第19話『ズルい』

 幸いにも学校と自宅の中間地点であるコンビニ近くに差し掛かるまで、他の生徒を見かけることはなかった。

 ここまで来ればとりあえず一安心と判断していい。周囲の通行人へと注いでいた警戒心を消し、優人は長い息を吐く。


「ちょっとドキドキでしたね」

「確かに」


 緊張を解いているのはすぐ隣の少女も同じだ。ほう、とアンニュイな息遣いをこぼした雛の肩が下がり、早足だったお互いの歩調も緩やかになる。


 止む気配こそないが、雨足の方も最初に比べたら弱くなった。しとしとと雨が降る音を聞きながら雛と肩を並べて歩く。

 雛に合わせて普段よりもゆっくりとした歩調を意識し、ついでに傘の方も彼女側に少し傾けながら、自宅までの歩を進める。


 すっかり日も落ちた冬の夜、おまけに雨ともなれば相応に気温が低いはずのに、優人の身体は不思議とそこまでの寒さを感じない。……というよりは、その余裕がない程度には緊張していると言えばいいのか。


 傘を握った手の平に滲んだ手汗が嫌でもそのことを訴えてくる中、柄でもない精神状態に渋面を浮かべた優人は静かにため息をつく。


 降って湧いた相合い傘というシチュエーションは、優人にとって初めての経験だ。

 ほぼ同年代の女子とこうも接近するのはさすがに落ち着かないし、それが雛のような見目麗しい相手とくれば余計にそうもなる。


 視線を前に固定しても、雨の音に紛れて微かに雛の息遣いが届き、ギリギリで触れ合っていないはずの肩がじんわりと熱を帯びたような錯覚すら感じる。


 早く終わって欲しいようで、なぜか心地良さも覚えてしまう時間。そんな優人の胸中を知ってか知らでか、目の前の横断歩道がちょうど赤に変わったので二人は立ち止まった。


 止まったタイミングでちらりと横を窺えば、そこにはテレビや雑誌で見かける芸能人と同レベルか、それ以上とも思えてしまう端正な横顔。

 横断歩道を横切る車のライトが彼女を照らし、寒さで赤らんだ頬と、白い息をゆっくりと吐き出す口元が優人の目を奪う。


(改めて見ると……いや、改めなくても綺麗だよなあ……)


 もうとっくに理解しているはずなのに、直視すればするほどその事実を思い知らされる。

 以前、小唄が女子の肌のケアの大変さを聞いてもないのに長々と語ってきた時があったが、きっと雛もそういった手間をかけているのだろう。


 努力家な彼女のそんな姿は容易に想像できる。


「先輩、信号青になってますよ?」

「っと、悪い」


 思った以上に意識が割かれてしまった。斜め上に人差し指を向ける雛の声で我に返り、視線を前に戻して歩き出す。


 幸い視線に気付かれることはなかったのか、雛は少し怪訝そうに優人を見ただけで何も言わない。そのことに安心しつつ、再び雛の歩調に合わせることを意識しながら足を動かす。


(……ん?)


 もうそろそろで自宅に着くかという頃合い、性懲りもなく雛のことをちらちら見てしまっていると、彼女の視線が下に向いていることに気付いた。

 正確には横斜め下――優人の足下?


「……先輩ってズルいですよね」

「は?」


 前を向いてないと危ないぞ、と自分を棚に上げた発言をしようとした矢先、唇をほんのりと尖らせた雛の言葉に優人は首を傾げる。


 ひょっとして雛を見ていることを咎められたかと思ったが、それにしては言葉のチョイスがどこかおかしい。雛の表情も不快というよりは、煮え切らないものがあるといった感じだ。


「いきなり何だよ」

「……二、三日前、私スーパーにお買い物に行ったんですよ」

「んん?」


 また脈略の無い話が飛び出してきた。いよいよ訳も分からず疑問符を浮かべるしかない優人に構わず、雛は小さく頬を膨らませて話を続ける。


「そしたら同じくお買い物中の先輩を見つけました。遠目で見かけただけだったので、声はかけなかったんですけど」


 具体的にいつの話をしているかは分からないが、住んでいる場所が同じな以上、利用するスーパーもほぼ同じだ。そのことは特におかしくないけれど、相変わらず雛の言いたいことが分からない。


「しばらくして、似たようなタイミングでお買い物が終わったのか、ちょっと先を歩く先輩の後を私が追う形になりました。……でも先輩ったら、私を置いてどんどん先に行っちゃったんですよね」


 雛の目が優人をじとーっと拗ねたように睨む。

 正直あまり怖くはないのだが、雛が何を不服に感じているかは薄々と伝わってきた。そんな視線から逃れるように明後日の方を向いて、優人はわざとらしい苦笑いを浮かべる。


「わ、悪いな、気付いてやれなくて。荷物が重くて持ってほしかったんだよな」

「違います。自分が必要で買ったんですから、そんな厚かましいお願いなんてしませんよ。ただ」

「ただ?」

「……先輩って本当は、私より歩くのずっと早いんだろうなあって」

「……あー、その」

「こっそり優しいの、ズルいです」


 優人から視線を逸らし、そっぽを向いた猫のようなすまし顔で呟く雛。あまり見たことのない子供っぽい仕草にドキリとする。


「……ひょっとして怒ってる?」

「怒ってませんよ。怒れるわけないから、ズルいって思うんじゃないですか。……この前からずっと、私が助けられてばっかりです」


 とどのつまり、雛の言いたいことは最後の方に集約されているらしい。

 あれもこれも優人が自分勝手にやってるだけだから気にしなくていいと思うのに、雛本人はそれを良しとせず、かといって今さら優人が普段の歩調に戻すわけにもいかないので、引き続きペースはこのまま。


 結局アパートに辿り着くまで、このいたたまれない空気と付き合うしかないようだ。

 とりあえず。


(せめてこっちはバレないようにしないとな……)


 雛とは反対側の、雨に濡れた肩が気が気でならない優人だった。










 ちなみに、無事に部屋の前に着いての別れ際。


「風邪、引かないでくださいね」


 そんなお小言めいた言葉と共に肩の辺りをじーっと見られた。

 是が非でも風邪が引けなくなった。

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