時の追いかけっこ

伊尾 微

時の追いかけっこ

「もうすぐ八月も終わるな」

「そうですね」

 空調の効いた空き教室で、私と先輩は何気ない言葉を交わす。

 今日は八月三十一日。もうすぐというか、今日で八月は終わりだ。何気なく、私は窓の外へと視線を移す。秋というにはまだ早いけれど、確かに夏が遠のいていくのを感じる空だ。

 夏が終われば、あっという間に季節は過ぎる。

 今年度で高校を卒業となる先輩は、この先どうするのだろう。

「先輩受験生ですよね。良いんですか、こんなところにいて」

「良いも何も、俺には受験なんて関係ないんだ」

 ふっとニヒルな笑みを浮かべた先輩は、座ったまま身体を仰け反らせて伸びをした。そして、大きく息を吐きながら肩の力を抜く。

「進学じゃなくて、就職?」

「働けるわけないだろ、俺が」

「ですよね」

 当然のように私が答えると、先輩は眉を顰めて弱々しく笑った。

 こうしてこの場所で、先輩の笑った顔を見られるのはあと何度のことなんだろう。

 そう考えると同時に、私はここで先輩と過ごした時間の幸せを嚙みしめる。あの時の私の選択がこれまでの時間をもたらしたのだから、我ながらファインプレーだ。

 私が感傷に浸っていると、先輩はこほんと咳払いして私の視線を自分に向けさせる。姿勢を正し、目を瞑った後一呼吸してから、先輩は口を開いた。

「俺さ、八月が終わると帰らないといけないんだ」

「……どこにですか?」

「未来に」

 今度は先輩が、当たり前のように答えた。

 普通に考えれば、当たり前どころか現実味もない荒唐無稽な返答だ。けれど、私はそれを受け入れる。受け入れるしかなかった。

先輩が、あまりにも寂し気に笑うから。

「未来って、またありきたりですね。何かの絵でも探しに来たんですか?」

「いや、時かけじゃないんだから。……何気なく過去を旅しに来て、偶然お前と出会った。居心地良くて、帰れなくなったんだよ」

「やっぱり時かけじゃないですか」

 私は精一杯先輩のことを茶化す。卒業するには、少し早すぎじゃないだろうか。今ここでタイムリープできるなら、私はきっとそうするだろう。過ぎ行く時間がこの場面に収束するなら、私は可能上限まで何度でも繰り返すはずだ。

 けれど、私にはそんな能力もなければ、何か特別なアイテムを持っているわけでもなかった。未来に帰ると宣言する先輩を前に、どうしようもなく無力だ。

「先輩、今日で八月が終わるって知ってましたか?」

「もちろん、知ってた」

「じゃあどうして、こんな唐突に」

 抑えようとしても、動揺が声に乗って揺らぐ。

 私にだって都合があるのだ。これからやりたかったことも、行きたかった場所も、全て先輩を軸に回っていたというのに。全部台無しだ。

 私が言いたいことを飲み込んで先輩のことを睨みつけると、先輩は柔らかい眼差しでそれを受け止めた。馬鹿な先輩のことだから、私が悲しんでいるとでも勘違いしているのだろう。

 先輩の勘違いは温かい。

 先輩の言葉や思いにはいつもぬくもりがあって、だから私は時折自分のことがずるくて嫌な人間に思えてくる。

「唐突に言うしかなかったんだよ。打ち明けるかどうかすら、直前まで悩んでいたんだから。まあでも、言っておかないとお前、寂しがるだろ」

「別に、そんなことないですけど」

 言われなくても、言われても、私は同じように感じるだろう。

結局先輩は、この時代からいなくなってしまうのだから。

「……まあ、いいでしょう。ヘタレな先輩にしては頑張ったんじゃないですか。流石の私も少し驚きましたけど」

「少しで済んでるのが恐ろしいな」

「お見通しだからですよ」

「嘘つけ」

 手元を見つめながら、指を一本ずつポキポキ鳴らして先輩は言う。何かを言うか言わまいか悩んでいる時の癖だ。まだ何か隠していることがあるのだろうか。

「お見通しって言うならさ、知ってるか? 俺、お前のことが好きなんだぜ」

「知ってますよ、私のことが好きなことくらい」

「……やるじゃないか」

 照れつつも自慢げに言っていた先輩だったけれど、凪いだ表情を見せる私に肩透かしを食らったような顔をしていた。表情や言動に心の内が現れてしまうのが、先輩の好きなところの一つだった。

「どうせ最後だしこの流れなら言えると思ったんでしょう?」

「……正解です」

 そう答える先輩の声は弱々しい。けれど、先輩の口から告白まがいの言葉を聞くことができて私としては満足だった。

「最後にそれが聴けて良かったですよ、私は」

「そうか」

 視線と視線がぶつかって、私たちは破顔する。虚勢も何もかも取っ払って、私たちは笑った。そうしたことで、私は改めて感じる。自分が先輩のことを本当に好きだったということ、私の中で先輩と過ごした高校生活が褪せることのないものになったこと。

