別れ
「多華子さん、おはよう」
「大家さん!おはようございます」
「今日はあなたに大事なお話があるの」
「え?」
「ちょっと私の部屋に来ていただける?」
「はい」
大家さんの部屋に入るのは初めてだ。ドアを開けた瞬間、懐かしい香りがした。本棚にぎっしりと入っている古い本の所為だろうか?
「さあ座って。お茶をお持ちしますね」
そう言って大家さんが出した湯呑みを見て、多華子は驚いた。
「大家さん、この湯呑み…」
「ええ、良い湯呑みよね。昔誕生日にもらったのよ」
「そうなんですか」
一口飲むとやはり、優しい味がした。
「良いかしら?多華子さん」
「はい」
「実はそろそろ新しい方が引っ越して来るの。簡単に言えば、その方をよろしくね、ってことよ」
「え?どうして?」
「私の体の調子が最近良くないのよ。それで少し入院することになったの」
「そんな!」
「そんなに悲しい顔をしないで。必ず治るそうだから戻っては来るだろうけど、しばらくここの方々をよろしくね」
「大家さんがおっしゃるなら体のことは安心です。でもなんで私なんですか?」
「まあ、あなたは気づいていないの?」
「え?」
「…少し私の話をするわね。私は戦争中にこの顔の傷を負ったの。同級生は皆、私をいじめてきたわ。「傷が気持ち悪い」「醜い」ってね。でもある日私を庇ってくれた男の人がいたの。そのいじめっ子達を一喝した後に私の傷をさすりながら言ってくれたわ。「私が、あなたを守ります」ってね。私の夫よ」
大家さんは仏壇の方を見つめ、その顔が少し赤くなるのが分かった。
「このアパートはね、夫が遺してくれたものなの。私がここで大事にしていること、それはどんな方も受け入れること。こうゆう安くて最低限の生活しか出来ないアパートに来るのはどうしてもお金に困っている人が多いわ。そうゆう人達にはね、どうしても社会で上手くお金を稼げない人が多いのよ」
そうしてチラッと多華子の顔を見た。
「もしかして気に障ったかしら…」
「いえ、自分も実際はそうですから」
「夢を追いかける、自分の信条を守る、自分に忠実に生きる、そんなことが難しいのが今の世の中よ。だからね、このアパートはそんな人達が生きやすい場所にしたいの。そしてそのためにはね、私に対して心を開いて、なんでも言い合える関係にしているの」
「最初のお話で?」
「そう」
大家さんは大きく頷いた。
「これからはそれがあなたの仕事」
「ちょっと待ってください。どうして私なんですか?」
「まあ、あなたが来てからよ。香ちゃんがあんなに楽しそうなのも、木下さんが佐藤さんをあんな風に説得したのも、皆あなたの姿を見てのことなのよ」
「…そうだったんですか。でも私、本当はどうやって接したら良いか?とか何も考えていないんです。ただ直感だけで…」
「それが一番大事じゃない。変に思索を巡らせるから企みっぽくなってしまったり、わざとらしくなってしまったりするの。直感のままに言えるのが一番良いのよ」
「…はい」
「私は最近ボケて来ちゃったからね、あまり自分の出す答えに納得出来ないのよ。多分相手も納得してない。それでもあなたが言ったことがその人を救っているのよ。…あら、今もなんか変だったような…」
「…大家さん」
「あの時、言うべきだったことを言えなかったかたり、上手く伝えられないことが多くなったわ。今こうして佐藤さんがまた夢を追いかけているのも、元を辿ればあなたが居てこそなのよ」
「…大家さん」
「とにかく私が病院に行くことは決まっているの。だから多華子さん、あなたにお願いしたいの」
多華子はしばらく下を向いていたが、決めたようだった。
「分かりました。やります」
「ああ、良かった。本当に良かった!ありがとうございます」
「大家さん、また戻ってきてくれますよね?」
「勿論よ、あなたの健闘ぶりを見に、必ず戻ってくるわ」
そう言って立ち上がった大家さんの体は確かに少し曲がっていた。
「大家さん、ありがとうございます。私、頑張ります。必ず、必ず戻ってきてください」
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