【長編】黒曜の聖騎士【完結済】

Chapter 5-5

　時間が止まった。

　勿論そんなものは錯覚であり、影は変わらぬ速度と威力を伴って空を切り、竜成へ迫る。竜成は瞬時にそちらへ視線を戻すと、聖剣を持ち上げ刀身を眼前に翳す。それは彼奴の蹴りの射線上であった。単純な軌道で竜成へ肉薄していたそれは、引き合うかのように聖剣と激突した。

　この時、竜成の手にははっきりとした手応えがあった。衝突の反動で竜成の足が後ろへと滑る。半面、彼奴は10tトラックに跳ねられたのように遥か後方へと弾き飛ばされていた。

　竜成は聖剣を両手で構える。見た目ほどの重さは感じない。そういう素材でできているのか、それとも聖剣に付随する加護か何かの恩恵かは分からないが、それでもその軽さに反比例するかのような安心感がある。

　聖剣の力は絶大だった。これがあれば彼奴を打倒するのは容易い。運動能力の差を考えればこちらから動くのは不利だろうが、彼奴の動きは単純にして明快だ。聖剣を盾に攻撃をいなし、カウンターの一撃を叩き込めば勝敗は決する。最早竜成の脳裏に敗北のヴィジョンは殆ど視えない。

　しかし、構えたままの竜成が動けないのはそれだけが理由ではない。胸に引っ掛かっているのは無論、先程のサツキの言葉である。

　彼女の言を信じ込んだつもりはない。が、妙な説得力に、虚言・妄言の類だと切り捨てる事ができない。

　頬を冷や汗が流れるのを感じた。彼奴を斬れないなら、この場をどう切り抜ける。妙案が浮かばず、竜成は動けずにいた。コンクリートの床を転がった影が立ち上がり、残された腕を振り上げて猛然と迫り来る。身構える竜成は、ここでふと違和感を覚えた。それが何かも分からない内に、

「くくく、悪い、戯れが過ぎたな。この場は取り敢えず、私が何とかしてやろう」

　と、サツキの声がすぐ傍から聞こえた。彼女の姿はいつの間にか、竜成の隣にあった。

　訝しむ竜成の視線も気にせず、サツキは一歩前に出て腕を前方へ伸ばす。指を鳴らす。すると弾かれた指の先から飛び出るかのように、サツキと竜成の周囲を覆い尽くす魔法陣のようなものが発生した。

　竜成はこれを見て合点がいく。影に襲われた時、竜成が発生させたものを魔力障壁と呼ぶなら、これは魔術障壁と呼ぶべきものだ。

「――――――――――――！！」

　声ではない咆哮で大気を震わせながら、影は障壁を殴り付けた。その名を冠するに相応しく、魔術障壁は彼奴の殴打を受けても消滅する事なく、サツキと彼奴の間を隔てる壁として敢然と立ち塞がっていた。

　だが、それで終わりではなかった。彼奴はその攻撃を阻まれこそすれ、弾き返されたりはしていない。竜成にはその理由がすぐに分かった。彼奴は、聖剣以外ではダメージを受けない。つまり魔術障壁を前に物理的に止まっているに過ぎないのだ。

　ものともしない訳ではないが、彼奴は自身の特性を利用して障壁を力任せに突破しようとしていた。拳が徐々に障壁へとめり込み、貫通し始める。

「ほう？」

　だと言うのに、術者であるサツキは喜色の笑みを浮かべていた。

「なら、これはどうかな？」

　サツキはもう一度指を鳴らす。すると今度は、障壁が影の拳に纏わりつくかのように収束する。

　更にもう一度。影の腕が自動的に振り上げられ、固定される。更に腹部、両足に新たな魔法陣が現れ、彼奴を拘束する。その状態で彼奴の身体が宙へと浮かび上がった。何の支えもなく宙吊りにされた彼奴は、身動きすら取れなくなっていた。

「……終わり、か？」

　戦闘終了の様子に竜成が問うと、サツキは首を横に振った。

「いや、抜け出すのにそう時間は掛かるまい。一時凌ぎに過ぎんさ」

「ならどうする？　こいつを倒すと俺が死ぬんだろう？」

「そうだな……。どちらにしろ一時凌ぎだが……」

　サツキは更に指を弾いて鳴らした。影を捕らえる魔法陣の全てが、彼奴の内部へ吸い込まれるようにして収束、消えてなくなってしまった。影はそのまま、重力に従って床に落下する。

　拘束具がなくなり影は自由を取り戻したように思われたが、床の上に落ちた彼奴の身体はタールのような姿に変貌し、床の中に溶けていなくなったのであった。

「逃げたのか……？」

「一先ずはな。だが先のアレは、奴の存在そのものを縛る楔のようなものだ。一見自由になったように見えるが、暫くは鳴りを潜めているだろう」

「……そうか。正直よく分からんが、大丈夫なんだな？」

「心配するな、と言いたいがまあ、無理もあるまい。私の店へ案内しよう。積もる話はそこでしようじゃないか」