日常に非ず!
西住 晴日
出会いに非ず!
一
「『自分』とあるが、この後李徴は自らのことをなんと言っているか。はい、紀美さん……紀美さん?ちょっと、寝ないでください!」
私から快適な居眠りを奪ったのは妙にかわいらしい声の美人女教師だった。いつのまにか頭を隠していたはずの教科書がなくなっている。先生に取り上げられていた。
「今日はこの列に聞くと先日言ったはずなんですけど……早く答えてください」
頭の片隅にあった情報がヒットする。確かに、言っていた。
しかし答えろと言われても、そもそも私は李徴が役人だったところまでしか読んでいない。推測するしかなかった。
人称の変化を聞いてくるということは、李徴は立場が変わったのだろうか。一役人から皇帝はとんでもない大出世かもしれないが、仕方ない。これしか思いつかない。
「えっと、じゃあ……朕」
遠くの席で静かな笑い声が起きた。どうやら違うみたいだ。私が口をまごつかせていると、先生は心底呆れたというような顔で言った。
「『俺』です。ずいぶん出世しましたね、李徴。もういいです、次……ああ、紙子さんなら大丈夫ですね。じゃあその隣の問題、どうですか?」
「はい。なぜ虎になったのかと疑問に思っていたが、やがてなぜ自分は人間になったのかと考えるようになって絶望したから、です」
先生は一言、そうですねと言って黒板に解説を書き始めた。相変わらず破滅的な字だが、洗練された色使いでなんとか持ちこたえている。
私は周囲からの視線を感じるような、感じないような、そんな気持ちを抱きつつも、前の席の麗しい黒髪ロングヘアを見るともなく見た。
彼女、紙子ゆりとは一年生のころ同じ文芸部員だった。といっても彼女は月一でしか来なかったし、来てもずっと本を読んでいたから話したことはない。二学期に私が退部してからは顔を合わせてすらいなかった。
放課後になるとそそくさと下校してしまうので彼女も辞めたかもしれない。
私はチョークが黒板を叩くリズミカルな音を聞きながら規則正しい罫線が引かれた白紙のページを見つめてそんなことを考えていた。
今からあの板書をまとめていくのは現実的じゃない。ペンを握る気が失せたのでふと顔を上げて窓の外を見た。
そこには『私が夏の日常代表です!』とでも言わんばかりの誇らしげな雲一つ無い晴天。そのまま見ていると吸い込まれそうになるほどだった。
私は目をそらした。
二
キーンコーンカーンコーン。
四時限目終了の鐘が聞こえた。同時に昼休み開始の鐘でもある。これって確かビッグベンの鐘の音が基になってんだよな、と昨日やってたクイズ番組を思い出しながら私は机の上にちらばっている文房具たちをつまんで筆箱に放り入れた。
「期末テストが終わったからといって気を抜かないように。特に君たち二年生は浪人すると苦労しますからね。この夏休みは有意義な夏休みにしてください。はい、じゃあ今学期の現代文お疲れ様でした。号令はいいです、休みにしてください」
先生がそこまで一気に話して教室を出てしまうと、ボリュームのつまみをゆっくり回すように周囲はだんだん騒がしくなった。
『気を抜かないように』の部分で私を一瞥したのは、まあそういうことだろう。というか、気を抜いてはいない。昨日深夜三時ぐらいまで買いためていた怪談本を読んでいただけだ。夏休みのために買ったのに、もう三割ぐらい読んでしまった。
私は早々に昼ご飯を食べ終え、登校中にコンビニで買った某オカルト雑誌を机に広げた。表紙の目は読者に恐怖感を与えないよう女性の目にしているらしいが、私にとっては十分恐い。あまり人の目が好きではないのだ。
パラパラとページをめくっていく。ロシア、UFO、サマージャンボ、ビッグフット、怪談……
そこで手を止めた。やはり夏は怪談で涼むのが良い。古風な中学生からの習慣だ。
『現代版幽霊井戸?深夜のコンビニに飴を求めてやってくる女』
こういうタイトルから想像を広げるのもまた一興である。その想像を裏切るどんでん返しがあればなおよし。さあ、読むぞ――
と、その時、誰かが私をじっと見ていたことに気づいた。見下ろしているのか、上の方から視線を感じる。顔を上げてみると、そこには立ってこちらを眺める紙子ゆりがいた。彼女はこちらに気づくと、机のオカルト雑誌から目を離して私の方を向いた。視線がぶつかる。すぐに目を逸らしたが、彼女の瞳には好奇心と、歓喜が宿っていた。
ダァン!!
