底の星から

Aiinegruth

第1話 送 

 月にはウサギがいるという。


・・・・・・


 うっかり足を滑らせる夢を見たことがある。

 何処までも落ちていって、誰も知らない星に辿り着く夢を。

 夜を裂くエンジン音。首を左右に振って、アクセルペダルを強く踏むと、山道の疎らな街灯が窓の外を過ぎ去っていく。視界の左端には一週間前のペットボトルのお茶が揺れるドリンクホルダー。軽自動車のハンドルを片手で握った非常に不機嫌な私は、きょろきょろと辺りを見回す同乗者を横目で睨み付ける。

 ため息と共に、後悔先に立たずという言葉が脳裏に響く。二四時間経営のチェーン店でのやけ食いを終えたのは深夜一時のことで、私と同年齢――二○代前半くらい――の黒髪の女のヒッチハイカーを拾ったのはそのときだ。

 お願いします、月の視える場所に連れて行ってください。駐車場で駆け寄ってきた女は、首から双眼鏡を下げ、片手に虫取り網を持ってそう言った。いま思えばどう考えても幽霊か奇人のどちらかだったが、夏の終わりの澄んだ風と、そのまなざしの必死さに押されるまま、私はドアを開けてしまった。その結果が――。

「うさグラビティーってご存じですか」

「知らねえよ。秋吉台あきよしだい着くまで黙っててくれる?」

「はい……。ところで、うさぴょんワームホールってご存じで」

「頼むから口開かないで」

 このストレスドライブだ。どうやら奇人のようだった。何が悲しくてこんなのを連れて夜の山道を無意味に走らなければいけないのか分からない。表情がすごくキラキラしているのがなおのことムカつく。私は小学校のとき、一週間ほど神隠しにあったらしい。何なら今度こそ完全に消えてやろうと、事故車両を作ってやってもいい勢いでやけ食いに飛び出したのに、最低限追走してくる不心得な走り屋に抜かれない速度での安全運転が強いられている。

 無駄に舗装された道路を駆ける二つのライト。隣の人間の口が効けないくらいの車体の揺らし方をしていると、窓の向こう、折り重なった雲の合間から、巨大な月が顔を出す。確か今日は中秋の名月だったか。ここまでくれば展望台まで距離はない。不心得な走り屋どもに抜き去られながら、停車したのは意外と疎らな駐車場の奥だ。

 隣の奇人は途中から生きた心地がしなかったようで、目をぱちくりさせてシートベルトを抱きしめている。震える手に握られる虫取り網は汗でべたべただ。夜風が冷静を呼び込み、ちょっとだけ後悔が湧いてくる。流石に悪いことをしたかもしれない。謝ろうとして比較的整ったその顔を見ると、目元には大粒の涙が浮かんでいて、頭には白いうさ耳が生えていた。―――うさ耳!?

「ちょ、何だお前!」

「ぴょ、じゃなかった、立派なそこの星の一員です!」

「底の?」

「人間です! これ名刺です! じゃあ、私は保護に向かうので」

「まてこら」

「ぴょーん」

「ぴょーんって言った!」

 追いかけることは出来なかった。女はシートベルトを外してドアを開けると、道路を一回の跳躍で飛び越えて、駐車場の向かいの草原に降り立った。ありがとうございましたー! お礼をするのでそこにきっと来てくださいねー! と手を振って走っていくその影が見えなくなってから、手渡された一枚の紙に目を落とす。


 ペットショップ『MOHUMOHU』

 臨時店長、夜祭祈子よまつりいのりこ

 

「いや住所とか書いてないじゃん」


 ・・・・・・


 何か建ってた。あれからコンビニでビールを買って家に戻ると、丁度正面に位置する公園に、ラブホテルにも似て煌びやかな看板をきらめかせる店が鎮座している。『MOHUMOHU』。目を落とした名刺が、自己主張激しく小刻みに震える。私は頭を抱えた。うさ耳の人間も、突然公園に生えてくるペットショップも現実的に有り得ない。夢だ。これは恐らくさっきのチェーン店かどこかで見ている夢に違いない。