「それじゃあ、私からも贈り物をしないとですね」

「へえ、何をくれるんだよ。いきなり言ったんだし、準備なんてしてないはずだろ」

「いえ、ずっと前から準備していましたよ」

 私は椅子から立ち上がり、机を挟んだ向かい側に座る先輩の元へ歩み寄る。私は先輩の前で少し立ち止まって、先輩の顔を見下ろした。

 これで、見慣れた先輩の顔も見納めか。

 夏だというのに、一切日に焼けた様子のない白い肌。黒くて少し長い髪の毛が肌の白さをより強調していた。上から見下ろすとまつ毛が長いのがよくわかる。本当に綺麗な顔をしているな、と私は羨ましく思った。

「なんだなんだ」

 と、私の顔を覗き込む先輩。好奇心と不安が入り混じったような表情が、私の心に波を立てる。

 私はおもむろに先輩のシャツの襟元に手を伸ばし、力強く掴む。そして驚いて硬直した先輩の胸ぐらを引っ張り上げて、私は先輩に口づけをした。

 目を瞑っていたので先輩の顔は見ることができなかったけれど、面喰ったはずだ。そしてゆっくりと先輩の胸元から手を放して、私は姿勢を正して言った。

「少し早めの卒業祝いです」

 自然とこぼれ出る笑み。そんな私の顔を見上げて、先輩は馬鹿みたいに呆けた顔をしていた。これで、ここでの私たちの物語には幕が引かれるのだ。

「先輩、未来で待っててくださいね」

 私はそのまま教室のドアへと向かい、扉に手をかけた。振り向いた先の先輩の顔はどこか清々しくも見える。少し薄暗い小さなこの教室が、私の高校生活のすべてだった。先輩が未来に帰るなら、ここも随分と寂しくなってしまうんだろうな。

「だから時かけなんだよ……」

 はあ、と先輩は俯いて大きな息を吐き出す。再び顔を上げた時、笑って首を傾げながら言った。

「じゃあな」

「はい、それでは。……好きですよ、先輩」

 ひらひらと手を振って、私は教室から出て扉を閉めた。今更焼き付けようとしなくても、私は先輩の笑顔を忘れることはないだろう。未練交じりに掴んだままの扉の引手をそっと離すと、私はゆっくり歩き出した。静かな廊下に、私の足音が響く。

 もう、振り向くことはしなかった。

 私は先輩を追いかけて、見つけてみせるのだ。



               ◇



 今でもあの頃を思い出す。

 あの頃の俺は漠然とした不安に囚われていて、ずっと何かを探し求めていた。今思えば思春期の人間なら誰しもが抱く悩みだったのかもしれない。それでも俺は耐え切れなくて、過去へ渡ることを選んだ。

 あれから三年の月日が経つ。

 俺は私立大学の経済学部へ進学し、それなりにキャンパスライフを謳歌していた。勉強のできなかった俺は、経済学を学びながらも以前から興味を持っていた絵画の制作に勤しむ日々を送っていた。

 偶然、自分のゼミの教授が俺の絵を気に入ってくれたようで研究棟の余っていた小部屋を俺の制作部屋としてあてがってくれた。当然、それは学校側にも同じゼミ生にも内密の話だ。

 パレットに出した油絵具をオイルで伸ばし、100号のキャンバスに置いていく。一人暮らしの家で描くには大きなキャンバスなので、教授が制作部屋を用意してくれたのは本当にありがたかった。

「君はいつも同じ子ばかり描いてるね」

「まあ、他に描きたいものがないですから」

 たまに教授が様子を見に来ると、毎回同じことを訊かれる。だから僕は毎回同じように答えた。本当に、それが描いていたいものだったから。

教授は大抵の場合、数分も眺めていたらいつの間にかどこかへ立ち去っている。一人でこの部屋で制作していると、ふとした時に彼女の匂いを感じることがあった。いないはずの彼女の匂いを感じるのは嬉しくもあり、やはり決定的に寂しくもあった。

 いないはずの彼女の影をずっと追いかけている。

 だから彼女はいなかったし、これからも作るつもりはなかった。


 冬の日の話だった。

 制作部屋には空調設備がついていない。当然部屋は寒く、俺は厚手の作業着を着て絵画制作に励んでいた。

 冬の日、彼女はよくクリーム色のカーディガンを羽織っていた。色素の薄い彼女にはその色がよく似合っていて、冬が来る度にそれを見ることができるのを喜んでいたことを思い出す。

 思えば、結局彼女とはあの教室以外で会うことはほぼなかった。

 あの小さな部屋で、俺たちの関係は完結していたと思うと、少しだけ面白く感じる。俺は筆を細かく動かしながらくすりと笑った。

「何を笑っているんですか?」

 この部屋で聞き覚えのない声が、俺の耳元で囁いた。

 教授じゃない、誰だ?

