第60話『頑張り屋さんからのチョコレート』

 やはりと言えばいいのか、バレンタイン当日の学校はどこか浮ついた雰囲気を漂わせていた。

 優人が朝、校舎に足を踏み入れた瞬間からそれは感じられ、教室にたどり着いてもそれは同じ。自分の座席で呆然と、けれど幸福そうに表情が緩んでいるクラスメイトの男子は早くも本日の勝ち組枠に足を踏み入れたのだろう。あの様子を見るからに、下駄箱か机の中にでも本命っぽいのが入っていたのか。


 そんな彼に対して近くの男子が隠し切れない嫉妬の目線を送る中、一瞥しただけの優人は椅子に座って学生鞄の中から取り出した教材を机の中にしまっていく。何かにぶつかるような抵抗はないけれど、特にどうとも思わなかった。


 残念に思う気持ちが微塵もないとは言わないし、嫉妬に駆られるクラスメイトの気持ちも男として理解できる。けれど、朝っぱらからそんなに気を張ってどうするというのか。

 所詮バレンタインなんて、半数以上の男子にとっては何の変哲もない平凡な日でしかないだろうに。


 去年の優人なんてまさにその一人で、誰からも一個も貰うことなく一日の幕を閉じた(海外にいる母の安奈からは一日遅れの郵送で届いた)。

 今以上に女子と関わりなんてなかったから、当たり前の話ではあるのだが。


 とにもかくにも期待なんてするだけ無駄。そう割り切って粛々と今日という日をいつも通り過ごすだけだ。


『――優人さん』


 不意に頭の隅をよぎった誰か・・の声に、優人は人目もはばからず肩を落として大きなため息をついた。


 ……どうやら自分も、他の男子のことをとやかく言える立場ではないらしい。


「朝からなに辛気くさい顔してんだ?」

「別に。ちょっと寝不足なだけだ」


 優人に遅れて教室に入ってきた一騎から、怪訝そうに顔色を窺われた。

 はぐらかした優人の返答に幸いにも納得してくれた一騎は、それとなく教室内を見回して苦笑を浮かべる。


「なんつーか、早くも明暗別れ始めてる感じだよな」

「だろうよ。そう言う一騎はもちろん明るい側なんだろ?」

「まあな。こういう日は彼女がいることのありがたみをよく感じるってもんだ。もちろん、貰って当然だなんて思っちゃいけねえけどよ」


 一騎は優人の席の近くの窓枠に寄りかかると、腕を組んでしみじみと頷く。

 エリスという仲の良い恋人がいる一騎の勝利は約束されたようなものだろう。


「そんで、優人はどうなんだよ? 例の後輩から貰えたりすんじゃないのか?」

「……何でそう思うんだよ」


 からかうような一騎の問いに優人は頬杖をついて聞き返す。

 例の、という含みを帯びた言い方をしている辺り、雛のことを指していると考えていい。


「勘みたいなもんだな。あの時保健室ですれ違った程度だけど、ただお前の怪我の様子を確認しに来ただけには見えなかったからなあ。っていうかよ、もしかしてお前がクリスマスに一緒に出かけた相手って――」

「黙秘権を行使する」


 ある意味肯定しているようなものだが、それでも口を閉ざして優人は明後日の方向へ向く。

 視界の外からやれやれなんて言いたげな笑い声が聞こえてくる中、閉ざした口の代わりに鼻から長い息を吐いた。


 やめて欲しい。

 ただでさえ女々しい期待を振り払おうとしてるのに、他人からそういうこと言われると、嫌でも気持ちが蘇ってしまうのだから。









 それからすっかり時間も経ち、今はもう夜中。自宅のソファでテレビを見ながら一人くつろぐ優人は壁の時計に視線をやった。

 もうじき日付が変わる。つまり、バレンタインが終わる。


 優人が本日手に入れたいわば戦利品は、実は一つあった。

 下校時、下駄箱を開けると中に入っていた小さなチョコマドレーヌの二個セット。それは小唄からの贈り物であり、本人の名前と『今後ともよろしくっす!』という丸っこい文字のメッセージが書かれた付箋ふせんが添えてあった。


