第一章【君とはじめる物語】

第1話『勇者を目指す少女』

「編入生……ですか?」


 星来暦一〇〇五年、牡羊アリエスの月、七日。

 今日の分の授業が終わり、寮に戻ろうとしたぼくを呼び止め、少なくとも教師が生徒に向けてはいけないほど切羽詰まった表情で必死そうに頼み込んできた黒髪の青年、リツ・リングレイル先生の口から聞かされたのは、十日ほど前から学生の間でちらほらと噂されていた言葉だった。


「本当は俺が案内を担当するはずだったんだが、急用ができてな……お前のルームメイトになる予定だから、この街を案内してやってくれないか?」

「要するにリツ先生はぼくに面倒事を押しつけたいと」

「何言ってんだ。お前のために友達作るチャンスを俺直々に与えてやってんだよ」

「その言い方ひどくないですか……」


 言葉の節々に棘どころか槍クラスの鋭さを感じて、精神的ダメージを受ける。

 いや、実際友達がいなくていつもひとりぼっちなのは事実だから否定できないわけで、だからこそ心が痛い。ぼくだって、一人が好きなわけじゃないけど、仕方ないんだ。


「資料はこれな。事前に説明はしてあるが、学院施設の詳しい案内はお前に任せる。それと―――」

「まだ引き受けると言ったわけじゃないんですけど」

「じゃあ何、受けないの? わざわざ友達作る機会をこの俺自ら設けてやってんのに?」

「大きなお世話です」


 リツ先生は何というか、教師というよりちょっとガラの悪いお兄さんだ。

 一応歴史あり格式高い王国最高峰の学び舎であるこの学院の教師陣は皆礼儀正しく教師然とした皆々様ではあるのだけど、この人だけは例外だ。

 サボり癖があり、成長は教訓と言い訳して学生に面倒事を押しつけ、そのくせ学生目線に立って物事を語ってくれるから生徒人気高い。ハッキリ言って、超ムカつく。

 周囲から浮いているぼくにもこんな風に絡んでくるし……欠点らしい欠点は、ぼくと親し気に会話することを何の苦とも思っていないことくらいか。


「勇者選別も半年後に迫ってることだし、仲間は多い方がいいぞ。出るんだろ、お前も。子供の頃からよく言ってたよな、最高の勇者になるって」


 この人はまったく……どうしてそう、人の踏み込んでほしくない場所へ土足で踏み入ってくるのか。いつか恨み買って殺されるんじゃないか。


「……出ませんよ、ぼくは。勇者なんて興味もない」


 ニタニタと気色の悪い笑みを浮かべるリツ先生に、小さく吐き捨てるよう返す。

 世界を焼いた魔女の娘に、勇者になる資格なんてない。


「で、やんの? やらないの?」


 リツ先生はぼくの返事を聞いて、ニヤリと不敵な笑みをつくる。何が面白いんだ、この性悪教師。


「はぁ……やりますよ、ちょうど暇だったし」

「助かる! じゃあこれ、その子の資料な。午後の列車で中央駅まで来るからついでに街と……寮までの案内もお前に任せた!!」

「え、まってそこまで聞いてな―――」


 一つため息をつき、ぼくが首を縦に振ると、先生は目を輝かせ早口でまくしたてながら少し分厚い封筒をぼくに押し付け、逃げるように視界から消えた。足早に立ち去っていく先生の背中を呆れながら見送って、手元の資料に目を通す。

 編入生の名前と性別と魔力特性と編入試験の結果の詳細と……その他、いち学生であるぼくが見てはいけなさそうなデータまで記載されていたが、見なかったことにしよう。


「……綺麗な顔」


 笑顔の写真には、パーツの整った少女の顔が写されていた。故郷にある、一面の銀世界を想わせる真っ白な髪には見覚えがあって、ぼくは少し気分が悪くなった。


「ほんと、意地悪だなぁあの人」


 リツ先生への恨み言を呟いて封筒を鞄にしまい込み、校舎の外に向かった。

 西の山脈に黒い雲がかかっている。夕方には雨が降りそうだった。




 神星王国ミストリア、学術都市プラネスタ。

 法王統治時代の旧魔法文明語で「輝く星々」を意味するここは、同時期に生み出されたであろう巨大な地下迷宮の解明のために建てられた学院を中心にして発展を遂げた王国最大規模の都市だ。

