第35話 彼女のトラウマ
〝跳ねる死体運び〟の一人がモッカの傍に現れ、街の状況を報告する。街では軽く百人以上の人間がモンスターたちに捕縛されており、今も被害は増え続けている。
モッカの額に焦りの汗が流れる。メルフィスに尋ねる。
「いつの間に、城門を破ったと言うのだ。私は幻覚を見ていたのか?」
「悪いけど、今の私にとって『距離』とか『手順』みたいなのは些細な障害に過ぎないんだ。壁一枚ごときには何の意味もない。ね、クリシチタ」
クリシチタが世界を裂いて顕現する。纏う神気と深淵に、モッカだけでなく、周囲で潜んでいた〝死体運び〟の面々も一瞬で萎縮する。本能的な恐怖から、あやうくひざまずきそうになる。
「ふっふふふ、良い顔をしてくれるね。これが私の本命さ。〝アタラクシア〟が全霊を賭してそれでも命を奪えなかった、唯一のモンスターだ」
冷たい汗の止まらないモッカはクリシチタを直視できず、メルフィスの足元だけを見て、しかし震える声で言い返した。
「だ、だが、お前の要求通りに〝アタラクシア〟を放免しては、街は結局壊されてしまう」
「その心配は要らない。エックスだけはずっと私の洗脳下に置くよ。それで心配ならレオランもそうしよう。流石にこの二人がいなくちゃあ、〝アタラクシア〟とて力及ばないさ」
モッカは目をぐるぐる回しながら必死に考える。
「これ以上の譲歩はできないなあ。ほおら、人質は街の住人だよ。どうするんだい?」
渦巻く妖精の人壁戦術を前に、モルガナは決定打を加えられないでいた。しかし最低限の弾幕は張り続けて、妖精の接近は許さない。
そんなじりじりとした戦いの最中、不意に妖精が西へ目を向けた。クリシチタが現れたオーラに気を取られたのだった。
モルガナは隙を見逃さない。距離を詰めて背中を斬りつける。妖精の顔が歪む。空へ逃げようとした妖精の下半身、触手の一本を左手で掴んで地面へ叩きつける。剣を振り上げるが、妖精は両手を上げ、慌てて口を開く。
(ま、まって! ころさないで!)
突然頭の中に流れ込んできた少女の声にモルガナは振り下ろすのを一瞬ためらい、その僅かな隙に妖精はモルガナの下から抜け出た。それでも下半身の触手の半分以上が溶断されたが、それらは途中からすぐに生えて元通りになる。
妖精は空中に飛んでいき、口を開けてケラケラと笑っている。モルガナも跳ねて追撃するが、自在に空を飛べる妖精には当たらない。
(あ、あはは。メルの言う通り、甘い、甘い)
着地したモルガナは舌打ち。
「能ある鷹ですわね。まさか会話が可能とは」
(手札は、隠すもの。でしょ?)
「次は一切の容赦もしませんわよ」
空中に浮かぶ妖精はあららと両手を浮かべる。
(それは、困った。甘さに付け込めなくなるならば、勝ち目がない。今のあなたは、ボクより、強い。だから、そう。あなたを洗脳するのは、とても残念だけど、諦める。まあ、他の手段も、ある。トラウママミーで、代用するよ)
――今、なんて? 「諦める」?
(そんなことより、メルの、大一番、見に行こう?)
――「住人の捕縛」は、〝支配〟のエーテルによる絶対の命令なのでは?
(見ないと、損だよ。メルと、クリシチタを。絶対に、面白い)
――嘘でも、そんなことを言っていいのか?
