第2話 朝の楽しみと望まぬ結婚~美桜~


 午前八時。

 私はいつもこの時間に出社する。


 「おはようございます」


 先に出社している人と挨拶を交わしつつ、私は自分のデスクのある秘書課へ足早に歩みを進めた。


 ジャケットのポケットに感じる軽いけれど硬い金属の感触に、私は昨日の事が現実である事を実感させられる。


 「おはようございます」


 と挨拶して秘書課の部屋に入るが、まだ誰も来てはいなかった。その間に私はパソコンを立ち上げ、メールのチェックを始める。一通り目を通して、私の上司の今日のスケジュールを確認したりしていると、続々と出社してくる人が増えてきた。時間は午前八時三十分になっていた。


 私はおもむろに立ち上がると、同じ階にある給湯室へ向かう。そこで私はコーヒー豆を取り出し、コーヒーを淹れる準備をする。するとそこへ待ち望んでいた人達の声が聞こえてきた。私は給湯室から出て、廊下を歩く二人に声をかける。


 「おはようございます。社長。あさひさん」


 私が頭を下げると社長はにっこりと、社長秘書の旭さんは少し微笑む感じで「おはよう」と返してくれた。


 「谷岡さん、いつものコーヒー?」


 「はい」


 「僕のも頼めるかな?」


 「はい。もちろんです」


 私が快く承諾すると、社長は「よろしく」と笑いながら旭さんと一緒に社長室に入っていった。


 はあ~、朝から眼福。ご馳走様です。


 社長室に向かって手を合わせると、すぐに給湯室で社長ご所望のコーヒーを淹れる。実は私は自分のコーヒーを淹れる為に給湯室に来た訳ではない。この時間に出社してくる社長に「コーヒーを淹れて」と頼まれたくて、私は毎朝給湯室で待ち構えている。


 私は急いで、けれど慎重にコーヒーを淹れていそいそと社長室に運んだ。


 軽くノックしてから「谷岡です」と声をかける。すぐに中から「どうぞ」と返ってくる。


 「失礼します」


 ドアを開けるとそこに広がるのはまさに夢の世界。スーツの男性が顔を寄せ合って、真面目な話しをしているシチュは涎が止まらなくなりそう。多少お年を召したとは言え二人共まだまだ若々しく、社長は若い頃の綺麗なお顔はそのままに物腰の柔らかいダンディ紳士だし、旭さんも渋めの優しいおじ様だし。


 はぁうぁ~、私この会社に入社できて本当に幸せ~


 社長と旭さんを朝からセットで拝む事ができて、ニマニマと緩みそうになる表情筋に無理矢理喝を入れた。そのせいで顔にはいつも必要以上に力が入って、無表情になってしまう。


 「どうぞ」


 私は社長のデスクの邪魔にならない場所にコーヒーを置く。


 「旭さんもどうぞ」


 旭さんの前にもコーヒーを置くと、二人から「ありがとう」とお言葉を貰う。


 「いえ」


 ああ~、幸せ~。この二人を朝から見られただけで、今日一日頑張れる~


 「ところで、専務は来たかな?」


 壁に掛けてある時計を見て、私は「はい、そろそろ出社される頃かと」と答える。


 「じゃあ、出社したら僕のところに来るように伝えて貰えるかな?」


 「はい、かしこまりました」


 「失礼します」と頭を下げて退室する際、私はもう一度だけ素早く社長と旭さんを盗み見る。二人共話しに集中しているからか、とてもキリッとしていて凛々しい。


 これだけで、ご飯が三杯はいける。寿命が延びるわね。


 今朝も私の目と心を潤してくれた社長と旭さんに心の中で感謝を述べつつ、私は多分そろそろ出社してくるであろう自分の上司のもとへ戻った。


 給湯室にお盆を返却してから、私は自分のデスク経由で上司のもとへ向かった。


 この会社には社長以外に個室を与えられている人物がいる。


 「おはようございます」


 私がいつも通り挨拶しながらドアを開けるとそこには椅子に座ってメールをチェックしている彼がいた。この男が個室を与えられている専務の水島唯人だ。


 「専務、今日は午前中はこちらの書類に目を通して印鑑を押して下さい。午後は二時からマナカホールディングスの方と我が社の大会議室で打ち合わせがあります。ご出席下さい」


 タブレットを見ながら今日の予定を彼に告げる。私がスケジュールを読み上げている間、いつもはパソコンの画面から目を離さない彼が今日に限って私を見ていた。


 「指輪」


 「はい?」


 「指輪はどうした?」


 自分が昨日無理矢理私に嵌めた指輪をしていない事がお気に召さないらしい。


 「つけてませんけど、一応持ってます」


 「なんでしてないんだよ」


 ムッとした様子で問い質してくる専務に私は彼より不機嫌そうな様子を装って、言い返してやった。


 「できる訳ないじゃないですか。今まで恋人のこの字も感じさせた事のない私がいきなり指輪して出社なんて」


 そこまでして見栄張りたいの?とか思われて、痛い奴認定されるのが関の山だからっ!


 「ところで、専務。社長がお呼びですよ」


 指輪について、これ以上話す気はないとばかりに私はさっさと話題をすり替える。


 露骨な話題転換に専務は「チッ」と舌打ちを鳴らして立ち上がった。


 「社長室に行って来る」


 「私は自分のデスクにおりますので、ご用があればお呼び下さい」


 専務室を出て行く彼を頭を下げてお見送りした私はドアが閉まる音で体を起こした。


 朝から坊ちゃん専務の相手なんてしてられるかってのっ!せっかくさっき延びた寿命がプラマイゼロどころかむしろマイナスになったじゃないっ!


 声に出さずに、悪態をついて自分のデスクに戻って書類整理を始めると内線電話がかかってきた。


 「秘書課、谷岡です」


 電話はワンコール以内に出ると言う厳しい指導の賜物で、私は素早く受話器を取り上げる。


 「旭です。谷岡さん社長室まで来て貰えますか?」


 「承知致しました」


 専務が社長室に行ってからまだ十分も経っていない。嫌な予感しかしないけど、私は社長室に向かう。


 社長室のドアの前で一度深呼吸すると、ドアをノックして「谷岡です」と告げる。


 「どうぞ」


 「失礼します」


 社長室に入ると真っ先に目に飛び込んできたのは困惑顔の社長と旭さん。そして何故かしてやったり顔の専務。まさか…


 「急に呼び出してごめんね。ちょっとコレについて聞きたくて…」


 社長が見せた『コレ』とは昨日無理矢理書かされた婚姻届。


 「あの、それはですね…」


 お願いですっ!どうかソレ破っちゃって下さいっ!


 「誤解しないでね。反対してる訳じゃないんだよ」


 言い淀む私を気遣ってくれる社長は優しい笑顔を見せる。その心遣いは嬉しいけど、私の為を思うのならば反対して欲しいです。


 けれど、専務に弱味を握られている私はそんな思いを口に出す事ができない。


 「だから、合意だって。な、美桜」


 専務が私の方を見て、にっこり笑う。馴れ馴れしく名前を呼ぶなと言ってやりたいが、専務の目の奥がまったく笑ってない。いつでもバラすぞって脅してきている。


 「…はい、そう、です」


 不本意極まりないけれど、私の意志で署名したのは事実な訳で…


 私の返答に満足そうな専務の顔が視界の端に見えた。


 今すぐ、舌を噛み切りたい気分…

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