 街の地下に広がる迷宮は地下五十層を超えても果てに届かず未だ調査が続いている。

 魔物という脅威が巣食う迷宮のすべてを網羅するため、そして、今や世界の脅威となった厄災の魔女を討つため、王国中から将来有望な魔導師たちが集い、日々研鑽を繰り返すこの街は、王国の中で最も重要な都市、とも言えるだろう。


 五年前、王都が焼かれ、七人の勇者が命を落とした大災厄【灰都の火】以降、プラネスタは王国第二の中枢となった。

 人体に害のある灰と黒い雨が降り注ぎ、危険な魔物が跋扈する王都に代わり、新たな首都となって王国を導くこの街にやってくる人は絶えず、駅前の大通りは吐き気がするほどの活気に溢れている。

 見渡す限り、人、人、人。

 その中に学院の制服を着た生徒をちらほらと見つけたぼくは、上着のフードを深く被り、視界の上半分を覆った。

 顔を合わせるわけにはいかなかった。顔を見なければ、顔を見られることもない。ひとつ、ふたつと息を吐いてうるさく鼓動する心臓を落ち着かせる。


「慣れないなぁ……ここは」


 駅の構内に入り、改札を抜けてホームへ。

 編入生が乗っているであろう列車は、巨大なホームの奥、一番線にちょうど停車するところだった。

 誰とも目を合わせないようにしながら、先生に手渡された資料を取り出す。

 人混みの中にいても目立ちそうな髪色をしていたので、意外と見つけるのは容易いと思うけど。


 巨大な魔導金属製の車体がゆっくりと線路を進む。

 大陸横断列車は二百年ほど前、一人の魔工技師によって開発され、国内での移動に革命をもたらした。今や、このプラネスタを中心に王国各地に路線が広がって、人々の移動の要になっている。

 車体に刻まれた不規則に揺れる赤色のラインは、この列車が魔導金属によって構成されていることと、魔力を動力にして稼働することの証明でもある。そんな車体が固定具に繋がれると、続く客車から波のように乗客が現れる―――はずだった。

 代わりにホームに姿を現したのは、武装した衛兵の姿だった。その中でも魔導師が五人、少し嫌な予感がする。


「車内で魔人が発生しました! 我々の指示に従い避難してください!!」


 予感は的中し、魔導師の一人、黒髪の若い女性が声を上げる。

 一瞬で騒がしくなる民衆。とはいえ、皆パニックにならずに衛兵の指示通り列を作り、ホームから遠ざかるように避難を進めていた。


 魔人化―――それは、人が魔物になる現象のこと。

 極稀に、器を超える量の魔力を持つ人間が暴走することで発生すると言われるそれは、五年前の【灰都の火】を境に急激に数を増した。

 一説によると、魔女がばら撒いた因子を取り込んだことが原因だと言われているが、未だに原理は解明されていない。

 対処法はただ一つ、魔人を討伐すること。悲しいけど、そうしなければ被害が拡大してしまう。


「こら、そこの学生。聞いてなかったの? 早く避難しなさい」

 黒髪の女性がぼくに近付き駆け寄ってくる。彼女はぼくの顔をじっと見ると、何か合点がいったのか「あー……」と声を漏らしてクスリと笑った。

「珍しいわね、イヴがこんなところにいるなんて。またリツに面倒事押しつけられたの?」

「編入生の案内を、頼まれて……カナメさん、あれって……」

「車内で魔人が発生したの。後部車両に隔離して乗客の避難は間に合ったけど、まだ肝心の魔人が倒せていない。あなたなら心配いらないと思うけど、危ないから下がっていてね」


 リツ先生の元同僚であり、同郷であり、同じ孤児院出身らしいカナメ・リングレイル。王国の魔導師でも優秀な者しか与えられない、第一級特務魔導師の称号を持った実力者。一応、リツ先生を経由してぼくとは顔見知りだ。

 カナメさんは先生と同じような黒い髪を乱暴に掻くと、ため息を一つついた。


 魔人化という現象とそれによって生み出される魔人は、それほど危険なものじゃない。けど今回ばかりは発生したタイミングがタイミングだし、場所が場所だ。実戦経験をかなり積んだカナメさんといえど、焦るものはある。


