渡れない川

ラビットリップ

第1話  体罰

 私が中学生だった頃、教師と生徒の間には決して渡ってはならない川が明確にあった。川に足を浸すことも許さない、厳格な教師も各学年に一,二人いたように記憶している。

 全く教科に関心が持てず、授業中は常に明後日の方向を向いているような生徒だった私。唯一の楽しみは、そんな川に勝手に橋をかけ、教師のプライベートの姿を想像することだった。

 数学科で生徒指導担当だった水内は、私を随分と楽しませてくれた教師の一人である。

 元から地毛が少々垢抜けていた私。

水内は今でいう、グレーゾーンの存在を容認しておらず、頭髪・服装検査では毎回、私の豊かな髪の毛を雑にわしづかみにし、

「どこぞの店で染めたんや。戻してこんか!」

と罵声を浴びせてきた。

「何にも染めていません。地毛です。」

「嘘こけや!美容室か?ヘアカラーで、自分で染めたんか?それとも最近CMし出した、シャンプーで髪の毛が染められるものか?白状せいや!」

私の中学時代は、体罰容認だった。だから三ヶ月に一度行われる、頭髪・服装検査では毎回、水内に馬毛のような豊かな髪の毛を暴悪に掴まれ、教室の前方黒板に叩きつけられる、という光景が繰り広げられた。

 父親が学校長宛に電話をかけ、娘の無実を訴え、中学二年の春の頭髪・服装検査から、黒板に叩きつけられるというパフォーマンスはなくなった。しかし、それでも水内は私の前に立つと、

「そんな髪やったら、来年四月の修学旅行には、絶対連れていかんからな!」

と毎回顔を近づけ、唾を飛ばしてきた。

私はそんな水内に対し、忿懣から発生したものだろうが、徐々に特別な親近感を持つようになっていった。授業中、せっせと川渡りに勤しむようになるまで、大した時間は要さなかった。

 三十四歳にして、十も下の嫁をもらったばかりだった水内。

毎度、もっともらしい口調で、わざと難しく因数分解を指導する水内。

家じゃ、若い嫁を前にしてリズミカルに腰を振っているんだろう。

わざわざ難解な愛の言葉を用意し、若い嫁の体に乱暴にぶつけているのだろう。

あのチョークで汚れている指は、二十三時を過ぎると、いかにもという手つきで、若い嫁の秘密基地を奇襲するに違いない・・・・・・。

思春期だったとはいえ、実に生臭い子どもだったと、思い出していて、今さらながら羞恥心で苦しくなり、軽く死にたくなってくる。


 そんな卒業文集に掲載できないような青春の思い出しかない私も、あの忌まわしき水内と同い年になった。そして神様の粋な計らいを受け、今年の人事異動で赴任することになった、神楽中学校の管理職の席には、私の青春スター、水内の姿があった。

「大塚中学校から来ました、森川楓です。担当教科は社会です。よろしくお願いいたします。」

 三月二十五日に行われた、次年度赴任校、顔合わせ・打ち合わせ会において、およそ二十年ぶりに拝むことになった水内。体罰厳禁になった現場で見る水内は、見かけ上は、牙を取り上げられたライオンように幼くなったようにも見えたが、中学生だった頃の私が愛してやまなかった、体中から放っていた教師独特の胡散らしさは、まだまだ現役だった。

「森川さんは、一年生を担当してください。今年は五年者研修もあって大変ですが、頑張ってくださいね。」

水内の口から出た”頑張ってください“の一言に、思わず虫酸が走った。二十年前は、どこをどうくすぐっても聞くことができなかった一言である。主幹教諭という立場が労いの言葉を言わせているのか、どうなのか分からないが、にっこりと微笑み返すことが精一杯だった。

 このとき水内は、私・森川楓が二十年前に香川中学校で教えた、教え子であるということに気づいていないのか、という思いが私の脳裏をかすめた。というのも友人の指摘によると、私は大人になり随分と顔が変わったのだと言う。

そりゃいろんな爆撃をまともに受ければ、顔だって整形しなくても変わる。

水内は私を忘れている、と思っていたが、しかしそれは、お目出度い勘違いであったと、次の日、思い知ることになる。

 教室整備から戻ってきたとき、私は学年主任の坂田に呼び止められた。

「森川先生、昨日決めたクラス編成ねんけど申し訳ない、一年五組の担任から外れることになったわ。」

急遽、クラス変更になったことを告げられた。

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