第16話『頑張り屋さんは務めを果たす』

「今日はありがとうございました」


 優人が帰宅して一段落したところでインターホンが鳴った。

 玄関の扉を開ければそこにいたのは部屋着姿の雛で、優人が顔を見せるなりぺこりと頭を下げてお礼を口にした。


「ん。元気になったなら、まあ良かったよ」


 味見というのが建て前なのは最初からバレている。

 玄関の壁を背にして寄りかかりながら素直に礼を受け取ると、顔を上げた雛は感心したような眼差しで優人を見上げてきた。


「先輩って色々作れるんですねえ」

「小さい頃、母さんからそれなりに仕込まれたからな。ついでに言うと、『人間辛い時は甘い物を食べればなんとかなる』ってのが母さんの口癖だ」

「なるほど。しっかり先輩にも受け継がれていると」

「まあな」


 聞かされていた当時は特別感銘を受けたつもりもなかったが、母の口癖は何だかんだで優人のアイデンティティに根付いてしまっているらしい。

 今回はその教えが役に立ってくれたので、海の向こうの外国の地で働いている母には感謝だ。


「にしても、わざわざそれを言うために来たのか?」


 色々と後片付けや掃除が残っていたので雛には先に帰ってもらったが、プリンのお礼ならその前にしっかり頂戴している。

 優人としては一言でも十分だというのに、こうして優人の帰宅に合わせて出向いてきた雛には、良い意味で呆れてしまう。


「それもありますけど、一番大事なことを言い忘れていたのを思い出したので」

「え?」


 お礼以外にまだ何かあるのか、と疑問符を浮かべる優人に対し、居住まいを正した雛は口元に握った手を当て、コホンと咳払い。そのまま真っ直ぐに優人を見つめて口を開く。


「プリン、すごく美味しかったです」

「――っ」


 優人が思わず硬直してしまったのは、淡い桜色の唇から紡がれた言葉に込められた感情があまりにもストレートに伝わってきたからだ。


 横目で見ているのに雛の表情に目が奪われてしまう。

 微かな薔薇色で染まった頬と緩く持ち上げられた口の端、澄んだ夜空のような光を帯びた金糸雀色の瞳。

 伝えられたことに安堵したような、ふわりとやわらかいその微笑みを直視しなかったのは幸運なのか、不運なのか。それでも視覚を通してまざまざと優人の意識に突き刺さり、心臓が鼓動を早めて身体の内側から優人を責め立てる。


 雛が不思議そうに首を傾げるのと、開いた玄関から入り込んだ冷たい夜風で優人が我に返るのは、ほぼ同時だった。


「……律儀だな。一番大事なことってそれかよ」

「私が任されたのは味見役ですもの。感想を伝えるのは最重要でしょう? ほろ苦いカラメルとプリン自体の甘さがちょうど良くて、あと舌触りもすごい良かったんですよね。こう、舌の上でなめらかさが――」

「あーいいいい、そんな事細かに語らんでいい」


 ただでさえ身体が熱を持っているというのに、さらに褒めちぎられたら余計に心臓に悪い。

 くすぶる感情を悟らせまいとひらひら左右に手を振れば、その向こう側で雛がくすりと淑やかな笑みをこぼした。


「ほら、感想ならちゃんと聞いたからそろそろ部屋に戻れよ。いつまでも外にいたら風邪引くぞ」

「そうですね。じゃあ最後にこれを」


 そう言った雛が扉の影から取り出したのは長方形のタッパーだった。

 何の気もなしに「どうぞ」と渡してきたので素直に受け取ってしまうと、じんわりとした温かさが優人の手の平に広がっていく。

 湯気で薄く曇った蓋を通して見える中身は……鶏の照り焼きだろうか?


「何これ」

「さっき作ったんです。お礼と言ってはなんですけど、良かったらどうぞ」

「別にここまでしなくても……」

「では味見役ということで。忌憚のない意見をお願いします」

「……はいよ」


 してやったりな微笑みを前に頷く以外の選択肢などない。というか今の意趣返しを使うために、あえて優人と同じ料理でのお返しを用意してきたのかもしれない。


「ちょうど今日の晩飯のおかずに悩んでたから、ありがたく食べさせてもらうよ」

「はい。それでは私はこれで。おやすみなさい、先輩」


 最後にもう一度穏やかな笑みを覗かせて、雛は静かに扉を閉じた。


 さて、思わぬ収穫を得てしまった。夕食のおかずに悩んでいたのは本当なので非常にありがたく、時間も頃合いなので頂くとしよう。

 雛から賜った鶏の照り焼きの他、小分けにしていた冷凍ご飯やインスタントの味噌汁、残り物の適当な副菜を用意すれば今夜の夕食の完成である。


「いただきます」


 手を合わせ、さっそく器に盛った鶏の照り焼きに箸を伸ばす。

 食べやすいようにと前もって切り分けてくれた雛に感謝しつつ端っこの小さい一切れを摘むと、肉の断面からじゅわりと肉汁が。作り終えてからそこまで時間が経っていないことを差し引いても、絶妙な火加減で焼き上げたことが伝わってくる。


 タレと絡めて、一口に頬張る。


「あ、うま」


 ゆっくりと咀嚼して胃に送り込む。一息つくと同時に自然と賞賛が口を突いて出た。


 皮はパリっと、中はジューシー。ぱさつきもなくふっくらと仕上がった鶏肉には抜群の旨味があり、タレも合わされば美味さ倍増。白米が進むことこの上ない。

 その証拠に茶碗に盛った分はすぐに食べ尽くしてしまい、何かあった時のために保管していたレトルトパックのご飯にまで手を出す羽目になってしまった。


 プリンの返礼で頂いたわけだが、果たして釣り合いが取れているのかどうか。かといって今さら箸が止まるわけもなく、ややペースを抑えつつも舌鼓を打つ優人であった。


 翌日、洗ったタッパーを返すついでに「美味かった」の一言はちゃんと伝えた。

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