「ドア、開きます……っ!!」

拘束魔術バインド麻痺魔術パラライズ用意ッ!!」


 魔人が駆使する魔術を防ぐため、一列になり盾を構えていた衛兵の一人が声を張った。カナメさんは彼らを統率する立場のため、指示のために隊列に戻る。

 三度、強い衝撃が最後尾の客車のドアに内側から加えられた。

 車内でも戦闘が繰り広げられていたらしい。三度の衝撃の後、黒と白の二つの人影がすごい勢いで飛び出す。

 一体は黒い影……肉を失い骨だけになった身体と、空洞の双眸に灰色の炎を浮かべた魔人―――スケルトン。

 そしてもう一体が、白く長い髪を持ち、右手に直剣を携えた一人の少女。

 先生の資料で見た顔写真と外見特徴も一致している。おそらくは、例の編入生だ。


「どうして子供が戦っているの? 列車に乗っていた大人はどうしたのよ!?」


 そんなカナメさんの疑問に答えるように、魔人がカタカタと顎を鳴らして腕を上げる。

 黒い骨を赤く染め上げる血肉。おそらく、列車の安全確保のために同乗していた魔導師は既に……。


「……攻撃開始! くれぐれも子供には当てないように!!」


 カナメさんの指示に応じる形で、待機していた五人の魔導師が一斉に魔術を行使する。

 魔人の周囲を覆うように展開された鉄の鎖や、掌から発せらられる電撃。普通の魔人ならこれで大方無力化できるのだけど、今回ばかりは話が違った。

 魔人はカナメさんたちへ手を伸ばすと、カカカッと顔の骨を鳴らして嘲るように笑う。

 瞬間、彼らの展開した魔術は消滅し、霧散した。


解呪ディスペルされました!」

「魔人が……解呪を……!?」

「反撃、来ます!」

防護魔術プロテクション展開っ!!」


 魔人は続けて、掌に展開した術式から黒い炎を隊列に向けて放つ。

 黒炎……王都を焼いたものと同じ色。未だ傷痕の残る【灰都の火】の記憶が呼び起されて、彼らの魔術が一瞬揺らいだ。

 ガラスのように崩壊する防護魔術の壁、十分な火力を持つ炎を前に、隊列は大きく散らばる。

 だけど、それ以上魔人は追撃を行えなかった。


「はぁぁぁぁあああああああああああっ!!」


 魔人と共に客車から飛び出してきた白髪の少女が、柱を蹴って急接近。魔人に斬撃を浴びせて、何歩か後退させる。

 衝撃は十分、だけどまだ骨の身体を砕くには届かない。少女は魔人が立ち上がる前に間髪入れず一撃、二撃、三撃と、反撃の余地を与えない猛攻でその場に繋ぎ止める。

 つくづく厄介な魔人だ。魔力で強化された斬撃なら、既に倒されていてもおかしくないのに。

 どれだけ斬られても肉体が崩壊しないことに少女の斬撃が決定打にならないことを察したのか、スケルトンが嘲笑する。

 反撃が始まる。魔人は斬撃を受けても怯まず、少女に接近して長い腕を振りかざす。


「やっぱり強い……お母さんが言っていた通り……」


 一撃一撃が即死級の攻撃、更に知能も高いとなれば、パターンを学習されて防戦一方になるばかりだ。一転して防御に徹することになった少女の剣では、いつかきっとジリ貧になる。

