第18話『頑張り屋さんと相合い傘』

「最悪のタイミングですよね」


 足音で来たのを察したのか、振り返った雛は優人の顔を見ると分かりやすく眉尻を落とし、げんなりとした声音で呟いた。

 すでにローファーに履き替えている辺り、まさに校舎を出ようとした矢先の雨だったのだろう。見方を変えれば、帰宅中に雨に振られることだけは避けられたとも捉えられるが、この状況じゃ気休めにもならないか。


「天気予報じゃ降水確率は低かったんだけどな」


 靴を履き替えながら告げると、雛の視線が優人の手元に注がれる。


「その割にはちゃんと傘を用意してるじゃないですか。置き傘ですか?」

「職員室で借りたんだよ」

「あ、その手がありましたね」

「……悪い、これがラス一だった」

「えぇ……」


 垣間見えた最後の望みすら打ち砕かれて、雛が絶望的な声を上げる。

 ……本当に勘弁してもらいたい。運良く手に入った傘を結局は手放す羽目になるなんて、ぬか喜びもいいところである。


「――え?」


 呆けた様子でぱちくりと目を見開く雛。

 彼女の眼前にあるのは、横に並んだ優人が無言で突き出した傘。

 意図を計りかねるように斜め上へと向けられる澄んだ瞳に、優人は顔を向けないまま答える。


「使え」

「でも、それだと先輩が……」

「俺は走って帰る。だから空森が使え」


 傘は一本、残されたのは二人。

 よもや相合い傘を持ちかけるなんてことはできないし、この状況で雛だけを置いてくような冷淡な真似もできない。となれば残っているのなんて、優人が提示した案ぐらいのものだろう。


 周囲の評判的には雛の運動神経は優れているらしいが、さすがに単純な体力勝負なら負ける気はしないので、走るなら断然優人の方がいいに決まっている。


「ほら、いいから使えって」


 これ以上の問答は不要だと判断し、優人は雛に半ば強引に傘を押し付けると、その場で軽い屈伸などの準備運動を行う。

 運動部でもない人間にとっては辛い強行軍になりそうだが、せいぜい頑張るとしよう。


「ちょ、そんなのダメですって!」


 しかし優人が雨の中へ駆け出すよりも早く、雛の声が静まりかえった昇降口に響いた。


「こんな雨じゃあ家に着く頃にはずぶ濡れですよ」

「仕方ないだろ。いつ止むかも分かんないんだし、うだうだ待ってるぐらいなら俺はさっさと帰りたい」

「ならこの傘は先輩が使って下さい。そもそも借りたのは先輩なんですから、使う権利もそっちにあります」

「その権利をどう使うかは俺の自由だ」

「ま、又貸しはよくないことですっ」

「家は隣なんだし回収すんのは楽だろ」

「ああもうっ!」


 ああ言えばこう言う優人に業を煮やしたのか、雛が珍しく大きな声を出した。

 無理矢理持たされた傘の持ち手を、絶対に引き下がらないと言わんばかりの勢いで優人の胸へと押し付ける。


「一緒に使えばいいじゃないですかっ!」


 赤ら顔の雛が叫ぶ。それはつまり、聞き間違いでなければ、優人が初っ端に選択肢から除外した相合い傘をしようということなのか。


「……いやいや、それはダメだろ」

「何ですか、私と一緒の傘はそんなに嫌ですか?」

「じゃなくて」


 頬を朱に染めたまま、拗ねたように唇を尖らせる雛の上目遣いは非常に強力で、呻きそうになるのを堪えながら優人はあくまで平然とした振りで言葉を続ける。


「誰かに見られたら面倒だろって話だ。というかそうなった時、大変なのは空森の方だろ?」


 雛と優人、学内での注目度はそれこそ天と地ほどの差がある。もし相合い傘の現場を他の生徒に見られた場合、興味の矛先はまず間違いなく雛に向くはずだ。

 先日の後味の悪い告白現場を目撃した身としては、色恋関連で雛に余計な負担を背負わせたいとは思わない。


 けれどそんな優人の危惧きぐに、雛は多少落ち着きつつも譲らない雰囲気のまま口を開く。


「たぶん大丈夫ですよ。もう外は暗いし、学校に残ってる生徒はほとんどいないみたいですから。……こんな季節に雨に濡れたら、風邪を引いちゃいます」

「……分かったよ」


 たっぷり間を置いてから、優人はため息をついて折れた。

 そんな純度百パーセントの心配な顔をされてしまえば頷くほかない。優人だって進んで濡れ鼠になりたいわけでもないのだ。


 そうと決まれば行動に移すのは早い方がいい。

 念のため周囲を見回して他の生徒がいないことを確認してから、傘を開いた優人は雛と並んで雨の中へと進み出た。

 ただ、騒ぎになる云々を抜きにしてもやっぱり気恥ずかしさがあるせいか、校門を出るまではお互いちょっと早足だ。


「何かこれ――」

「はい?」

「……いや、何でもない」


 喉元まで出かかった言葉を口に手を当てて抑え込み、優人は不思議そうな雛の視線から逃れるように前を向く。


 人目から隠れるように二人で帰る――熱愛発覚を恐れる芸能人カップルみたいだ、なんて馬鹿で自惚れた考えを一瞬でも抱いた自分が無性に恥ずかしく、しばらく隣を見ることができない優人であった。

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