「――そうですか、事情は分かりました。うち、ルナドロップしかいないんですけど、そうだ、この子とかどうですか。あなたに興味津々みたい。かわいいですよ」

「いや、何にも分かってないし。私は別にウサギとか――うわっちょ」

 致し方なく入店して数分の問答の後、私は腕のなかの白いモフモフの生き物を落としてしまわないように抱きながら、眼前の女――夜祭祈子よまつりいのりこ――に抗議の眼差しを向けていた。うさ耳はどういう原理か、綺麗な女性然とした黒髪の下に隠れている。私の夢の登場人物の分際で、私よりちょっとスタイルが良いのが腹立って来る。強く踏みつければ、軋みを上げる木張りの床。頭上、巡らされた梁のランプで照らし出されるダンスホールほどの大部屋には、向かい合う私たち以外に、同じ種類のウサギが入ったケージが両手の指の数より多く置かれている。白い毛と赤い眼、典型的な見てくれをしたそれらはルナドロップという品種で、ここにいるのは全て保護された個体らしい。

「その子はちょっとうっかりさんなんですよ。こっちの子はおっちょこちょいで、あっちの子はあわてんぼうで、今日拾った新入りの子はぼんやりしています」

「みんなダメじゃん。って聞けよおい」

 久し振りに実家に戻り、来る月曜の午後からの仕事を控えた日曜の夜。自堕落気味に数日を過ごし、やけ食いをしに外に出たから、こんな付き合いきれない脳の空想に巻き込まれることになるのか。祈子はひととおり微笑ましそうな顔をしたあと、シャーっと威嚇する私からもふもふを引き取って、部屋の奥の一面にあるテーブル席を勧めた。ペットショップには似合わない飲食の場所があるようで、あ、上がるとき靴脱いでくれると助かります、と飛んできた言葉通り、膝の高さほどの段差がスペースの区別になっている。

「うちコーヒーはたくさんあるんですよ、何にします?」

「帰ります。明日仕事だから」

「えー、そんなこと言わないで、一杯だけ! 一杯だけ!」

「……種類とかわかんないんで一番眠くならなくないやつ下さい」

「待ってました!」

 目覚める方法が分からないので、抵抗が出来ないのが悔しいところだ。ウサギをひょいっと頭に乗せた店長は、慣れた手つきでコーヒーを惹き始める。彼女の頭上の白いもふもふは、身体が揺られる度に慌てた様子でえっちらおっちらバランスをとっている。テーブルについてみているこっちがひやひやしていると、数分たったあたりで、祈子はこまったようにこちらを向く。

「やっぱり、この子持っててくれます?」

「ケージに入れとけばいいじゃん!」

 残念ながら、ウサギは元の檻には入らなかった。餌を借りて誘導しても、腕力でひっ捕まえて叩き込もうとしても、白さそのまますっと手から抜けて、今度は私の膝の上に収まってしまう。ほかの従業員を呼べといったが、えーいま深夜二時ですよ、店長以外残ってると思います? と圧倒的にムカつく返しをされる。突飛な悪夢が常識を説くんじゃない。だいたいルナドロップとか聞いたことがない。有名なのは、ネザーランドドワーフやアンゴラだろう。ウサギの品種すら怪しい空想が私に厄介を強いるな。韋駄天もふもふとの何回かの攻防の果てに疲れ果てた私は、そのままにしておくことにした。もう追いかけてこないのを悟った白いのは、我勝利せりというような自信満々の顔をして、私の膝の上に収まった。

 太ももの辺りで寝転がるウサギ。その温かみには覚えがあった。途端に重苦しい感情が胸にせり上がってきて、私は何度か荒い息を吐く。思い返されるのは、この三日の出来事だ。そうだ。こんな夢を見ている場合ではない。よりにもよって、いま、ペットシップにいるなんて夢を。

「随分気に入られましたね」

「ウサギは飼いませんから」

 喜ばしそうにこちらを見る店長に、私はコーヒーを飲みながら、改めてきっぱり口にした。一昨日一日中泣き通してなくて、昨日自堕落に過ごしていなくて、やけ食いなんてしていなくて、脳がまともに働いていたら、こんな最低な悪夢を見ることはなかった。

 そうだ、あの子の――ペットのねこの――葬儀を終えたのは、一昨日の話だ。

 貰って来たのは確か中学一年生のときだった。小さくて、少し不愛想な姿に心を惹かれた、近場の大学へ行き、そこからうっかり県外のブラック企業に就職して、離れ離れになった。十分にかまってやれるほど頻繁には会えなかった。疲れ果てた夜に届くメールの写真ごとに老いていくのを眺めて、私の祖父たちとどちらが先になるかどうかは、私には分かり切っていたはずなのに。思い返す。あんなに一緒に遊んだ子供部屋は、高校のころのままだ。葬儀しかしてあげられなかった。彼女の一生の半分を家族に任せて、私はほかに何も与えられなかった。