 カナメさんたちは……まだ立て直しに時間がかかりそうだった。おそらく、次の拘束魔術を待っていたら少女は骸の仲間入りをしている。

 この場で今、状況を動かせるのはぼくだけだ……やるしかない。


 一つ息を吐いて駆け出す。

 まずは魔人の魔術に対抗するため、カナメさんたちを守るように氷の壁を形成。少女の援護に回る。


「イヴ!? あなた、何をしているの!!」


 カナメさんの声は聞かないし、聞けない。迷っていたらきっと、間に合わない。


「頭下げて!!」

「はいっ!!」


 突然の指示にも一瞬の思考の揺らぎすら挟まず少女は対応する。

 魔人の腕をわざと大きく弾き隙を作った少女は、脚を大きく開いて姿勢を低くし、魔人の足を払う。

 ぼくとヤツの間を遮るものは、何もない。


「【撃ち抜く氷槍アイシクルランサ】ッ!!」


 氷を円錐状に固めて、真正面から放つ。

 魔人はさっきカナメさんたちの魔術を打ち消したように右手をぼくに向けて、二度顎を鳴らす。

 でも……もう遅い。

 魔人が解呪の動作に移った一瞬の隙で、少女が背後に回り込んでいた。

 よし、狙い通りに動いてくれた。【撃ち抜く氷槍アイシクルランサ】は囮だ。わざと解呪させて、防御動作に入らせない。

 だけどそれは相手に承知している。あの魔人にとって少女の斬撃は、決定打にならないという認識だ。だからヤツはきっと、防御しない。

 これも想定通り、魔人は少女の斬撃に対して防御を一切せず、ぼくの魔術の解呪へ意識を向けた。

 別に魔術で倒そうなんて考えていない、ダメージ何て与えなくていい解呪前提の囮。ただ一瞬、ヤツの思考を固定すればそれでいい。

 だからぼくは次の魔術の対象を、魔人から少女の剣へと変えた。


「【凍てつく吹雪を纏いし刃エンチャント・グラス】ッ!!」


 白銀の刃が青白く、冷気を纏って光り輝く。

 触れるもの全てを凍てつかせる絶対零度の氷を斬撃に付与すれば、強固な骨の身体も引き裂ける。

 魔人が解呪の動作を取る。言葉を用いない魔人の魔術は実質の無詠唱で確かに強力だ。だけど解呪には、「消滅させる魔術本体を視界に捉える必要がある」という、明確な弱点が存在する。

