場面緘黙
ラビットリップ
第1話 配偶者が政治家
机上に、また要らぬ紙が置かれている。
“県議会議員・徳永良子後援会入会申込書”
二週間前もふてぶてしく平置きされていた。
誰だ、職員室でこういうものを配っている人は。
楓がごみ箱に捨てようとした時、右斜め後ろから声が飛んできた。
「森川さん、ちょっと印刷室にいいかな。」
同じ一年所属職員の大川が手招きをしている。
楓はいったん紙を捨てるのを止め、印刷室に向かった。
期末試験前とあって、印刷室は様々な科目の問題用紙や解答用紙が、乱雑に置かれていた。
「何かありましたか?」
「いやいや、ちょっとこっち座って。」
大川に勧められるままに、印刷室奥にある、テーブルセットに腰掛けた。
「机の上にさ、後援会入会の紙が置かれていたの、分かった?」
「はい。」
「そろそろ、入会してくれないかな?」
「ん?」
「森川さんさ、今年、正規教員になったばかりで右も左も分かんないと思うから説明するけど、あの人はね、僕たち教職員の要望を中央に届けるために、教職員組合から推薦して、県議会に送り出している人なんだ。僕たち教職員のために、徳永さんは県議会で頑張っているんだ。」
大川は、徳永良子という人について語り始めた。この女性は元々中学校の教員だったという。大川も八年前に同じ学校で勤務したことがあるそうだ。国語の教師で生徒と職員の信頼も厚く、素晴らしい先生だったらしい。
「勤務してみてわかったと思うけど、教職員の世界って、思いっきりブラックじゃない。どれだけ現場で働いている教職員が、この労働実態はおかしいと声を上げていても、中央にはなかなか届かない。だから教職員組合の中から、人材を政界に送り出しているんだ。そして僕たちの要望を実現するために、中央で頑張ってもらっているんだ。それが徳永良子さんなんだ。これを見てよ。」
大川はチラシを広げた。それは徳永良子が発行している後援者向けの政務報告書だった。
「この人は当選してから、まずは特殊勤務手当の見直しの提言をしたんだ。森川さんもさ、ソフトボール部の顧問として、土日が部活のこともあるでしょ。部活指導手当の支給額が増えるよう、この方は中央で声を張っているんだよ。あとは三十五人未満学級への提言。森川さんも今年初めて担任をして、大変な思いをしたでしょ。人件費がかかるから、なんとか抜かして、三十五人以上の学級にして、現場で頑張れ!昔は五〇人学級だったんだからな、とか言う団塊の世代の人たちもいるけど、無茶苦茶だよね。時代が違うんだよ。今の時代はLD障害やADHDなど発達障害の子が混じっていてさ、一人一人の対応が大変なんだということを、知らない人が多すぎる。こういう現場の声を中央に届けて、提言をしてもらっているんだ、徳永さんには。」
今、教職員組合では、組合内部からこの徳永さんに続く人材を発掘しようと、声かけや育成にと躍起になっているという。
「市議会議員の中にも、番場清太郎という人を送り込んだんだ。この人は元小学校の教員。この方にも現場の苦悶している声を届けてもらうために頑張ってもらっている。四〇代前半の若手で、熱血漢あふれる人だったし、仕事ができる有能な人材だったから、組合から頼み込んで出馬してもらったんだ。」
大川は番場清太郎の後援会入会申込書も広げ始めた。モノクロではあるが、ガッツポーズをして仁王立ちしている写真は、元教員と思えないほど、政界の水になじんでいるように見える。
徳永良子の後援会入会申込書にあった、徳永の写真も、元教員には見えなかった。政治家独特のきな臭い作り笑顔が鼻につき、すぐに捨てようと思ったくらいだ。
「四月二十九日に、県議会議員と市議会議員の選挙があるでしょ。それに向けて彼らの応援に力を貸してほしいんだわ。彼らが再選を果たしたら、僕たちの要望をまた中央に継続して届けることができる。どうかこの二名の後援会に入ってよ。」
