最終話 告白
ひかりが息を切らして美術室に駆け込んだときには、もう誠司の姿はなかった。
そこにはただ、教室に射し込む夕日に照らし出されたイーゼルとキャンバスが長く影を伸ばしていた。
そして、後悔を滲ませ立ち尽くすひかりに向かって、教室の一番奥の窓際にいた人影が声を掛けた。
「やっと一人帰ったと思ったらまたお客さんか、もう閉めようと思ってたのにいつまで俺を帰らせない気なんだ」
部屋の隅でタバコを吹かしていたのは顧問の島田だった。
「すみません。高木君に用があったんです」
島田はふっと窓の外に煙を吹いてから、携帯の灰皿で煙草を消した。
「さっき帰ったよ。惜しかったな」
ひかりは目を伏せて唇を固く結ぶ。
「失礼しました」
肩を落として教室から出ようとするひかりを島田は呼び止めた。
「お前たちややこしいな。もうちっとお前たちの年頃は真っ直ぐ突き進むんが自然だと思うんだがな」
島田は夕日に照らされたキャンバスに目を向けた。
「時任、これだけ見て帰れ」
そう言うと島田は、ひかりをまだ絵の具の匂いが残るキャンバスの前に立たせた。
「あいつやっとそれを描き上げて、お前を待ってたんだがな」
ひかりはキャンバスに向き合った瞬間に息を吞んだ。
「これは……」
そこに描かれていたのは、夕日を浴びて全身で跳躍する美しい少女の姿だった。
流れる汗や息づかいまで、その一瞬の輝きを閉じ込めたようなその絵。
夕日を集める長い髪をなびかせ、まばゆい光を全身にまとうかのように少女は空を舞っていた。
その姿はどこまでも気高く、今まさに地上の束縛から解放されて、本当の自由を手に入れたかのようだった。
なんて綺麗な絵。
そして……。
これは私。
いつも跳ぶ時は必ず髪を束ねる。でも、そう、たった一度だけ。
二年生の時、臨んだインターハイの決勝。最後の跳躍で踏切線を越えてしまい失格になったあの日。
解散後の誰もいないグラウンドでたくさん泣いた後、たった一度だけ髪を束ねることなく跳んだあの時の私だ。
「あいつの一年越しの作品だよ」
島田のひと言で誠司がずっと前から自分のことを見続けてくれていたことをひかりは知った。
「もう少しで完成って時に、手をやっちまってそのままだったんだが、このところ毎日残ってとうとう描き上げやがった。あんまり褒めない方なんだがあいつ良くやったと思うよ」
島田の言葉にはこの手のかかる生徒への思いが詰まっているようだった。
「いい絵だろ」
感慨深げに、島田は大きく深く息を吐いた。
「あいつはほんと不器用で、絵の中にしか自分の思いを表現できない奴なんだ」
ひかりは美しすぎる絵画に目を奪われながら、島田の言葉に耳を傾ける。
「憧れ、もどかしさ、どうしようもなく離れがたい執着」
島田はそのキャンバス中に秘められたものが見えるかのように、絵の中に刻まれた少年の想いを順番に言っていった。
「時任、この絵はあいつの胸にある何もかもが詰まった心の中の色そのものなんだ。どうか本当のあいつをよく見てやってくれないか」
ひかりは胸を締め付けられるような気持でキャンバスの前に佇む。
本当に美しい絵だった。でもひかりにはとても悲しい絵に見えた。
絶対に失いたくないものを傷つけないために手放そうとしているかのような絵。
ひかりの胸の中に、少年と共に過ごした日々が次々に甦ってくる。
一緒に食べた夏蜜柑。二人で歩いた並木道。おいしいといつも言ってくれたお弁当。
離れがたい大切な時間の一つ一つに別れを告げるようにひかれた線。
あの人はどれだけの痛みを感じながらこの線を描いたのだろう。
高木君……。
思うように筆も握れない手で、この絵を描いている姿がひかりの目にはっきりと浮かぶ。
ひかりの目から涙がこぼれ落ちた。
「私のせいで、私のせいで高木君あんなに苦しんで」
島田は
「そうだな、あいつは確かに苦しんでる。それは本当のことだ……でもな……」
そして島田の次の言葉で、ひかりは少年の心の本質に触れたのだった。
「あいつはな、そのことに少しも後悔はしてないんだよ。お前の為だったらきっと何度だって同じことをするだろう」
ひかりは両手で顔を覆う。あふれ出る涙はもう止まらなかった。
「さあもう教室閉めるぞ。お前ら二人揃っていつまで俺を残業させるつもりだ……あ、そうだ、確かバスの便だいぶ遅れてるらしいぞ」
そして島田は静かだが力強い言葉でひかりの背中を押した。
「今のお前だったらあいつに追いつけるんじゃないか」
ひかりは涙でくしゃくしゃになっていた顔をあげた。
「私、行かないと」
迷いを振り切ったひかりは部屋を飛び出した。
「ありがとう先生」
そう言い残して、振り返りもせず走りだしたひかりを見送りながら島田はつぶやく。
「廊下走るなよってホントは注意しないといかんのだけどな……世話の焼ける連中だよまったく」
開け放った窓から涼しい風が舞い込んで、教師の独り言はすぐに消えてしまった。
ひかりは走る。
あの絵のように長い髪をなびかせて。
躊躇いも後悔も、何もかもを追い越して、あの優しい笑顔を浮かべる少年に追いつくために。
廊下で座り込んで泣いている楓を見つけて勇磨は駆け寄った。
「どうした? なんかあったのか?」
楓は勇磨の顔を見るなり、またしゃくりあげて泣きだした。
「ごめんなさい。私言っちゃった。ひょっとしたら取り返しのつかないことしたかも知れない」