 俺はゆっくりと後ろを振り向く。声の主の顔を見た時、もしかしたら気づかないうちにまた過去にやって来てしまったのかもしれないと錯覚した。

「元気にしてました、先輩?」

 心臓が跳ねる。呼吸をすることも忘れて、俺は彼女の顔を見つめた。

 もう、会うことは叶わなかったはず。手の届かない思い出として、記憶の引き出しの中で静かな輝きを放っているはずだったもの。

「な……んで?」

 俺が震える声で訊くと、彼女は自慢げに答える。

「言ったじゃないですか、待っててくださいって」

「いや、言ってたけど……。どうして来れたんだ? あの時代にはまだ時間移動の技術は確立してないはずなのに」

 俺が知らないだけで、この三年でタイムマシンができたとか? それとも何かのきっかけで時間を移動する特殊能力に目覚めたとか。

 可能性が頭の中を飛び交う。けれど、どう考えても現実的にあり得ないものばかりだった。

「正確には帰って来た、ですよ」

「は……何言って……」

 帰って来た、という言葉を聞いて、俺の頭の中で思考がばちっと繋がった。

 もしかして、彼女もこの時代から過去に戻っていたとしたら?

 いや、だとして一体何であの時代に? というか、過去に渡った先で自分と同じ時代を生きる人間とたまたま仲良くなるなんて、そんな偶然あるのか?

「色々訊きたいことはあると思いますが、まあ先輩の頭に浮かんでいることで大方あっているよ思いますよ」

 俺の頭の中を読んで、先に答えられる。

 彼女は答えつつ、俺の描いているキャンバスを眺めふっと笑った。

「先輩、本当に私のこと好きですね」

「……うるせえよ」

「こんなの描いていると女の子が近づいて来ないですよ」

 にこにことした笑みをこちらに向けてくる。

 わかってて言ってるだろ、こいつ。

「さて、先輩。答え合わせです」

 そう切り出した彼女の言葉に、俺は何も言わずに頷く。静かな部屋に、彼女の声が心地よく響く。まるで、あの教室に二人でいた頃に戻ったみたいだった。

「先輩の想像通り、私は本来この時代に生きる人間です。不思議に思っているでしょうね。未来から来たもの同士が過去で偶然親しい間柄になるなんて、と。そんな上手い話があるとしても天文学的な数字ですよね。だからこれは偶然じゃないんですよ。私が追いかけて行ったんです」

「追いかけた? どうして?」

「どうしてって、先輩が急にいなくなるからですよ」

 答えになっているようでなっていない気がする。ということは、俺が知る前から俺のことを知っていたってことだよな。一体どこで……?

「先輩を追って過去へ渡り、私はそこで幸せな時間を過ごしました。もう少し続くと思っていたのに、いきなり未来へ戻るって言い出すんだから驚きましたよ」

「そりゃあ、俺はお前が未来から来ていることを知らなかったんだから仕方ないだろ。それに、俺が見たいと過去を行き来するのにお前がついて来る意味が分からない。いや、未来に戻って来た理由はわかるか……」

 俺は顎に手を当てて考え込む。

 考えていると、意識の外から小さな衝撃が飛び込んできた。ぺちっという音とともに、何かが俺の額を弾いた。驚いて彼女の方を見ると、彼女は手をデコピンの形にしてもう一度空で弾いて見せた。

「そんなの、好きだからに決まってるじゃないですか。先輩が私のことを好きになるずっと前から、私は先輩のことを好きでしたよ」

 満足そうに笑う彼女の顔を見て、何だか疑問に思っていたことがどうでもよく思えて来た。今は理由がどうとかより、胸の底から湧き上がる感情に素直に従うべきなのかもしれない。

 三年の月日が生んだ溝なんて、そこにはなかった。

 届かないはずのものは再び俺の前に現れたのだ。止まっていた時間が溶け出す。温かい感情が彼女に対する思いとともに心の中に流れ込んできた。

「おかえり」

「ただいま、先輩」

 あの日と同じように俺たちは笑う。

 これから幾度も言葉を交わして、互いに傷つけあうこともあれば、こうして笑いあうこともあるだろう。ずっと探していたものは、ちゃんと自分の生きる時代に存在していた。俺は彼女の影を追いかけ、彼女は俺をずっと追いかけて来た。

 きっと、これからもずっと互いに互いを追いかけ続けるのだ。

 俺はおもむろに彼女の手を掴んで、自分に向けて引っ張った。彼女もその意図に気がついたのか、俺に身を任せる。

 物語の続きが始まる音がした。

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