カラーレス

小狸

第1話

 ある日、僕は色彩を失った。


 誤解を招かぬように今のうちに正しておこう。


 決して僕は視力を失ったという訳ではない。


 むしろ良い方である。


 ならば色彩とは何か、という話であるが――何だろう、とても抽象的な話になってしまうが、人生から色が失われた、とでも言おうか。


 それでもまだ比喩的になってしまうので、こう続けて注釈しよう。


 どんな小説を読んでも、どんな映画を鑑賞しても、どんな絵画を見ても、どんな音楽を聴いても、どんな食事を口にしても――何一つ響かなくなった。


 響かない。


 どんな小説も、明朝体の羅列にしか見えない。


 どんな映画も、像が動いているようにしか見えない。


 どんな絵画も、絵具の凝固にしか見えない。


 どんな音楽も、雑音にしか聴こえない。


 どんな食事も、食道に流れていく感覚しか湧かない。


 感情が死滅した――と、中学生のようなことを言ってしまうのは少々気恥ずかしいけれど、それは少し違うように思う。


 感情はきちんとあるつもりだ。


 なぜならこうしてきちんと、毎日生活することができているからだ。中高生の描く小説のキャラクターのように、感情の殺された無為の登場人物とは違う。


 普通に生活を送ることができている。


 ただ、何をしようとも、心に響いてくるものは無くなってしまった。


 無。


 美しいものを目にした時。


 ああ、これはきっと綺麗なのだろうな、ということは分かるし――世間一般的に美しいと評価されることは理解できるし、何なら「美しいですね」という感想を述べることだってできよう。


 ただ。


 それでも。


 心は、微動だにしない。


 ああ――そうだ。


 心が動くとか、響くとか、比喩的な表現よりも前に、よりポピュラーで親しみやすい、こういう表現方法があったことを思い出した。


 最後にこれを述べて、次の章へと移行しようと思う。


 僕は、感動することができなくなった。

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