「言ったって、誠ちゃんのことか? 誰に?」
「ひかりに……」
「やっちまったか」
勇磨は楓の隣に胡坐をかいて座った。
「しゃーない。もう後はあいつら次第だ」
そこへ美術室を閉めてきたばかりの島田が通りがかった。
「なんだお前らどうした?」
楓は事情を話した。
「私黙っとこうと決めてたのについ。ごめんなさい」
元気のない楓の肩を島田はポンと叩く。
「それでいいんだよ」
島田の口調は優しかった。
「お前たちは思ったままに走り出していいんだ」
島田のひと言で、楓は涙に濡れたままの顔を上げた。
「俺たち大人はついお前たちにその時の最良の道を選ばせてやりたくなる。でもそれが正解かなんて本当は誰にも分からない。難しいことは社会に出てから色々考えりゃいいことだ」
島田はもう泣くなと笑顔を見せた。
「お前たちはその時々に感じて悩んで決めて、誰かに指示されることもなく自分で走り出していいんだ。だから橘、お前が決めて走り出したんならそれでいいんだよ」
島田はそれだけ言って、早く帰れよと残して職員室に戻っていった。
誠司は一人、バス停に向かう並木道を歩いていた。
夕日を厚い雲が覆い光を遮る。
何度もひかりと歩いた道。
ふっと現れて、はにかみながら荷物をそっと手に取る姿を思い出す。
ひかりは結局、誠司の前に姿を見せなかった。
ひかりにこの手のことを気付かせないために、ずっと自分から距離を取っていたのに急に呼び出したのだ。
来てくれないのも当然だと、そう思った。
お礼として受けとって欲しかったあの絵。
本当の気持ちを一つ一つの線に乗せて描いた。
きっともうあの子の目に触れることはないのだろう。
行き場を失った思いを抱え、誠司はかつてこの並木道をひかりと歩いた日々の輝きを胸にしまった。
これで良かったんだ……。
そうつぶやく誠司の胸に、また切ない痛みが広がっていく。
雲が切れ夕日が誠司を再び照らし出す。
その時だった。
た、た、た。
緩やかな坂を駆ける音。
た、た、た。
近づいてくる。
そして振り返る。
誠司は知っている。
もう覚えてしまったあの足音。
手に触れられそうなあの息づかい。
黒髪は大きくなびき夕日を集める。
誰も追いつけない、誰も触れられない。夕日を集め光をまとう一陣の風のような少女。
真っ直ぐに駆けてくる。
どうして涙を……。
そう思うより先に、ひかりは誠司の胸に飛び込んできていた。
甘い夏蜜柑の匂い。
黒髪は腕に集まる。
鼓動が伝わる。
細い肩が誠司の腕の中で上下する。
「はあ、はあ、はあ……」
肩で呼吸をしながらひかりは声を出そうとする。
「……遅くなって……ごめんなさい」
受け止めた誠司の腕の中で、ひかりはそのまま呼吸を整える。
そして少し呼吸が落ち着いて、ひかりは誠司の胸に顔をうずめたままこう言った。
「好きなの」
誠司の胸の中であふれ出るようにひかりの口から出た言葉。
「好きなの……ただ、大好きなの」
ただ必死に、ひかりは心の内をさらけ出すようにそう口にした。
「高木君を放したくない」
そしてさらに強く誠司の胸に顔をうずめる。
「私だって」
ひかりが顔をあげる。
涙で濡れたひかりの顔を夕日が照らし出す。
誠司は初めてこんな間近でひかりを見た。
「私だって、高木君のためだったらなんだってできるの」
その言葉で、もうひかりが全てを理解してしまったことを誠司は知った。
そして誠司は、ずっとずっと今まで胸にしまい続けてきた想いと同じ言葉がひかりの口からあふれ出したことで、自分と同じ胸の痛みをひかりも抱えていたことに気付いたのだった。
そしてそれは、ひかりの気持ちに気付かず遠ざけてしまったことで、誠司自身が知らず知らずのうちに大切なひかりを深く傷つけてしまっていたということだった。
「そんな……」
ひかりの涙を受け止めて誠司の胸は締め付けられる。
「ごめんよ……俺はどうして……何よりも君を大切にしたかったのに……」
「いいの。高木君の気持ちもう分かってる……もういいの……」
「駄目だよ」
誠司はひかりの肩を抱いた。
そして誠司は躊躇いを振り切る。もう二度とひかりを傷つけないために。
「ちゃんと言葉で伝えないといけないだ」
誠司はひかりをまっすぐに見つめる。二人の頬が夕日に染まる。
「好きなんだ」
誠司のずっと言いたかった一言だった。
「君のことを諦めようと思った……でも、どうしても……」
溢れ出そうとしているものの大きさに、誠司は言葉を詰まらせる。
「君を忘れるなんて……できなかった……」
堰を切った様に誠司の目からポロポロと涙が溢れ出した。
やがて涙で頬を濡らしたまま、少年は飾らない心からの言葉を少女に伝えた。
「ただ君が大好きなんだ」
誠司はひかりの全てを包み込むように抱きしめた。
そしてひかりも誠司の想いに応える。
これから一生忘れることのない景色を今、二人はお互いの肩越しに見ている。
この胸からあふれ出るような切ない感情も、この確かなぬくもりも、この景色を思い出すたび夏蜜柑の匂いと共に鮮やかに甦るのだろう。
夕日が照らし出す二人の長い影は、お互いの想いを結ぶように重なりあい、そのまましばらく離れることはなかった。
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