。


「おい」


 自分でも驚くほど低い声。男子どころか、優人と親交の深い雛ですらびくりと首を竦めてしまう中、辛うじて男子はへらりと軽薄な笑みで取り繕う。


「な、何すか?」

「何すか、じゃないだろ。勉強に励むのはいいが、何でもかんでも訊いてばかりじゃ空森も困るだろ。少しは自分で考えてみたらどうだ?」


 一度咳払いを挟んで続ける言葉。やや声を高く和らげようと軌道修正したくせに、口を動かすほど、優人の腹の底に巣食った感情に従うように声が低くなっていく。


 優人が並べ立てた理由だって、結局は取って付けたものだ。

 本音はもっと単純で、雛の善意に付け込むその姑息さが、雛の尊厳を軽んじるその無遠慮な視線が――無性に気に入らない。

 我ながら何様だとは思うけど、どうしたって腹の虫がおさまりそうになかった。


「……別にいいじゃないっすか。テスト前なんだし、頭の良い人に訊いた方が効率的ってもんでしょ」

「ちゃんと説明を聞いてるんならまだいいけどな、俺にはだいぶ集中力が切れてるように見えたぞ? よそ見・・・も多かったみたいだし」


 お前の視線に気付いてるから――言外に含ませたその意味を、どうやら男子は正しく受け取ってくれたらしい。わずかに目を見開くと、優人の目力に気圧されたように視線を泳がせる。その程度には相手の意図や感情を読み取れるなら、現国辺りは赤点を取ることもないだろう。


「――チッ」


 舌打ちをこぼし、乱雑に自分の荷物をかき集めた男子はその場を去っていく。

 その背を最後まで睨み続けた優人は瞑目し、自分の中の気持ちを最低限切り替えてから目を開いた。

 何が何だが、そんな風に困惑した様子の雛が優人を見やる。


「あの、先輩……どうしたんですか?」

「……別に。ただ――」


 適当にはぐらかそうとした矢先、はたと気付く。優人に集まる周囲の注目。呆気に取られたような視線の数々。

 その中の一人である少し離れたところにいた眼鏡の女子は、どうやら雛の手が空いたら質問しようと様子を窺っていたらしく、そんな彼女は優人と目が合うと、気まずそうに顔を伏せて離れていく。


 ……いや、そんな、真面目に質問したい人まで、牽制するつもりはなかったんだけど。


 けれど、今となっては後の祭りだ。

 今更何か弁明するわけにもいかず、どうやら自分もこの場から立ち去った方がいいと判断した優人は、雛にだけ「悪い」と謝罪を言い残して足早に図書室を後にするのだった。

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