 お前が解呪したいぼくのエンチャントは、背後の少女の剣にかけられているんだ。


「終わりですっ!!」


 少女の剣が、魔人の頭上から真っ直ぐに振り下ろされる。

 骨の身体に弾かれるばかりだった剣は、蒼銀の選考と共に魔人の黒い骨へと食い込み、力のままに核ごと真っ二つに切り裂いた。

 心臓部に大きな傷を負った魔人は、ぐったりと項垂れて灰になって消滅する。

 少女はそれを見届けた後、同じように砕け散る剣を穏やかに笑いながら見つめていた。

 一際目立つ、汚れなき白銀の長髪。太陽のように燦然と輝く黄金の瞳。

 少女の姿は、瓜二つという言葉では片付けられないほど、あの子に、リーナにそっくりだった。


「リーナ……」

「はい?」

「いや、なんでもない。ごめん、忘れて」


 そんんはずはないと首を振って、思考の端に浮かんだ僅かな可能性を掻き消す。

 ぼくが笑顔を取り繕って見せると、首を傾げていた少女はぼくの元へ駆け寄ってきて、深々と頭を下げた。


「とっても的確で迅速な魔術行使でした。援護してくださり、ありがとうございます」

「あ、ありがとう……君も、強かったね」

「えへへ、ありがとうございます。よろしければ、お名前を聞いてもいいですか?」

「えっ、あ、いや、えっと……」


 少女がぼくの両手を掴む。あまりの勢いに気圧されて、ぼくは言葉が出なかった。


「はっ、そうでした。人に名前を聞く時は、自分から名乗るのが礼儀ですよね、失礼しました」

「いや、そういうわけじゃ……」

「セナ・アステリオといいます。勇者になるためにこの街に来ました」


 さっき消したばかりの僅かな可能性は、今こうして握り潰された。

 セナ・アステリオ。そう名乗った少女は、あの日のリーナのように輝かしい両の瞳をぼくに向けて、ただ真っ直ぐにその言葉を口にした。

 ―――勇者と。


「……イヴ・グレイシア」


 ぼくは唇の端を少し噛みながら、小さく自分の名前を呟いた。

 そうだよね……だってぼくは、あの子が死ぬその瞬間を見ていたんだから。


「先生に頼まれて、君を迎えに来たんだ。よろしく、アステリオさん」

「はい、よろしくお願いします!」


 ぼくが差し出した手をアステリオさんは両手で握り返し、満面の笑みを向ける。

 暖かな陽光のような彼女と、冷たいぼくの小さな手。

 これがぼくの運命を変える出会いになるなんて、この時のぼくは考えてすらいなかっ―――


「よろしく、じゃない!」

「あでっ!?」

「いたっ!?」


 ゴンッと、おそらく人の拳から出てはいけないほど鈍い音を立てて、ぼくとアステリオさんは痛みに顔を歪め、同時に頭頂部を押さえた。

 振り返るとそこには、魔物すらビビッて逃げ出すほどの形相をしたカナメさんが両腕を組んで立っていて、ぼくたち二人を睨みつけていた。


「あなたたちね……無事だったから良かったけど、魔人と戦うなんて何を考えているわけなの!? 一歩間違ってたら死んでたわよ! 特にそっちの白いの!!」

「白いの!?」

「なによ、白いから白いって言って何が悪いのよ」

「いや悪くはありませんが、私にはセナ・アステリオという名前が―――」

「知るか!!」


 カナメさんの説教が始まった。

 彼女の言い分は尤もだった。ぼくたちは学生の身で危険な魔人と戦った。本当に偶然が積み重なって勝利を掴めたけど、運が悪ければ死んでいてもおかしくなかったんだ。


「だけど、私たちの力不足だったのも事実だから、学院外での魔術使用と、無許可での魔人との戦闘行為は目を瞑ってあげる。次は看過できないから、二度と魔人と戦うなんて考えないこと!」

「「はい……」」

「魔人と遭遇したら逃げる! 分かった!?」

「「わかりました……」」


 二人して正座させられて、ガミガミとカナメさんの説教を受けること数分。

 正直後半はぼくたちの説教ではなく、魔人出現に対する上の対応の甘さとか、部下の練度の低さに関する愚痴に代わっていたから聞き流していた。

 アステリオさんは、話が長くて眠っていた。それが見つかりカナメさんの鉄拳制裁が三回くらいあったのもあるが、ひとまず、ぼくたちは解放された。


「うぅ……痛いです。身長二センチくらい縮みました……」

「人の話の最中に寝るからだよ」

「だって後半私たち関係なかったじゃないですか!!」

「それはまぁ……そうなんだけどさ」


 二人でカナメさんの説教に対する愚痴を言い合いながら、ぼくたちは大通りを歩いていた。

 まず向かう先は学院の学生が暮らす寮だ。街を案内しようにも、一旦荷物を置いた方が重い荷物を長いこと持ち歩くこともない。

 とは思ったのだけど、アステリオさんの荷物は随分と少なかった。二、三日旅行に出るとしてももう少し荷物が多くなるはずだけど、片手で持てるトランクケース一つが荷物の全てだという。


「……本当にそれだけなの?」

「あまり私物がないんです。ここに来る前は、お母さんと旅をしていたので」

「そっか……」


 会話が止まる。つくづく、自分の対人経験のなさに嫌気が差す。


「旅って……どの辺を?」

「王国中をぐるーっと。その中で色々教わりました」

「国中って、何年くらい?」

「お母さんが私を拾ったのが十歳の頃なので、五年になりますね」


 何だかサラッと重い生い立ちが出てきた気がするけど、この国で孤児なんてよくある話だ。特に五年前ともなれば、【灰都の火】で親を失った子供は大勢いる。アステリオさんもその中の一人だろう。


「まぁ……なので、必要なものは後々こっちで買い足すつもりだったんです」

「なら、街を案内するついでに買い物も済ませちゃおうか」

「はいっ!」


 そうこうしているうちに、広大な敷地を囲う巨大な塀が見えてきた。

 門を越えて中に入り、綺麗に整備された石畳の道を進むと、レンガ造り六階建てでロの字型の建物が正面に見えてくる。プラネスタ魔導士官学院、学生寮、女子棟だ。

 学院では、全ての学生が寮で生活するきまりだ。外出自体に許可を取る必要はないが、プラネスタの外に出るための手続きは面倒で厳しい。

 これは、【灰都の火】で多くの魔導師が犠牲になったことで、優秀な人材を失わせないための学生の保護措置らしい。都市の外に出ない限りは、学生は学院の庇護下にある。

 両開きの扉を開けると、正面に中央階段が見えてくる。最上階、六階まで上って、長い廊下を進んだ北西側の角部屋がぼくの部屋であり、アステリオさんの部屋になる。

 部屋の両壁際には一つずつベッドが置かれ、申し訳程度のパーソナルスペースが設けられていて、その半分はぼくの私物が壁際に積み重ねられていた。私物と言っても、大抵が王都の家の焼け跡から見つかったボロボロの魔導書だけど。