モルガナの思案の表情を見て妖精は笑う。
(分かるよ。自分の事を、語りたい気持ち。ボクもずっと、騙ってきた。だから、楽しみだ)
妖精はモルガナに背を向けると、城壁へ向かって飛んで行った。モルガナの心臓の鼓動が早くなっていく。最悪の予感に血の気が引く。
「ま、待ちなさい!!」
モッカの背後、城門が内側から開かれる。トロールを筆頭としたモンスターの軍隊があふれ出し、モッカを囲うように布陣する。死体運びたちは慌てて茂みから飛び出してモッカの周囲を守る。モッカは苦い顔をしてメルフィスを睨みつける。
「そして、私までもが人質という訳か」
メルフィスはこの事態に面食らっている。
「――いや、そこまでやる……のか? 確かにモンスターの指揮は任せたが……命令が曖昧だったか?」
モンスターの一つが群れから前に出る。それは包帯で全身を巻かれた人間のような姿をしていた。チラリと除く包帯の中には、乾いた人型があるように見える。
ふらふらとよろめきながらゆっくりと歩いてくる。メルフィスと、ある程度の距離で、足を止める。
「トラウママミー?」
トラウママミーは、相対する生き物のトラウマを再現するモンスター。変幻自在の身体で相手の姿に変身する。記憶を読んで、最も忌避している経験を探し出し、幻覚や幻聴も駆使して徹底的に再現する。無理やりに、相手にトラウマを思い返させる。
しかしそれだけ。直接危害を加えることは無い。
マミーは多くの人間に囲まれたその場所で霧を吹き出し、変身を始める。その身体はメルフィスの形をとる。いや、まだメルフィイと呼ばれていた頃の彼女を。乾いた血のこべりついたボロボロの衣服。霧が起こす幻覚が、メルフィイを縛り付けている拷問椅子を錯覚させる。周囲の雰囲気までもが伝わってくる。重い雰囲気、冷たい声。
その場の全員が、マミーの起こす演劇に引き込まれた。
拷問官がメルフィイの前に現れる。口を大きく開けたかと思うと、大声で怒鳴りつける。
「お前なんてもうゴミ以下の価値しかないんだよ!」
眼球がぶつからんという距離まで顔を近づけて、がなり立てる。
「もうお前には親もいない! 未来もない! ここでずっと拷問されてるだけだ!」
太く大きな手で両肩を掴んで激しく前後に揺らす。
「お前に生きてる価値なんてない! 死んでいるも同然! 人間未満だ! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
脈絡のない暴言を浴びせ続ける。
「惨めに死ね! 死んでいった奴らの分まで苦しんでから死ね! 一生苦しみ続けろ! お前はもう逃げられない! ずっとこうだ! 寝ても覚めても拷問だ! 苦しむだけ苦しんで死ね!」
メルフィイはできる限り目を逸らし、大声に対する恐怖から全身を僅かに震わせている。何時間も暴言を吐かれ、存在を否定され続ける。確かに精神は摩耗する。
だが、ただ、それだけの時間。
メルフィスは首をかしげる。
「私の一番のトラウマって、これなのか? てっきり蜂蜜アリ塚かと思ってたけど。実際、あんまり動揺はないぞ?」
モルガナが城門から走って出てくる。その表情は尋常ではない。震えた落ち着かない声で、しかしできる限り大きく張り上げる。一刻も早くメルフィスに伝えるために。
「メルフィス! それが再現しているのは、あなたのトラウマじゃない!」
「え? じゃあ誰の……」
「クリシチタですわ!!」
クリシチタはエックスから受けた拷問の全てを思い出し、恐怖のあまり〝支配〟を振り切った。興奮して右手の無数の武器を振りかざす。
メルフィスは驚愕と共に振り返る。杖を向けるが、クリシチタは順序を飛ばし、既に腕を振り下ろした。メルフィスの身体に無数の斬撃が降り注ぐ。
間髪入れず、メルフィスの側面に渦巻く妖精が飛来する。メルフィスは全身を切り裂かれながらも、モッカを囲っていたモンスターたちに命令を下す。
「『
影からも多数のモンスターが湧き出てきて、一斉に駆け出し妖精に襲い掛かる。究極の飢餓からエサを見つけたかのように狂気的な相貌で。
妖精は〝アタラクシア〟のメンバーを召喚してそれらに応戦する。メルフィスは街の攻略に主力のモンスターを裂いていた。手持ちのモンスターでは敵わない。
妖精はするするとモンスターの間を縫ってメルフィスに近付いてくる。マミーの演劇は終わったが、クリシチタは制御不能なまま。
メルフィスは〝創造〟の波を起こして妖精に向けたが、それは弾幕に吹き飛ばされた。妖精の隣に、片腕のエックスが立っている。人格は感じ取れず、人形のよう。
「お前、まさかずっと、〝支配〟されたフリを……!?」
たじろぐメルフィスの額に妖精が触れる。そのまま頬を撫でる。
(そうして、このときを待っていた。力関係が逆転する、この瞬間を)
メルフィスは舌を噛み切ろうとしたが、妖精の指が口腔内に入ってきてそれは阻まれた。
(エックスたちを、殺していたなら。手中に収めようとなんて、しなければ。こうはならなかった)
メルフィスの瞳から光が失われる。洗脳は完了した。
(欲張りすぎたね。それはいつか、限界が来る。君の、言葉だ、メル)
城門の向こう、街から悲鳴が上がる。命の失われる音がする。
ぐしゃり、ぐちゃり。
妖精はくるくると回って喜びを全身で表す。
(これで、モンスターも、人間も、ボクのもの。みんな、ボクの、おもちゃだ)
モッカとモルガナたちは、その場にいたモンスターと〝アタラクシア〟に囲まれた。
モルガナは左腕を――〝記憶〟のエーテルをクリシチタに向ける。その石には、拷問の記憶が保存されている。
メルフィスは目に光が無いまま杖を振って、クリシチタを引っ込ませた。
(モルガナ。その左腕の、エーテル石を、くれるなら。見逃してあげよう)
「甘言と嘘は私には通じませんわよ」
妖精は愉快のあまり腹を抱えて笑う。もう交わす言葉は無くなった。支配されたモンスターと洗脳された冒険者たちが、サーウィアへ侵攻する。
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