高い塔の男
令狐冲三
上の巻
朝から霧雨がじとじと降りしきり、ちょっとした外出も億劫になる。
彼はその時、「実験室」と名づけた亡き祖父の離れにこもっていた。
私が入って行くと、祖父の遺品の一つである旧式の映写機をいじくりまわしているところだった。
表では、雨の音に混じってどこかで犬の吠える声がしている。
映写機は外国製の大型で、今時滅多に見られるものではなかった。
リールは白銀、本体は暗緑色の頑丈で重量感のあるタイプだ。
ほっとくと二つのリールの間に蜘蛛が巣をかけちまうんだ、と彼は言った。
いくら取り払っても、ふと気がつくとまたかかっていて、蜘蛛はその間を飽きもせず往復しているという。
映写機の棚の横に作業用の多目的スペースが設けてあり、一方には小型の万力が据えられ、反対側には旧い電気スタンドが設置されて、黄ばんだ光が傷だらけの机上を照らしていた。
私が訪れる時は、大抵こんな具合に雑然としていて、整理整頓されていたためしがない。
彼の祖父というのは、たいそう物に愛着を持つ人だそうで、離れに集められたそのコレクションのリストは、分厚い目録が何冊分にもわたるほどだった。
彼は作業台で一巻のフィルムを調べ始めた。
外で雨を払って中へ入ってみると、彼は親指と人差し指でフィルムを挟み、電気スタンドの光に透かして下から覗き込んでいた。
私のほうを一瞥するなり、すぐフィルムをわきに寄せた。
私は机の上を適当に整理して空きを作ると、途中で買ってきた缶ビールをあけて、
「それ、掘り出し物かい?」
「いや」と、彼は首を振った。「違うんだ。一週間ほど前に親父宛に送られて来てね、何が映っているか確かめようと映写してみたんだが、何も映っていなかった。それで、親父はすっかり興味を失くしちまってさ。俺がここへ引っ張り込んだってわけ」
彼はそう言って、マジックで宛名の書かれた包みを私のほうへかざして見せた。
差出人の名はない。
消印も雨に滲んで判読できなかった。
「上映すると、どのくらいの長さなんだい」
「五分弱だな。なりがでかいわりに、大したことはない」
「本当に何も映ってなかったのか」
「ああ、初めの数コマを除けばな。見ろよ、最初の5コマだけだ。時間にすれば、1秒もない」
「そんなに短いのか」
私は彼からフィルムを受け取って、端のほうを光に透かして見た。
確かに何か映っているようだが、ひどくぼやけていて、正体はさだかにわからない。
私はフィルムを彼に返して首をひねった。
「何だかさっぱりわからんな。この白い粒みたいのは何かな」
「親父は塔じゃないかと言ってたが」
「塔ねえ」
私はもう一度フィルムを覗き込んだ。
言われてみれば、そんな風に見えなくもない。
しかし、別の物だと言われたら、やはりそのように思っただろう。
結局、私にわかるのは、それが何かわからないということだけだった。
フィルムの端を引っ張りながら、一コマごとに注意深く見極める。
彼の言うように、6コマ目以降は、すべて真っ黒に塗りつぶされていた。
これでは何も映るまい。
「マジックかな」と、私はフィルムを表と裏から見直して言った。「少なくとも、感光したわけじゃなさそうだ。明らかに上から何かで塗りつぶされている」
彼は私が持ってきたコンビニの袋から、勝手に缶ビールを取り出して、
「何を塗りつぶしたのか、確かめたくならないかい?」
「別に。それより、送りつけた奴がなぜそうしたのか知りたいな。塗りつぶすほど見られたくないものなら、何だってわざわざ送りつけたりするんだ?」
「塗りつぶした奴と送りつけた奴は別ってことさ。フィルムの復元が面倒だから、こっちにやらせようって腹だろうよ」
「じゃあ、復元がすめば取り返そうとするわけだ」
「どうかな。とにかく、俺はこいつを復元してみるつもりだ。送り主云々より、このフィルムに何が映っているか確かめるほうが先だと思う。要は、塗りつぶしてある黒い箇所をはがしてやればいいんだ。簡単なことさ」
彼は私からフィルムを取り上げると、細いカッターナイフや現像用の定着剤の小瓶を机の上に並べだした。
私はビールを飲みながら、黙々と作業する彼の姿を眺めた。
細長いフィルムを部分的に長さを揃えて切断し、それを定着剤で拭いてから、カッターで極薄の皮膜でもはがすように、真っ黒に塗りつぶされた部分を慎重に削り落としてやる。
私が二本目のビールを飲み干す頃、作業が終わった。
彼が自慢げに差し出したそのフィルムは、どれも長さが10㎝ほどに寸断され、表面にカッターの傷が残っていたが、黒い部分はおおむね修復されていた。
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