第18話

 フローラとサイモンがいなくなった事を知らされたファウエルは「そうか……」とつぶやいた。

 その顔は穏やかな笑みをこぼしているように見えた。



『これでやっとフローラを、この気持ちを手放すことができる』



 ファウエルがフローラに初めて会ったのは、彼女が産まれて間もない頃のことだった。

 ファウエルが4歳の時に、弟サイモンが産まれた。

 まだまだ甘えたい盛りの時期に目の前に現れた弟は、父も母も、家の使用人ですら全てを自分の手から奪っていくようで面白くない存在だった。


 その翌年に産まれたフローラ。母に連れられ訪れた子爵家で、夫人の手に抱かれたその小さな赤ん坊は弟と比べても小さく、ふわふわになびく髪も、桃色に染まる頬も、甘いミルクのような匂いも、何もかもが愛らしく感じられた。

 小さな手のひらにそっと自分の指を乗せると、ぎゅっと握りしめてくる。

 こんな小さな赤ん坊のどこにこんな力が?と驚き、指を引き抜こうとするもその力が緩むことはなかった。

 時折開くその瞳は透き通るような琥珀色で、目が合うとじっと見つめて視線を離さない。まるで自分の心を鷲掴みにされたような感覚を覚え、ファウエルは子供ながらに動揺を隠せなかった。


「サイモンよりも小さくてかわいいね」


 何気ないファウエルの言葉に、母親たちはくすりと笑った。


「フローラって言うのよ。これから仲良くしてあげてね」


 子爵夫人は優しい笑みをこぼしながら、ファウエルの頭をなでてくれた。


「うん。僕がフローラを守ってあげる」


「あら。嬉しいわ、ありがとう。じゃあ、ファウエルはフローラの騎士様かしら?」


「騎士?騎士が一番強い?騎士になったら僕はフローラを守れる?」


「そうね、騎士様も強いけれど、フローラを守るには結婚することかしら?それなら、ずっと一緒にいて守ることができるわ」


「結婚?お父様やお母さまみたいに?……そうか。じゃあ僕、フローラと結婚する。


 大きくなったらフローラをお嫁さんにして、僕が一生守るよ」


「あらあら、もう婚約者が決まってしまったの?後でお父様に報告しなければね?」


 伯爵夫人は子爵夫人と顔を合わせて、うふふと上機嫌に笑いあっていた。


 ファウエルはこの小さな天使を守ることを、この時心に誓った。




 フローラとサイモンが言葉を覚え遊び始める頃、ファウエルは嫡男としての教育が始まり、二人が遊ぶ様子を見ながら家庭教師について勉強を進めていた。

 二人が並び遊ぶ声を聴きながら、懸命に義務を果たそうと努力を続けた。


 年を重ね二人にもそれぞれ貴族としての教育が始まる頃、年の近いフローラとサイモンは共に遊ぶだけではなく、肩を並べ学ぶことも多かった。

 その頃ファウエルは更に進んだ教育が課せられ、その溝が埋まることはない。

 そうやって段々と二人との距離が広がることを寂しくも思うが、ファウエルにはどうする事もできなかった。


 それでも庭で、屋敷の中で、フローラの声が聞こえてくることがたまらなく嬉しかった。明るく清らかな声で笑う声を聞くだけで、幸せな気分になれた。


 そんな二人が次第に心を通わせ始めていたことは、誰よりも早く気が付いていた。

 いつの頃からか、庭を歩くときにはサイモンがフローラの手を引いて歩いている。

 フローラが屋敷に来る時には馬車まで出迎え、エスコートをするのもサイモンの役目。そして、いつの間にかそれはお互いの家族や、使用人ですら公認の仲になってしまっていた。


 伯爵家の嫡男であるファウエルには、もっと高位貴族の令嬢か、資産家や有力貴族の令嬢を娶ることを望まれていた。

 目ぼしい財源を持たない子爵家の娘では、足りないのである。

 嫡男のファウエルには足りずとも、次男であるサイモンならば問題はないとの答えなのだろう、二人は誰からも祝福されるように仲を深めていった。


 父の言うような令嬢と婚約を結び、そのまま結婚することが自分の務めだと理解し、納得するつもりでいたのだ。

 自分でも子供の頃の戯言であると思っていた。もっと社交の場を広め多くの令嬢と交流を持てば、この気持ちも変わると信じていた。


 それなのに、そのはずだったのに、サイモンが騎士学校入学のために家を離れてしまった。

 自分の前からも、フローラ自身の前からも姿を消してしまった。

 今までいつも目の前にいることで、自分の感情を抑えていたものが突然なくなってしまう。急に自由になってしまった心を、抑えることが出来なくなってしまった。


 それからのファウエルは、フローラに対する焦がれる思いを我慢することを放棄した。そんな自分をフローラが受け入れるはずはないと知っている。サイモンに対する想いが消えることなどない事もわかっている。

 それでも、もう抑えられないほどの熱情が自分の中にある。


 恋に狂う者を馬鹿にする話を何度も聞いたことがある。

 しかし、今の自分はそんな者たちを笑う事はできない。



『いっそ狂い死に出来たら、どれほど楽だろう……』




 フローラが貴族としての立場を捨て、平民になってまでもサイモンと一緒になると。

 ついていくと言ったあの言葉を聞いた時、自分の中で何かが壊れる音がした。




 目の前にいるから、手を伸ばしたくなる。

 触れられるほどそばにいるから、求めたくなる。

 触れてしまえば、どうしたって欲したくなる。



 ならば自分の前からいなくなれば、心が騒ぐことはなくなるかもしれない。

 でも、それは叶わない。



 フローラに対するこの想いが消える時……それは、自分自身が消える時。



 ファウエルはあの日、自分の中の想いを消してしまおうと思った。




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