楓はじっと、番場清太郎の後援会入会申込書を眺めた。すると大川はその横に、さっき楓が捨てようとしていた、徳永良子の後援会入会申込書を広げた。
「何枚も持っているんだ。僕も組合員だからさ。」
大川は、さっき楓が捨てようとしていた瞬間を目撃していたのだろう。だから、わざわざ印刷室まで呼び立てて、説得工作を図ろう閃いたのだ。
「あの、1つ聞いていいですか?」
「何でも、どうぞ。」
楓は先ほどから引っかかっていた疑問をぶつけてみた。
「徳永良子さんって、中学校の教員だったんですよね。」
「そうだよ。」
「今、本校にいる、徳永謙治先生の奥様ですか?」
「ビンゴ!よく分かったね。」
教員の世界は同業者同士の結婚が多い。つまり忙しいから出会うチャンスに恵まれず、必然的に職員室が出会いの場になっているというものだ。徳永なんてあんまり見かけない名字だし、もしかしてと思ったら、案の定そうだったか。
「森川さんの指導教諭、徳永謙治先生の奥さまだよ。徳永先生も、しっかりした嫁さんがいるから、仕事邁進できるんだね。羨ましい限りだよ。」
大川はあくまで営業スマイルを崩さない。組合員は、組合から出した二人の政治家に対する後援会入会に関し、ノルマでも課せられているのだろうか。
そこまで押しが強くないから、それはないだろうとは思うが・・・。
「別に後援会に入会してなくても、選挙の際にこの二名の名前を書けばいいんですよね。大川先生がそこまでプッシュされる方なら、来月の選挙の時、私、名前を書きますよ。」
「楓ちゃんね、入会しておいた方が、何かと自分にとっていいよ。」
大川という人は、いかがわしい話をするとき、必ず馴れ馴れしい呼び方を引っ張り出す。
「何がですか?」
大川は印刷室に二人以外、誰もいないことをさっと確認し、顔を極端に近づけてきた。
「なんだかんだ言っても県議だよ。後援会に入っておけば、人事異動の際に要望を聞いて貰えるかもしれない。楓ちゃん、独身者は優先的に“島流し”があるって聞いたことあるでしょ。」
能登島とか、そういうことか。東京都の教育公務員になると、少なくとも三年は式根島や三宅島、小笠原諸島に赴任しなければならないという話を聞いたことがある。嫌がる職員も多いことから“島流し“と呼ばれている。
「はい、東京都で教育実習を受けた時、赴任校で教えて貰いました。」
「それなら話が早い。」
家族総出で、島に赴任してもらうのはとしても金銭的にも負担が大きいから、独身者を優先的に赴任させるのだという。
「それを阻止する力もあるんだよ。」
ほんまかいな。
楓は口元だけ笑っている大川の顔をじっと見つめた。
確かに島に赴任する人は独身者か、マリンスポーツが趣味の人ばかりだとは、噂で聞いたことがある。稀に要らんことをした職員を本気で流す場合もあるらしいが。しかし人事異動を阻止できるほどの力があるようには見えない。この胡乱な顔立ちから推測してものを言って申し訳ないが。
「山奥に飛ばされそうになった職員も、後援会に入っていたことで、上手く回避できたという話を聞いたことがあるよ。楓ちゃんには、これからも長い教員人生が待っているんだよ。少しでも気分良く送りたいじゃん。まぁ保険みたいなもんだよ。」
大川は利用できるモンは利用しなきゃね、と大口を開いて笑う。あと五年の教員生活だという大川も、県議を上手い具合に利用し、教員生活を送ってきたのだろうか。
「貴重なお話をありがとうございました。じゃあ、ゆっくり検討します。」
楓が二枚の入会申込書を持って立ち上がると、
「できれば早めに記入して僕まで頂戴ね。入会金なんかないから、ここに住所と電話番号と名前を記載するだけでいいから。」
と大川は笑顔を崩さず言葉を投げてきた。こういう風に言うということは、楓が入会しないということはありえない、と踏んでいるからだろう。楓は大川に軽く会釈して、職員室に戻った。
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