「ひっ……!」
思わず声が漏れる。彼女はその真っ白で華奢な手からは考えられないほどの力で私の机を叩いたのだ。鈍重な音が響き渡り、机が揺れた。さっきまで騒がしかった教室が嘘のように静まり返った。視線はすべて、もちろん彼女に注がれている。しかし彼女はそんなのお構いなしに、マスク越しでも分かるハッピースマイルを顔に浮かべながら興奮気味にまくしたてた。
「はじめましてあたし紙子ゆりあなたもそういうの読むんだぁ……!私もだよ!っていうかあなたUFOって実在すると思うあぁえっと米軍の公式用語としての未確認飛行物体っていう意味じゃなくて空飛ぶ円盤U.F.Oの方なんだけど紀美さんあなたどう思う!?!?」
あまりの情報量に私の脳は処理落ちしてしまった。この場にいた者全員も、同じくフリーズしていた。こういうときどんな顔すればいいのか分からないの、と心の中の綾波レイが言っている。自分でも分かるぐらい私の顔は引きつっていたと思う。
でも、誰も真面目に取り合ってくれなかった『オカルト趣味』の仲間がいた事実は、正直嬉しかった。たぶん、系統は違うけど。
とにかく、何か返事をしなければ。
処理落ちした脳にムチを打って精一杯回転させた。会話の始まりが唐突すぎていつものパターン構築は不可能だったが、ひとまずYESかNO、どちらかの意思を示せばこの場はもつと思った。私はYESを選択した。
「あっ、えっと、えっと、私は実在すると思……いますよ?あの、空飛ぶ円盤って……」
言い終わるのを待たずに彼女はもう一歩前に出て前傾姿勢をとり、顔を近づけた。吐息がかかりそうなほどの距離に私の顔がみるみるうちに赤くなるのを感じた。湿度との相乗効果でまるでサウナにいるみたいだ。
中学生のとき、私を救ってくれた親友の姿を彼女に重ねた。あのときもこんな感じで強引に引っ張り出してくれたのだ。
そして、彼女はその透き通るような美しい目をギラッギラに輝かせ、興奮度を上げてこう言った。
「だよねぇ!!あたしあなたと一緒に
言ってる意味はよく分からないけど、いっそのこと彼女にも心を開いていいんじゃないかと思った。それに、そうしようとした。
「ごめん……離れて……ほしい」
コミュ障が祟った。違う、こんな人目の多い場所じゃなくて別の場所で話そうという意味なんだ、と届かない声で言い訳したが無駄だった。
『離れてほしい』舌にしばらく残って消えなかった拒絶の言葉、自分の心と相反する正直じゃない言葉。
心臓をギュッと掴まれたような気がして、彼女の顔を直視できなかった。
「なんで……ん?」
彼女は自分に集まる視線に気づいたらしく、クラスメイトの顔を端から端まで一通り観察してようやく教室に漂う異様な空気を知ったようだった。それから私の顔を見て、よっぽど泣きそうな顔だったのか、彼女は顔を離して席に着いた。
「本当にごめんなさい、一人で盛り上がっちゃって……気にしないで」
心底申し訳なさそうな顔で彼女は言った。
腹の底で後悔が煮えたぎる。
人から業務連絡以外で話しかけられて嬉しいはずなのに、どう返事するかにいっぱいいっぱいになってしまった。来る者を拒んで、突き放してしまった。
口を開いて声帯を震わすだけなのに、私にはそれがはるかに困難なものに思えた。
それからたっぷり間をおいて、誰かが中断していた会話を再開した。つられるように他も喋りだし、教室はいつもの騒がしさを取り戻した。
私はノートにペンを走らせている彼女の寂しげな後ろ姿をボーッと眺めていた。
窓の外は相変わらずの晴天だったけど、いつのまにか地平線のあたりにやけに立体的な入道雲が現れていた。
どうすることもできず、私は膝で手をもじもじさせていた。
「あのっ……紙子さん!」
後に続ける言葉も知らないで、私はただ彼女の名を呼んだ。手を止めた彼女は振り向かずに言った。
「……何?」
痛い声色だった。まるで傷つくのを恐れているような。それでも私は続けた。
「探索!私で良ければ!」
膝にあった手は、彼女の前へ差し伸べられていた。
「放課後、また話そうよ」
手汗で濡れた私の手を取り、彼女はニコリと笑ってまた前を向いた。
五時限目の予鈴が鳴った。
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