 日頃から大家族の食卓を切り盛りしている賜物か、頂戴したマドレーヌは見た目はもちろん味も美味しかった。

 部活で親しいとはいえわざわざ贈ってくれた小唄には感謝であり、母から貰った分を除けば去年の獲得数ゼロの優人にとってとてもありがたい話だ。


 そう、ありがたい話で、去年よりも恵まれているはずなのに……このぽっかりと穴が開いたような寂しさは何なのだろうか。


 一騎だって言ってたじゃないか、貰えるのが当然だなんて思ってはいけないと。

 恋人という極めて親しい男女仲でもそうなのだから、あくまで隣人で、先輩後輩という関係性でしかない雛から貰えなくても、それで雛のことを薄情だなんて思えるわけもない。


 帰宅してからそんな思考を何度も何度も繰り返しているというのに、未だに抜け落ちない期待、というよりは未練。そんな諦めの悪い自分がなおさら情けなく思えてくる。


「……もう寝るか」


 まだ眠気は大してないけれど、このまま日付変更の瞬間を迎えてしまうのがどうにも気に入らなかった。

 明日の準備を整え、歯磨きを済ませ、いざ寝ようと部屋の照明を切り替えようとした、その時だった。


 ――ピンポーン。


 突然鳴り響くドアチャイムに、優人はびくりと震わせる。

 よもやこんな夜遅くにセールスや郵便の類が来るはずもない、となれば。

 もしかしてと逸る気持ちを抑えつけながら玄関に向かい、鍵を外して扉を開く。

 果たしてそこに佇んでいたのは、優人が思い描いた通りの相手だった。


「こ、こんばんは優人さん。夜遅くに、ごめんなさい」

「お、おう、気にするな。まだ全然起きてたところだし。……で、どうした?」

「えっと、その……」


 十数秒前の自分をものの見事に棚に上げ、優人は目の前の雛をじっと見つめる。

 鮮やかな薔薇色で染まった顔色に、優人の目から何かを隠すように背中に回された両手。ちらちらと向けられる上目遣いはほんのりと不安に揺れているようで、見ているこちらの方が落ち着かなくなってくる。


 けれどなるべく急かすことのないように黙って見守っていると、やがて熱っぽいを吐息をこぼした雛は舌先で唇を湿らせ、背中に隠していたものをゆっくりと優人に差し出した。


「これ、どうぞ……」

「……これは」

「バレンタインですから……日頃の感謝を込めての、義理チョコ、です……」


 ふるふると微かに震える手が持つのは、小さな白い紙袋。

 優人がおもむろに手を伸ばせばお互いの指先が触れ合って、過剰とも言えるぐらいに雛の両肩が縮こまる。

 けれど差し出された手は、優人がちゃんと受け取るまで引き下がることはなかった。


「……ありがとな、雛」


 待ち望んでいたものが手に入ったのに、それぐらいしか言葉が出てくれない。幸福とか恥ずかしさとかがい交ぜになって優人の口に蓋をしていた。


「いえ、そんな。本当はもう少し早く渡せればよかったんですけど、色々と手間取ってしまって……」

「そっか、色々と頑張ってくれてありがとな。大事に食べさせてもらうよ」

「はい。それと、さっき義理チョコとは言ったんですけど……」

「うん?」

「――ちょっと、特別な義理ですから」

「……え?」


 ぽかんと口を開けて聞き返す。

 すると途端に顔を真っ赤に染めた雛は踵を返し、「お、おやすみなさいっ!」と慌てた様子で逃げるように自分の部屋へと帰ってしまった。


 ちょっと特別――その言葉の真意は訊けないまま、優人は紙袋の中身に視線を落とす。

 歯は磨いた後だけど、明日に回すなんて選択肢はもちろんなかった。

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