「ルナドロップは」

 言葉を続ける女に怒鳴りつけようとして、喉が詰まっていることに気付いた。溢れ出した涙が止まらないことにも。コーヒーカップを零さないように置くまでが限界だった。私は突っ伏して、何度も机を叩いた。それはあらゆる後悔と、自分への怒りによるものだった。

「愛された子が亡くなって近しい一晩だけ、月の仲間に頼んで、こころを呼び戻すことができます。どうか、いま、その子の名前を呼んであげてください」

 自分の荒れた呼吸音のなかでも、祈子の声はしっかり聞こえてくる。ふざけた夢だ。馬鹿げた夢だ。不謹慎な夢だ。それでも、涙を拭って顔を上げる。私は、何故か呼ぶことを止められない。


「……コタマ」

 にゃん


 呼吸が止まった思いがした。瞬きののち、ゆっくりと視線を降ろす。木張りの机を映して、そのした。私の膝の上のそれは、もう白くなかった。茶色の毛に首元の黒ぶち。どの種でもない、ミックスのそのねこは、一昨日私が別れを告げたはずの、コタマだった。

 普通のねこと違って私の膝の上が好きだった。コーヒーの香りに引かれて寄って来た。襖を爪とぎで三枚ダメにした。あのコタマだ。止まらない涙をそのままに目を見開いて視線を送ると、店長は静かにうなずいてコーヒーを飲み始めた。いつの間にか、窓からは月光が差して足元を照らしている。

 私はコタマを抱き上げ、話した。大学のことを、会社のことを、ほか一杯の伝えきれなかったことを。コタマは黙って聞きながら、髭を震わせたり、長いあくびをしたりしていた。その一つ一つの行動が愛しくて切なくて、私の言葉は留まることを知らなかった。時間は多くない。毛の色が徐々に白く戻っていって、耳が少しずつ長く戻っていく。もうほとんどウサギに戻った段になって、私は祈子に向けて視線を向けた。ウサギは膝から撥ねて、店長の前に座ると、きゅん、と鳴いて傍に寄る。

 途端、祈子はうさ耳をぴょんっとだして泣き出した。いままで迷惑にならないように我慢していたらしい。うわぁああん良かったですと抱き着いてくる彼女に、私はまた涙が決壊して数分間身動きが取れなくなった。

「し、失礼しました。すみません。せっかくなので、この子の見送りを手伝ってくれますか」

 気持ちを落ち着ける。淹れなおして貰ったコーヒーを飲み、ペットショップの入り口扉を潜ると、そこは公園ではなく、草生した丘の上だった。なだらかな地平の果て、踊る星々の最奥。雨が染みて露の残る葉の上に、大きな月が浮かんでいる。店長の足元に居たウサギが機敏に飛び出し、自分の身体と同じ色の星を見上げて鼻を動かしている。

「ルナドロップは、うっかり落ちてきてしまった月のうさぎなんです。月に去る誰かとこころを繋げた夜にだけ、仲間たちの場所への帰り道を思い出すことができる。今年は、迎え三匹、送り七匹。これで、残り一五匹になっちゃって少し寂しいですが、お別れです」

 アルビノの目が振り向く。そして、鼻を震わせて小さく鳴く。いくつかの言葉をかける女性が立っていられるように支えると、白いモフモフの小さな身体は、故郷に向けて腰をかがめた。

「もう、落ちて来ちゃだめだよ。行っておいで!」

 整えて、言い聞かせるような語調が響き渡ったあと、うさぎは跳んだ。大地を揺らす振動。髪と葉を巻き上げる風。水の雫と涙が混ざって、夜に浮かんだ虹の光彩。そのなかに軌跡を描いて、一直線に進んでいく白い後ろ姿が、私の憶えている最後の光景だった。




 ・・・・・・


 目が覚めると実家の駐車場に停めた車のなかにいた。助手席には、ぬるくなったビールの箱が置かれている。月曜日、午前三時一五分。確認のために開いたスマホから目を外して、大きく息を吐く。どこまでが現実で、どこからが夢なのか、私には分からなかった。分からないまま、ドアを開けて走り出した。何もない公園で立っていると、雲の狭間からそれは視える。中秋の名月。星の海の最も手前に浮く白に、声を飛ばす。

「またね、私頑張るから!」


 息を整えて見れば、力強く握ったままの名刺が書き換わっている。



 底の星から、アルネブドロップ。

 また会いましょう、夜祭祈子。


 ・・・・・・


 月にはウサギがいるという。

 たぶんきっと、ねこも。

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