☤ 吾輩は杖である ☤

医師脳

吾輩は杖である

―「リーホー(你好)! ワーシー(我是)ツエ」

―「I am TSUE」

―「ワタシ ツエ アルヨ」

―「吾輩は杖である」


 日本語変換がビミョーかもしれない。

 でも台湾から来た私に多くを望んではいけない。

 それに〈杖〉と言っても、御主人の散歩にお供するわけではない。

 だって、いつも机の上に置かれているのだから…。


 御主人は新しもの好きである。

「若いころは…よく買い替えていたわね」と奥様はおっしゃる。

 吾輩は十台目になるらしい。

 しかし、〈杖〉という名前を付けられたのは吾輩が初めてだとも聞く。

 これまでの先輩たちは、単に「マック」とか「ウィン」と呼ばれていたそうだ。


   *


「どっこいしょと」

 吾輩の前に座った御主人は、またいつもの愚痴をはじめた。

「パソコンだの、ねえ時代だもの…」

 青森生まれの御主人は津軽弁で語るのだが、(読者のために)ここからは吾輩が日本標準語へ変換して表示しよう。…と台湾生まれはお節介を焼きたがる。

「パソコンのない時代だったから、書くということは鉛筆で原稿用紙のマス目を埋める作業だ。品川信良教授のダメ出しを受けるたびに清書を繰り返した。おかげで右手の中指には立派なペンだこもできた」

ため息をつきながら指を眺めて御主人は声の調子を落とす。

「白い巨塔では、論文を書くことが仕事だ。やっとダメ出しする立場になれた頃、若い医者たちはコピペで簡単に清書して持ってくる時代になっていた」

 遠い目をしている。

 突然、御主人はトーンを上げて、いつものフレーズで自慢話を始めた。

「初めてマッキントッシュを使ったのは、三十九歳でカリフォルニアに留学した頃だから…」

 自慢話は続く。

「パソコン経験だけは長い方だと思う」と自信満々で言い切った後、私の反応を確かめながら続けた。

「研究室のアメリカ人スタッフに基本は教えてもらったが、日本語ワープロソフトだけは独学で試行錯誤を重ねた。漢字の誤変換に噴き出すたび、怪訝そうなスタッフに説明するが理解してもらえるわけもない」

やっと、自慢話は終わったアルヨ。


 おや?

 ちょっと深刻な顔で何か語り始めたぞ。

「パソコンと三十年間も付き合ううち、作文の思考過程でも原稿用紙を鉛筆で埋める作業とは違うことに気づいた」

 もったいぶった回りくどい言い方は、医者の特徴なのか。

「手書きの下書きをパソコンで清書していた頃までは、頭の中で作文するという思考過程に変化はない」

「ところが…」と間をおいて再び語り始めた。

「モニター画面が大きくなって原稿用紙が二枚以上も見渡せるようになると、メモ程度に簡略化した下書きをもとに、入力しながら画面上で推敲し始めたのだよ」と、記憶は四十年以上も前に飛んでいる。

「文章の途中からでも打ち始めて繋ぎ合わせる癖がついてしまうと、まとまった文章を考えて書き始めることが難しくなった」

 今度は泣き言が始まったぞ。

「診療の場面でも、電子カルテの病院時代は不自由なかったが、紙カルテにボールペンで書く作業は一苦労だ。途中で訂正が多く見苦しくなってしまう」

 介護老人保健施設の施設長である御主人は自嘲的に笑った。

「さすがに他施設への診療情報提供書などは訂正したくないと思い、手書きをやめてパソコンのフォーマットを重宝しているよ」

 御主人は吾輩をなでながら言い切った。

「つまりは、結局のところ…パソコンは脳の杖なので、もはや手放すことはできない!」

 御主人は、吾輩のことを「脳の杖だ」とおっしゃる。

 吾輩を頼りにしているわけだ。それならそうで、もっと吾輩を大切にしてほしいアルヨ。

「じゃ、どうしてほしいのだ」とパソコンの吾輩に聞かれても、正直なところ困ってしまうのだが…。


 吾輩のOSは、ウィンドウズ10である。

 いわゆるクラウドとの連携が便利になって、各種ファイルをオンラインストレージ(One Drive)に保存可能だ。

「最近のパソコンは本当に賢い。それにしても、便利な世の中になったものだ」と呟きながら、吾輩を立ち上げた。

 そしてナント、今更どうしようもない昔の駄文をアップロードし始めた。

「ここに保存さえしておけば、書斎でも職場でも著作活動ができるぞ!」などとハシャイデいらっしゃる。


 Garbage In, Garbage Out.

「 GIGO」とも聞く。

「集めたデータがごみならば、いくら立派に分析しても、出てくる結果はごみでしかない」という社会調査方法論の世界で使う警句。

 御主人には申し訳ないが、つまらない文章を収集しておくことに何の意味があるのだろう。

 …とは思うが、吾輩は〈脳の杖〉なので御主人を支えて一段ずつ歩むことにしよう。


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