「そっちがアステリオさんのスペースだから、自由に使って」

「わかりました!」

「といってもこれじゃ落ち着かないよね。カーテンでも買ってきて、真ん中に仕切りでも」

「いえ、大丈夫です。旅をしていた時は、自室なんてなかったので」

「ならいいんだけど」

「それに……寮暮らし、ルームメイト、二人部屋……これってすっごい青春だと思いませんか!?」

「あ、うん、そう……?」


 旅を続けていたこともあって、多分こういう状況は彼女にとって物珍しいものだ。興奮するのも理解はできるけど……それもきっと今のうちだ。ぼくのことを知れば、彼女もぼくを避けるようになる。

 それまでは、束の間のルームメイトとの生活をそれなりに楽しむのも悪くはないのかもしれない。


「じゃあ、荷物置いたら街に出ようか。あ、でも、必要なものはすぐには分からないか」

「大丈夫です。今日の買い物は一件だけですから」


 アステリオさんはそう言って、腰の鞘から折れた直剣を引き抜いた。

 なるほど、確かに武器は大事だ。折れてしまったのなら、一刻も早く修理するか、新しいものを買わなければならない。

 だけど、彼女の腰にはもう一本の剣が携えてあった。

 折れた直剣はごくごく普通でその辺に売っていそうなものだが、もう一本はどちらかと言うと儀礼用にも見える、複雑な装飾が特徴的な黄金の剣だ。金のラインで象られた純白の鞘は神々しい雰囲気で、なんだかとても高級そうなものな気がする。

 何だろうこの剣……どこかで見覚えがあるような。


「そっちは、使わないの?」

「こっちはえっと……抜けないんです、何故か。私が昔から持っていたものらしいのですが、危険だからとお母さんが鞘をくれて、途端に抜けなくなっちゃって」

「そうなんだ、不便だね……」


 アステリオさんはまるで伝説の聖剣みたいな制約があるそれを腰のベルトから外し、ベッドの横に立てかけた。


「置いていくんだ」

「旅先でこの剣を巡ってひと悶着ありまして、私も必要な時以外持ち歩かないようにしているんです」


 大方、盗まれそうになったか、実際に盗まれたかのどちらかだろう。

 そりゃまぁ、あんな高そうな剣をぶら下げていたら盗賊に狙われるのは必然というか、むしろ「狙ってください」と言っているようなものだ。


「それに……賊を追い払うだけなら折れた剣でも十分です!」

「この街に学生を狙う賊はいないと思うけどね。でもアステリオさん強いから、なんだか頼もしいや」

「任せてください!」


 アステリオさんは両手を腰に置いてフンスと鼻を鳴らした。

 剣が折れたのは、どう考えてもぼくのせいだ。アステリオさんはまだ分かっていないようだけども、あの時のエンチャントが確実に負荷をかけて、耐え切れずに折れてしまった。

 魔人を倒すために仕方がなかったとはいえ、少し申し訳ない。せめて新しい剣の代金くらいは払わせてもらおう。


「それと、セナです」


 不満げに頬を膨らましながら、アステリオさんはぼくにぐっと顔を近付けた。


「えっ?」

「セナでいいです。というかセナと呼んでください。私たち、友達じゃないですか」


 顔が近い圧が凄い! 名前予備じゃないのがそんなに不満だったのか、更に顔を近付ける。

 彼女の整った顔が目の前に迫る。顔は小さいし髪はサラサラだし目は綺麗だし、あ、なんかすごくいい匂いもする。

 ってそうじゃなくて!!


「わかった、わかったよ、セナ。だからその、顔が近い……っ」

「はい、ありがとうございます。私も親しみを込めて、イヴと呼ばせてもらいますね」


 満足できる返答をぼくの口から聞いて、セナはご満悦そうに笑った。

 友達……か。随分長いこと、ぼくには無縁の言葉だったな。

 セナはかなりの勢いで距離を詰めてくる。まるで出会った頃のリーナみたいで、少し懐かしくなった。だけど、だからこそ失うのが怖い。ぼくのことを知って、離れていくんじゃないかと思うと、手が震える。


「さ、行きましょう、イヴ」

「……うん」


 セナに手を引かれて、寮の部屋を後にする。

 この手の震えは彼女に伝わっていないといいけど、ぼくの恐れを拭うように、セナは手を握る力を僅かに強めた。

 なんで……なんで、そんなに親しくするんだよ。仲良くしようとするんだよ。

 失って怖いのは、離れてしまうのが嫌なのは、ぼくの方なのに。

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